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2009/04/07

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  • 秩父鉄道長瀞駅~秩父駅。その1。岩畳。(「荒川」を遡る。第8日目。)

    5月29日(土)。晴れ。蒸し暑い一日。今回は、長瀞から秩父まで。荒川左岸をできるだけ。長瀞の人出は思ったよりも少ない。秩父鉄道・熊谷から長瀞までの車内もほとんど乗客がいない。帰りは、秩父から西武線乗り入れで、池袋まで。その車内もほとんどいない。が、JR池袋駅構内はでは人がたくさん。というわけで、自粛生活、1ヶ月。最寄り駅もバスもない、蒸し暑い中を歩きました。長瀞駅。何十年ぶりかに岩畳に。岩畳への道。商店の方も暇そう。駅方向。観光案内板。船着場付近。観光地としても名高い長瀞は、旧親鼻橋から旧高砂橋までの荒川の両岸が国指定の名勝・天然記念物になっています。中でも岩畳や秩父赤壁が有名です。川の水が深くて流れが静かな所を「瀞(とろ)」といい、長瀞の地名の由来にもなっています。荒川は、この岩畳一帯で青く淀んだ瀞になって美...秩父鉄道長瀞駅~秩父駅。その1。岩畳。(「荒川」を遡る。第8日目。)

  • アジサイ。タチアオイ。小さな草花(ドクダミ、ムラサキカタバミ・・・)。皆既月食。(青戸三丁目団地広場)

    タチアオイ。昨年6月中旬に比べると、満開にはとはいきませんが。今年も早々にアジサイやタチアオイが色とりどりの花を咲かせ始めました。昨日の雨に濡れた花びら。雫がまだ。ガクアジサイ。カシワバアジサイ。カシワに似た形の5~7つに深く裂けた葉、円錐形の花房が特徴。「水戸街道(国道6号線)」沿いで見かけたカシワバアジサイ。ドクダミ。名前が気の毒ですが、可憐な花を咲かせます。ドクダミの名称は、民間薬として毒下しの薬効が顕著であるので、毒を抑えることを意味する「毒を矯(た)める」から、「毒矯め(ドクダメ)」が転訛して「毒矯み(ドクダミ)」と呼ばれるようになったというのが通説である。異説として、「毒痛み」の意味で毒や痛みに効くことから名付けられたという説、群落地に漂う特有の臭気から毒気が溜まった場所を意味する「毒溜め(ドクダメ...アジサイ。タチアオイ。小さな草花(ドクダミ、ムラサキカタバミ・・・)。皆既月食。(青戸三丁目団地広場)

  • 続「歌舞伎鑑賞教室」。その4。「義経千本桜」のうち「渡海屋、大物浦の場」。片岡仁左衛門。中村勘九郎。市川左團次。歌舞伎座。

    九州へ逃れるため、義経一行は大物浦の渡海屋で出船を待っています。しかし、渡海屋の主人銀平は、実は壇ノ浦の合戦で死んだはずの平知盛。女房のお柳は典侍の局、娘お安は安徳帝で、義経を待ち伏せていたのです。知盛は船出した義経一行を襲いますが、返り討ちに。帝の身を守護するという義経の言葉に安堵した典侍の局は自害、知盛も帝を義経に託すと、瀕死の体に碇綱を巻きつけ、海中へと身を投げるのでした(「」より)「渡海屋内の場」。中村勘九郎(当時)魚の名などを入れ込んだ掛け合いが面白い。義経(中村福助)一行の出立。すると銀平(実は知盛の亡霊=こういう設定が歌舞伎らしい)が装束をただして片岡仁左衛門。「大物浦の場」。幕が揺れ、荒海に。左は弁慶(左團次)。碇綱とともに海中に身を投げる。壮絶かつ豪快な場面。歌舞伎らしい迫力満点。この場面は何...続「歌舞伎鑑賞教室」。その4。「義経千本桜」のうち「渡海屋、大物浦の場」。片岡仁左衛門。中村勘九郎。市川左團次。歌舞伎座。

