chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
簾満月のバスの助手席 https://blog.goo.ne.jp/sudare-m

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
フォロー
住所
東区
出身
愛知県
ブログ村参加

2010/04/02

arrow_drop_down
  • 清洲古城跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

    関西方面から東海道新幹線で東京方面に向かう時、列車が東海道本線と接し、車内では名古屋到着を告げる放送が始まらんとする頃、車窓左手に一瞬小さなお城が見える。しかし車窓はアッと言う間で、直ぐにキリンビールの工場に変わってしまい、うっかりしていると見逃してしまいそうだが、これが清洲(清須)城である。今日の淸洲城跡は、この清洲城のある本丸ゾーンと、五条川の対岸の「清洲古城跡公園」と、東海道本線と東海道新幹線により分断された北側の「清洲公園」の三つに分割されて広がっていてその中心を成すのが、車窓からも見える清洲城だ。江戸時代初期、清洲越しが行われ町は人口が激減し寂れ、農民だけの寒村となってしまった。城も解体され、名古屋城築城の建築資材に流用され、廃城となり何も無くなった。因みに名古屋城の西南角に残る隅櫓は、「清洲櫓...清洲古城跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 淸洲越し(東海道歩き旅・尾張の国)

    信長の天下布武の礎となった清洲は、尾張の中心的な場所であるが、東海道筋からは北に大きく外れ、低湿地帯で水害が多かった。地の利の悪い清洲を、常々憂慮していた家康は、慶長17(1612)年、名古屋に新城を築くことを決意する。政情が不安定な時期で、西国の大名に対する備えとしての城である。この時期に敢て本拠を変えるのは、不便でもあったが、一方では信長・秀吉が活躍した場を払拭する思いが有ったとも言われている。完成を機に、清洲の町をまるごと名古屋に引っ越すことが決まった。世に「清洲越し」と言われるものだ。武家はもとより町人まで、家屋敷から家財道具一切合切を運び出させ、これに従う住民を優遇し、城下の中心に住まわせる算段である。神社仏閣から商店に至るまで引っ越した為、人口六万人を誇った清洲の町は、農民だけが残り一瞬で寂れ...淸洲越し(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 清洲(清須)城(東海道歩き旅・尾張の国)

    時はまさに戦国時代、若き日の織田信長は近世的な城をここに築いた。生まれ育った那古野城(諸説有り)から新城に移り住み、本拠と定め地名に因み「清洲城」とした。近くを流れる五条川を巧みに利用し、内堀・外堀を設け、城下町の外郭の要衝には土塁を巡らせていた。城を中心に武家屋敷や、町民町、寺社町が発展していたらしい。信長は、凡10年間ここを本拠地として活躍した。桶狭間の合戦では、僅か六騎の股肱の臣を従えただけで進軍し、今川氏を撃破した。天下統一を目指した信長であったが、本能寺の変で明智光秀の謀反にあい、敢えなく野望は断ち切られることになる。信長の死後、ここで城の相続が話し合われている。世に言う「清洲会議」では、信長の次男、織田信雄の相続に決まった。相続した信雄ではあったが、小田原征伐の折豊臣秀吉の怒りに触れ除封される...清洲(清須)城(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 尾張の中枢・清洲(東海道歩き旅・尾張の国)

    「清須」は愛知県の北西部に位置する市で、名古屋の中心部からは北に数キロ程離れている。五條川流域の沖積平野に開けた町で、周辺は庄内川や新川の下流域に近い辺りに位置している。地形は平坦で山や丘など高所に乏しく、殆どが土砂の溜まった海抜10m未満の土地である。昔から大河は無いが、中小の川が多く流れ、相対的に海抜の低い低湿地帯である。是までも度々水害が発生した土地柄で、近年でも東海豪雨の折には新川の堤防が決壊し、大きな被害が発生している。地名は「キヨス」で、一般的には「清須」の字が多く見受けられる。一方古くから「清洲」と書かれることも多々有り、今でも混在している。平成の大合併では、近接する枇杷島町、清洲町、新川町が合併し(後に春日町を編入)、人口6.7万人余りの「キヨスシ」となった。漢字の表記は、「清須市」が用い...尾張の中枢・清洲(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 尾張徳川家の大名道具(東海道歩き旅・尾張の国)

