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ヴァリアントユニバーシティー 三輪有子さん https://blog.goo.ne.jp/samusamusamu_1980/

ヴァリアントユニバーシティー学生による つれづれなる記事

歴史、文学などに関してのつれづれなる記事を書いていきたいです。

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2009/04/15

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  • 足利義輝、上杉謙信を上洛させようと考える

    藤考はそのころ京都で将軍、足利義輝のそばに仕えていた。義輝は、三好長慶の死を実権をとりもどす絶好のチャンスと考えた。だが、三好家の後を継いだ三好義継はまだ少年だったので、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であったためこの名で呼ばれた)が三好家を牛耳り、将軍も相変わらず傀儡でしかなかった。義輝は、数年前に上洛して自分の一字を与えた越後の上杉輝虎(謙信)のことを思い出していた。義や誠を重んじて、幕府や足利将軍家に対する忠誠や敬意を持ち、天下一といわれるほどの戦上手で、戦術の天才である彼を京都へ上洛させ三好と松永を討伐させようと考えていた。使者を送ったところ、輝虎は大いに乗り気でいるようだった。義輝は、彼ほど頼れる人間はほかにはいない、これで三好と松永を除いて、...足利義輝、上杉謙信を上洛させようと考える

  • 三好長慶の死

    1564年(永禄7年)三好長慶は41歳の若さで亡くなった。足利将軍や細川管領を傀儡にして、京都にあって幕府の実権を握り、四国、近畿地方に一大勢力を築き、一部からは「天下人」とまで言われ、連歌や禅をまなび芸術や学問にも造詣が深く、実権をにぎりながらも、足利将軍を尊重する態度を失うことはなかった。だが、息子や兄弟、一族に先立たれ、家臣の松永久秀の本性を見抜けず、信頼し、領内の統治を任せてしまい、連歌など風流ごとに入れ込んでしまうなど、失意の晩年だった。三好長慶の死

  • 古今伝授へのみちのり

    父親の足利義晴が京都を追われていて、近江に逃れ、その地で義輝は征夷大将軍に就任した。三好長慶と和睦して、一度は京都に戻ることになったが、幕府の実権は三好長慶と松永久秀がにぎり、将軍は傀儡でしかなかった。義輝は、三好、松永を排除しようとしたが、敗れて京都を逃げなければならなかった。そこが近江国の朽木であった。5年ぶりに、再び三好と和解して、再び京都に戻ることになった。藤考は義輝に従い、忙しい合間を縫って、歌を学んでいた。いつか和歌の聖典とも言われている「古今和歌集」の秘伝の伝授「古今伝授」を受けたいと思っていた。しかし、義輝が京に戻れたといっても、実権は相変わらず三好と松永が握っており将軍の実権回復を目指す義輝との対立は収まりそうもなく、当分はその余裕はなさそうだった。にほんブログ村にほんブログ村古今伝授へのみちのり

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