  • アジサイ。タチアオイ。「隅田川渡しの跡」碑。平成中村座。(隅田公園)。

    今日のアジサイ。・・・やはり梅雨時に映える花。昨年は6月中旬頃に立ち寄りましたが、きせつの変化が早い(関東地方は?)のか、アジサイも五分咲き以上に。そこで、隅田公園(浅草側)まで。隅田公園の台東区側にはたくさん植えられています。アジサイに関わって、たくさんの一言。いろんな種類のアジサイが。去年は「タチアオイ」がたくさんありましたが、今年はほとんど見かけません。去年のようす。「梅雨葵」とも言われます。スカイツリー。「山の宿渡し跡」碑。隅田川渡船の1つに、「山の宿の渡し」と呼ぶ渡船があった。明治40年(1907)発行の「東京市浅草区全図」は、隅田川に渡船を描き、「山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云」と記入している。位置は吾妻橋上流約250メートル。浅草区花川戸河岸・本所区中ノ郷瓦町間を結んでいた。花川戸河岸西隣の町名を、「...アジサイ。タチアオイ。「隅田川渡しの跡」碑。平成中村座。(隅田公園)。

  • 続「歌舞伎鑑賞教室」。その3。「与話情浮名横櫛」。尾上菊五郎。坂東玉三郎。サンシャイン劇場。木更津。

    今回は、去年歩いた「房総往還」。その木更津にちなんで。池袋に「サンシャイン劇場」が開場された頃の上演でちょっと古く、さらに観客の咳やくしゃみがけっこう気になる録画ですが、菊五郎も玉三郎もまだまだ若く、溌剌と演じています。与話情浮名横櫛あらすじ江戸の大店伊豆屋の若旦那(じつは養子)の与三郎は故あって身を持ち崩し、木更津の親類に預けられていた。春の潮干狩りの時分、木更津の浜をぶらついていた与三郎はお富とすれ違い、互いに一目惚れしてしまう(序幕・木更津浜辺の場)。ところがお富は、地元の親分赤間源左衛門の妾だった。その情事は露見し与三郎は源左衛門とその手下にめった斬りにされるが、源左衛門はこの与三郎をゆすりの種にしようと、簀巻きにして木更津の親類のもとへ担ぎ込もうとする。いっぽうその場を逃げ出したお富は赤間の子分の海松...続「歌舞伎鑑賞教室」。その3。「与話情浮名横櫛」。尾上菊五郎。坂東玉三郎。サンシャイン劇場。木更津。

  • 続「歌舞伎鑑賞教室」。その2。「勧進帳」。二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎。

    「壽初春大歌舞伎」松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎襲名披露(「高麗屋三代襲名披露公演」)。平成30年1月2日開幕歌舞伎座。当時、親・子・孫と三代同時の襲名披露として大きな話題になりました。松本幸四郎改め二代目松本白鸚、市川染五郎改め十代目松本幸四郎、松本金太郎改め八代目市川染五郎の襲名披露興行。勧進帳歌舞伎十八番の一つ。兄源頼朝との仲が悪くなった源義経は、武蔵坊弁慶らわずかな家来とともに、京都から平泉(岩手県)の藤原氏のもとへと向かいます。頼朝は平泉までの道すじに多くの関所を作らせ、義経をとらえようとします。『勧進帳』は、義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時の様子を歌舞伎にしたものです。義経一行は山伏に変装して関所を通過しようとします。ところが関所を守る富樫左衛門は、義経たちが山伏に変装していると...続「歌舞伎鑑賞教室」。その2。「勧進帳」。二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎。