    時間に余裕のない事を承知で、「徳川園」を訪ねて見たが、予報通り天気が急変し生憎の本降りの雨と成ってしまった。足元も悪く、早々に園の散策を切り上げ、容赦なく降り続ける雨を避け、併設の「徳川美術館」にも立ち寄って見る。尾張徳川家は、愛知県西部一帯を支配し、石高は61万9500石だ。徳川御三家の筆頭と言われ、初代藩主は家康の第九子・義直である。御三家には重要な役割があった。将軍家に跡継ぎがいない時は、将軍の後継者を出す資格があったが、尾張徳川家にはついにその機会は巡っては来なかった。第7代藩主・宗春の時代には自由で放任的な政策がとられ、城下町に繁栄がもたらされ、「芸どころ名古屋」と呼ばれるきっかけに成った。時は第8大将軍・吉宗が進める質素倹約の時代で、それに反する宗春は後に、隠居謹慎を命じられることになる。こん...尾張徳川家の大名道具(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 尾張徳川家の別邸(東海道歩き旅・尾張の国)

    名古屋城の真東、三キロほど離れた東区徳川町に「徳川園」が有る。尾張藩二代藩主光友が、元禄8(1695)年、隠居所として自ら造営した、敷地面積約13万坪(44㏊)という広大な屋敷跡である。江戸幕府が大政奉還をした明治以降は、尾張徳川家の子孫の邸宅となっていたが、昭和の初め名古屋市に寄付されたのを期に改修整備され、「徳川園」として一般公開された。平成には大規模な改修も行われ、新しい日本庭園として生まれ変わった。舟を浮かべたという、大池を中心とした池泉回遊式の日本式庭園で、典型的な大名庭園だ。樹木や花木が豊富な園内は、四季折々様々な顔を見せ、格好の撮影スポットとしても知られ、特に結婚式の前撮りでの利用も多いという。高低差のある地形をそのまま生かして造られ、滝から渓谷に流れ落ちた清流が、海に見立てた池に流れる様を...尾張徳川家の別邸(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 水を呼ぶ鯱(東海道歩き旅・尾張の国)

    名古屋城と言えば、天守大屋根の上に輝く金の鯱が有名だ。築城当時は金の純度が80%で、純金にすると200㎏以上使われ、小判にすると17,975両分に相当するもので有った。その燦然と輝く様は、東海道や佐屋道、美濃街道を行く旅人、七里の渡しの舟上からも認められたという。名古屋城は、明治維新の廃城令を生き延びた。昭和5(1930)年には、城郭として初めて国宝に指定されている。しかし先の大戦で戦禍に遭い、昭和20(1945)年あえなく何もかもが焼失してしまう。幸い鯱の一部は焼け残り、残骸は戦後GHQが接収し、後大蔵省を経由して名古屋市に返還された。市はその残骸から金を取り出し、市民に見える形にしようと、市旗冠頭と茶釜に加工し保存した。戦後になり昭和34(1959)年、市民の気運も高まり天守は復元されることになった。...水を呼ぶ鯱(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 東海道の要塞(東海道歩き旅・尾張の国)

    那古野(なごの)には、古くから今川一族が築いた城が有った。天文年間には織田信長も居を構えていたが、清須に移った後、その跡を継いだ叔父の信光が死ぬと廃城になっている。この那古野こそ、現在の名古屋城の発祥の地である。大坂と江戸を結ぶ東海道の、防御を固める名古屋の築城は、巨大な軍事要塞を造る一大プロジェクトであった。公儀普請として、西国の二十大名にそのお手伝いが下命された。恐らく公金だけでは賄えず、お手伝い普請は、有力大名の力をそぎ落とす狙いも有ったようだ。守りの要の石垣は、丁場割図により細かく作業場が割りふられた。その石は、全国から集められた巨石を用いて築かれている。風雲は急を告げていたのであろか、工事は慶長15(1610)年6月から始まり、翌年の9月にはほぼ完成する突貫工事であった。慶長17(1612)年、...東海道の要塞(東海道歩き旅・尾張の国)

  • ルートの変遷(東海道歩き旅・尾張の国)

    中世以降、東海道の吉田宿(現豊橋)以西のルートが度々変更されたのは、時代と共に生まれた信長・秀吉・家康に代表される尾張・三河の支配者の存在や、その支配地域の位置的な関係にもよるが、地勢的な要因も大きかったようだ。特に鈴鹿山脈の峠越ルートは度々変わっていて、これまでは美濃周りのルートも多用されている。急峻な鈴鹿峠を越えるより、比較的容易な関ヶ原を抜ける道が好まれていた。米原・関ヶ原は冬の積雪が多く、通行に困難を来す事もあるが、後のの東海道ルートに比べると二日ほど行程が短縮されるメリットは大きかったようだ。また峠越もさることながら、今より大きく北に入り込んだ伊勢湾をどうのり越えるかも問題であった。更に尾張と美濃の境付近に流れ込む暴れ川と言われた、木曽三川の下流域の状況は、当時の渡船や架橋の技術の事も有り、街道...ルートの変遷(東海道歩き旅・尾張の国)

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、修ちゃんさんをフォローしませんか?

ハンドル名
修ちゃんさん
ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
フォロー
簾満月のバスの助手席

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用