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ヴァリアントユニバーシティー 三輪有子さん https://blog.goo.ne.jp/samusamusamu_1980/

ヴァリアントユニバーシティー学生による つれづれなる記事

歴史、文学などに関してのつれづれなる記事を書いていきたいです。

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2009/04/15

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  • 再開にあたって。

    かれこれ一年近くもブログの更新も怠ってきましたが、また再開いたします。引きつつづき、細川藤考を中心に書いていきますので、またよろしくお願いいたします。再開にあたって。

  • 松永久秀 大仏殿炎上

    覚慶(義昭)をつれて、藤考の室町幕府と足利将軍家再興のための、まさに苦難の旅がこれから始まる。足利義輝を殺した後、いとこに当たる足利義栄を将軍に担ぎ上げようとしていた松永久秀と三好三人衆だったが、主導権争いから、松永、三好での争いとなる。大和の国で、三好勢と松永勢とで戦闘になったときに東大寺大仏殿が炎上する事件がおこる松永久秀が三好を攻撃するために大仏殿を焼き払ったと噂され、松永はますます悪名を高めた。戦闘中の事故とも、どさくさにまぎれて仏教に敵対的だったキリシタンが火をつけたという説もあったが、とにかく奈良の大仏は焼けて灰となってしまった。にほんブログ村にほんブログ村松永久秀大仏殿炎上

  • 奪還

    覚慶を監視している、松永の兵たちも、当初は「仮病ではないか?」と疑っていたが日に日にやせ衰えている様子を見て、本当に病気であると信じるようになった。そこで、覚慶が病気回復祝いとして、皆に酒をふるまったために、彼らは大喜びして酒をたらふく飲んだ。すっかり良い気分になった兵士たちは、夜になるとみ眠り込んでしまった。そのすきに、覚慶は脱出に成功した。松永、三好の兵を欺くために絶食していて足腰が立たなくなってしまっていたため、藤考が背負って逃げた。にほんブログ村奪還

  • 覚慶(義昭)奪還作戦

    松永、三好たちによって義輝の同母弟、藤考の異母弟である覚慶(足利義昭)は奈良で幽閉されてしまっていた。藤考と兄の三淵藤英達は、厳重な監視体制下にある覚慶を脱出するための作戦をたてる寺に出入りを許されていた医者を密かに味方につけて、連絡役として、覚慶に病気を演じさせたのだった。覚慶は松永、三好の兵達を油断させるために、絶食して自らの体を弱らせることまでした。にほんブログ村にほんブログ村覚慶(義昭)奪還作戦

  • 細川物語、再開の前に

    細川幽斎、藤孝の物語、長いこと中断しておりましたが、また再開させていただきたく思っております。毎日は難しいかもしれませんが、定期的に彼の生涯を、調べながら書いてくつもりでおります。細川藤孝という人は、戦国の武将としてはそれほど認知度が高いわけではないでしょうか、彼の生涯を知るにつれて、とてつもなく魅力を感じ、ひかれていったのですが、自分は小説、映像化の脚本は書けないので、このようにブログでつづっていこうと思いました。今後は、三天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、盟友、明智光秀、宿敵松永久秀息子、細川忠興、嫁、明智たま(細川ガラシャ)などのことも書いていくつもりです。細川物語、再開の前に

  • もう一人の弟

    大和の興福寺に出家した義輝の弟である覚慶がいたが、三好、松永に捕えられて幽閉されていることを藤考は、兄の三淵藤英から聞いた。三淵藤英は藤考とは実際の血のつながりはないが、兄弟として子供の時から過ごしてきた。藤考とは違って、感情の起伏の激しい、武勇に優れるが血気にはやるところもある人物だった。ともに覚慶を助け出して、将軍職につけ、再び室町幕府の再興を目指そう。三好、松永は四国から、義輝のいとこにあたる足利義栄を呼び寄せ、将軍にしようとしているようだが、義輝の弟である覚慶こそが将軍にふさわしい。藤考は、義理の兄の話に心を動かされた。義輝のもう一人の出家していた弟は殺された。今は幽閉されているとはいえ、覚慶もどうなるかわからない。将軍になる気があるか、ないかは本人次第だが、まず命だけは助けねば。藤考はもう一人の弟を救...もう一人の弟

  • 将軍の最期 藤考の悔い

    永禄8年5月19日(1565年6月17日)、京の二条御所を松永、三好の兵が包囲して義輝を襲撃した。義輝は、三好、松永の軍勢を相手に、畳に刀を何本もあらかじめ突き立てておき、血で刀が斬れなくなった時には、その刀を捨て、新しい刀を抜いて、一人で数十名の兵を斬って、奮戦したが、最後は力尽きて殺された。藤考はその時、義輝の元を離れていたが、その知らせを聞いたときには、もう手遅れになっていた。藤考は自分の腹違いの弟でありながら、これ以上の人物はいないとまで思われるほどの主を失ってしまう。彼は義輝の危機にかけつけられなかったことを死ぬほど悔やんだ。にほんブログ村にほんブログ村将軍の最期藤考の悔い

  • 足利義輝、上杉謙信を上洛させようと考える

    藤考はそのころ京都で将軍、足利義輝のそばに仕えていた。義輝は、三好長慶の死を実権をとりもどす絶好のチャンスと考えた。だが、三好家の後を継いだ三好義継はまだ少年だったので、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を指す。いずれも三好氏の一族・重臣であったためこの名で呼ばれた)が三好家を牛耳り、将軍も相変わらず傀儡でしかなかった。義輝は、数年前に上洛して自分の一字を与えた越後の上杉輝虎(謙信)のことを思い出していた。義や誠を重んじて、幕府や足利将軍家に対する忠誠や敬意を持ち、天下一といわれるほどの戦上手で、戦術の天才である彼を京都へ上洛させ三好と松永を討伐させようと考えていた。使者を送ったところ、輝虎は大いに乗り気でいるようだった。義輝は、彼ほど頼れる人間はほかにはいない、これで三好と松永を除いて、...足利義輝、上杉謙信を上洛させようと考える

  • 三好長慶の死

    1564年(永禄7年)三好長慶は41歳の若さで亡くなった。足利将軍や細川管領を傀儡にして、京都にあって幕府の実権を握り、四国、近畿地方に一大勢力を築き、一部からは「天下人」とまで言われ、連歌や禅をまなび芸術や学問にも造詣が深く、実権をにぎりながらも、足利将軍を尊重する態度を失うことはなかった。だが、息子や兄弟、一族に先立たれ、家臣の松永久秀の本性を見抜けず、信頼し、領内の統治を任せてしまい、連歌など風流ごとに入れ込んでしまうなど、失意の晩年だった。三好長慶の死

  • 古今伝授へのみちのり

    父親の足利義晴が京都を追われていて、近江に逃れ、その地で義輝は征夷大将軍に就任した。三好長慶と和睦して、一度は京都に戻ることになったが、幕府の実権は三好長慶と松永久秀がにぎり、将軍は傀儡でしかなかった。義輝は、三好、松永を排除しようとしたが、敗れて京都を逃げなければならなかった。そこが近江国の朽木であった。5年ぶりに、再び三好と和解して、再び京都に戻ることになった。藤考は義輝に従い、忙しい合間を縫って、歌を学んでいた。いつか和歌の聖典とも言われている「古今和歌集」の秘伝の伝授「古今伝授」を受けたいと思っていた。しかし、義輝が京に戻れたといっても、実権は相変わらず三好と松永が握っており将軍の実権回復を目指す義輝との対立は収まりそうもなく、当分はその余裕はなさそうだった。にほんブログ村にほんブログ村古今伝授へのみちのり

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