  • 続「歌舞伎鑑賞教室」。その1。「操り三番叟」。中村勘太郎(勘九郎)、中村獅童、尾上松也。オリパラ。

    「緊急事態宣言」下の東京都。近隣の神奈川、埼玉、千葉が「蔓延防止」でとどまっているのが、不思議なくらい。IOCは、緊急事態宣言下でも「オリパラ」は開催すると、断言。「オリパラ」目指して励んできたアスリートの期待に応える、とか。開幕すれば人々の気を紛らすことができ、希望や喜びを与えられる、そのためには無観客ではなく。IOCに言いなりの菅自公政権。丸川大臣、コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す大きな意義がある、と。この東京大会は世界中の人々が新たな光を見いだすきっかけになる、とか。「絆」「新たな光」?感染が多い国から大量に選手、関係者、報道陣がやってくる!彼らが禁止条項にきちんと従ってくれるという空約束(たぶん)のもとで。政府、東京都。ここで解除して7月に入って再拡大したら、えらいことに。そこで、延長しても6...続「歌舞伎鑑賞教室」。その1。「操り三番叟」。中村勘太郎(勘九郎)、中村獅童、尾上松也。オリパラ。

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その8。金石水管橋。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    「ハナミズキ」が数本満開に。桜並木は、すっかり葉桜になっていますが。通りに面して大きな施設があります。「フォレストサンズ長瀞」。豊かな自然に囲まれた観光名所長瀞に、アメリカ直輸入のトレーラーハウスと原生林の中にたたずむコテージを宿泊施設にしたキャンプ場の登場です。設備充実のトレーラーハウスと、雨の日でも安心して楽しめる全天候型のルーフデッキ装備で生活環境はバッチリ。コテージ利用のお客様には大人数でも対応可能の屋根付きバーベキュー場も完備しています。簡単に楽しめるアメリカンなキャンプスタイルを皆様に提供します。アウトドアを思う存分に堪能し、本格的なアメリカンカルチャーを体験してみませんか!テントサイトもOPEN!!自然の地形をそのままでキャンプを楽しめます!※関越道花園ICを下りて、国号140号を秩父・長瀞方面に...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その8。金石水管橋。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その7。野上下郷石塔婆。寛保洪水位磨崖標。北桜通り。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    道標。「寄居町約二里秩父町約五里」。「樋口村秩父分會第四班青年團小坂支部」。国指定史跡「野上下郷石塔婆」。高さ約5㍍・幅約1㍍、厚さ13㌢のこの塔婆は現存する板石塔婆としては日本一の大きさである。・・・この塔婆は、当町大字小坂字城山に所在する「仲山城」の城主・阿仁和直家が落城の際討ち死にして、十三回忌の応安二年(一三六九)十月に、夫人の芳野御前(妙円尼)が追善供養のため建立されたものである。(「解説板」より)西方の山を約1500m登ったところに石材を採集した「板石塔婆石材採掘遺跡」があります。ここの石材は「秩父青石(あおいし)」と呼ばれ、縄文時代から関東一帯で石皿・石斧や板碑(いたび)として使われてきました。(「ジオパーク秩父」HPより)国道から右にそれたところに「寛保洪水位磨崖標」という標示があるので、立ち寄...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その7。野上下郷石塔婆。寛保洪水位磨崖標。北桜通り。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その6。桑畑。秩父織塾工房横山。長瀞八景。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    「彩甲斐街道(「国道140号線」)」道路標識に「↑甲府108㎞・雁坂トンネル・↑秩父20㎞」という表示。桑畑。かつては養蚕が盛んだった。その左手に「秩父織塾工房横山」。大正9年横山忠安(ただやす)が創立自身で機織りをやりながら当時の名門と言われた織物工場「丸保(三沢関根憲治)」、町久工場「井重織物丸上(荒船清十郎)」で営業とデザインに携わりながら腕を磨き、横山織物工場を作る。戦前から昭和に秩父銘仙を制作当時、制服制度を導入していたのは他にはありませんでした。その後、西川産業、京都コスギなどからアクリルプリントの開発により座布団カバー、こたつ掛け、サンローラン、エマニエルウンガロなどライセンス物を手掛ける。秩父植物染織工房(株)を設立時代変遷のなかで草木染め、藍染のスカーフを制作。日本橋三越にアルプスカワムラから...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その6。桑畑。秩父織塾工房横山。長瀞八景。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その5。玉淀湖。カヌー・カヤック。中田三絃工房。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    「玉淀湖」。荒川と秩父鉄道に挟まれた道。「ようこそ長瀞へ」。湖上をカヌー・カヤックが。「カヌーテ玉淀ベース(カヌー・カヤック)」付近。ところでカヤックとカヌーの違い「カヤック」と「カヌー」と呼び分けられることがありますがカヌーは、パドルで漕ぐ小船の総称になっています。ですが、厳密に分けるとその違いは、使用するパドルの違いによって分けられます。パドルは、水をかくブレードと呼ばれる部分が一つだけのシングルブレードパドルと、シングルブレードパドルが2本つながったくらいの長さで両側にブレードが付いているダブルブレードパドルがあります。カヌーは、シングル・ブレードパドルを使用します。乗るところ(デッキ)があいているので、積載能力が高く、釣りなどのツーリングに適しています。一人で乗る場合は船の左右を交互に漕ぎます。二人以上...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その5。玉淀湖。カヌー・カヤック。中田三絃工房。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その4。彩甲斐街道。寄居橋。波久礼駅。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    「玉淀ダム」から住宅地や田畑の中を通って、再び「彩甲斐街道」へ。右手は「秩父鉄道」、貨物列車が通過中。けっこう交通量多し。彩甲斐街道(「国道140号線」)埼玉県北部の熊谷市から同県秩父地方を経由して山梨県都甲府市に至り、1993年に編入された区間を経て同県富士川町の国道52号交点に達する。国道に指定されてから1998年までのおよそ半世紀にわたり、埼玉・山梨両県の間に不通区間を抱えていたが、雁坂トンネルの開通に伴って往来が可能となった。雁坂トンネルが開通するまで雁坂峠の前後区間で登山道が国道指定されており、「開かずの国道」と呼称されていた(点線国道)(「wikipedia」より)遠くに「かんぽの宿」(↓)。どこか懐かしく、自然あふれる秩父路でやすらぎを感じるゆるやかな時間が流れ、やすらぎを感じる秩父路は、高速道路...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その4。彩甲斐街道。寄居橋。波久礼駅。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その3。折原橋・末野大橋。玉淀ダム。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    道沿いの庭のモッコウバラ。この先を左折します。「折原橋」。さらに「末野大橋」下へ。上流に「玉淀ダム」。「末野大橋」。「国道140号線皆野寄居バイパス」の道路橋。見上げると、見事なアーチ橋。1880年代のようす。切り立った崖と岩。2010年代のようす。上流から「玉淀ダム」、「末野大橋」、「折原橋」。「玉淀ダム」。関東地方を流れる荒川では、1947年(昭和22年)のカスリーン台風による水害を機に、建設省(現・国土交通省)による荒川総合開発事業が着工した。1961年(昭和36年)、上流に二瀬ダム(秩父湖)が完成。1962年(昭和37年)には下流においても埼玉県企業局が主体となって玉淀ダム建設工事が着工し、1964年(昭和39年)に完成した。玉淀ダムの目的は荒川沿いに広がる農地への灌漑と水力発電である。荒川中部土地改良...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その3。折原橋・末野大橋。玉淀ダム。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その2。京亭。寄居小唄。玉淀河原。玉淀碑。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    料亭などがある川沿いの道を進みます。佐々紅華作曲の「寄居小唄」の歌曲碑。寄居小唄金子虹作詞佐々紅華作曲色はうす紅玉淀さくら霞む日ごとの水かがみまわる日傘にほろほろとさても愛しい花が散るよりい良いとこ秩父の山が雪のけはいの品のよさ娘まけるな紅つけてシャンとすませよミスよりい城は鉢形御城下町に昔ならした意地もある思いきるまい心ならせめて二度咲け山つつじ「割烹料亭京亭」。浅草オペラの創始者として、また「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」等を作曲した佐々紅華は、かつて訪れたこの地の美しい山河の姿を忘れられず、昭和7年、ここを永住の地と定めて自ら図を引いて建てたのが外ならぬこの京亭の前身であります。昭和36年佐々紅華は没しましたが、四季おりおり変わる美しさは乱れることなく、今まだ眼下荒川の流れは昔の面影を映しております...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その2。京亭。寄居小唄。玉淀河原。玉淀碑。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その1。宮沢賢治 歌碑。雀宮公園。松本幸四郎。(「荒川」を遡る。第7日目。)

    「東武東上線」鉄橋。緊急事態宣言発出前に出かけた「荒川を遡る」第7日目。連休中、長瀞付近は大混みだったようですが。4月24日(土)。晴れ。JR・熊谷から秩父鉄道・寄居駅へ。南口から東武東上線・玉淀駅へ向かい、そこから「荒川」へ。左手に四阿があります。石畳の道を玉淀方向へ。振り返ると、東上線の電車が鉄橋を。「玉淀水天宮」解説板。昭和6年にこの地が「玉淀」(県指定名勝)と命名された後、神社の設置の話がもちだされ、探したところ川に面したところに石の宮があるのが発見されました。これは俗にいう水神様といってこの地方の漁師たちがお祭りして、水難除けの神様として信仰していることがわかり、当時の玉淀保勝会が直ちにこの水神の神体を基として水天宮を祀りました。水天宮の縁日は毎月「五」の日であるというので、最初の大祭を昭和6年8月5...秩父鉄道寄居駅~長瀞駅。その1。宮沢賢治歌碑。雀宮公園。松本幸四郎。(「荒川」を遡る。第7日目。)

  • 秩父鉄道武川駅~寄居駅。その5。お茶々が井戸。玉淀大橋。八高線。ラッピング。(「荒川」を遡る。第6日目。)

    「お茶々が井戸」。この井戸は通称「於茶々が井戸」という。ここ鎌倉街道端に位置し、鎌倉時代旅の人々が休息する茶店が一軒あって、「お茶々」と呼ばれる美人の娘がいて、お茶の接待をしたので「於茶々が井戸」と言い伝えられている。しかし古文書によれば、この茶店には「ちょう」という客あしらいの上手な美しい娘がいて、街道筋で大評判となり繁盛したので、「お茶屋の井戸」と呼ばれたとの記録もある。(町田家文書)井戸はあまり深くはないが、どんな干天でも枯渇したことがないといわれ、この水を汲みほすと雨を招くということで、干害に苦しむ年には雨乞いのために村人が総出で水を汲み出したものであったという。この道筋が「鎌倉街道」がどうかは定かではありませんが、鎌倉時代、日蓮聖人が佐渡流罪の際に通ったという言い伝えがあるようです。この付近の今昔。1...秩父鉄道武川駅~寄居駅。その5。お茶々が井戸。玉淀大橋。八高線。ラッピング。(「荒川」を遡る。第6日目。)

  • 秩父鉄道武川駅~寄居駅。その4。宝篋印塔・板石塔婆。Layer Cafe。埼玉県立川の博物館。(「荒川」を遡る。第6日目。)

    県道に出てすぐ左折します。角に祠があります。「庚申塔」。その奥には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)。墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。(「Wikipedia」より)「宝篋印塔の由来」。江戸時代当家の先祖が井戸を掘ったところこの塔が出土したt言い伝えられてる。・・・さらに清和天皇以来の系図が記されています。その先、「荒川の板石塔婆」説明板。板石塔婆は、13世紀はじめの鎌倉時代から16世紀末の江戸時代の始まりにかけて全国に見られる石製の供養塔の一種です。関東地方では制作された板石塔婆の多くの石材が長瀞周辺の結晶片岩を利用して...秩父鉄道武川駅~寄居駅。その4。宝篋印塔・板石塔婆。LayerCafe。埼玉県立川の博物館。(「荒川」を遡る。第6日目。)

  • 秩父鉄道武川駅~寄居駅。その3。関越道・荒川橋。黒田古墳群。花園橋。(「荒川」を遡る。第6日目。)

    荒川橋深谷市黒田と同市畠山の間の荒川に架かる東日本高速道路(NEXCO東日本)関越自動車道の道路橋。周辺は主に農地であるが、アイリスオーヤマなどの工場が上流側に点在している他、右岸側近傍の国道140号バイパス沿いの花園インターチェンジから道の駅はなぞのにかけてロードサイド店舗街が形成されている。付近の荒川には埼玉県の指定天然記念物に指定された「青岩礫岩」が当橋の上流側にある。下流側に1938年(昭和13年)頃まで「黒田の渡し」が存在し、また、直ぐ上流側に鎌倉街道上道の渡河地点に位置する川越岩があり、1947年(昭和22年)頃まで「赤浜の渡し」が存在した。(この項、「Wikipedia」より)かつて、時々「関越道」を利用していましたが、「花園インター」がこの付近にあったのですね。この付近の今昔。1880年代のよう...秩父鉄道武川駅~寄居駅。その3。関越道・荒川橋。黒田古墳群。花園橋。(「荒川」を遡る。第6日目。)

  • 秩父鉄道武川駅~寄居駅。その2。六堰頭首工(重忠橋)。ワクチン接種予約。(「荒川」を遡る。第6日目。)

    再び「国道140号線」に戻り、先を目指します。左手奥に「六堰頭首工(ろくぜきとうしゅこう)」・「重忠橋」。中央奥に見える碑は、国営総合農地防災事業竣工記念として、平成19年1月に建てられたもの。六堰(ろくぜき)は、埼玉県深谷市の荒川にある堰の総称である。江戸時代初期に荒川から用水に水を取り入れるために作られた6つの堰であったが、その後昭和時代に六堰をひとつにまとめ、六堰頭首工(現在は旧六堰(頭首工)と呼ばれる)が完成した。平成になり、改修工事が行われ新しい六堰ができた。これを新六堰(頭首工)または六堰と呼ぶ。また、この六堰頭首工から取水される各用水路を総じて、大里用水と呼称する。400年ほど前の江戸時代初期、大里地区の用水路と6つの堰が作られる(大里地区の用水6つはまとめて大里用水と呼ばれる)。その後たびたび、...秩父鉄道武川駅~寄居駅。その2。六堰頭首工(重忠橋)。ワクチン接種予約。(「荒川」を遡る。第6日目。)

  • 秩父鉄道武川駅~寄居駅。その1。白鳥の飛来地。植松橋。「見目池」。(「荒川」を遡る。第6日目。)

    4月18日(日)。晴れ。夜来の雨も上がったので、少し遅めに出かけました。今回は、熊谷駅でSLに出会いました。お客さんを順次誘導して、間もなく出発です。当方は、各駅停車で「武川駅」に向かいます。今回は、ここからスタート。大きな案内板。「ここは白鳥の飛来地です」残念ながら市としての取り組みは終了したようです。深谷市白鳥飛来地の管理終了のお知らせ川本地区の荒川河川敷では平成3年から白鳥への餌付けが行われ、白鳥飛来地として多くの人々が訪れてきました。しかし、鳥インフルエンザの問題や生態系への影響などを考え、平成20年度から餌付けを廃止しました。その後、白鳥飛来数は減少し、お越しいただく方々も同様に減少しております。この現状を受け、深谷市及び深谷市観光協会では平成24年3月31日をもって、白鳥飛来地の管理を終了することと...秩父鉄道武川駅~寄居駅。その1。白鳥の飛来地。植松橋。「見目池」。(「荒川」を遡る。第6日目。)

  • 「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その2。SLパレオエクスプレス。立夏。(「荒川」を遡る。番外編。)

    線路脇の緑道に入ります。亀の姿が。ここから東武熊谷線跡の遊歩道。「百米塚」。終点まで続くのでしょうか?まだ左手には旧線路が続いていますが、この先、秩父鉄道の構内へ?枝垂れ桜が地面すれすれまでたくさん咲いています。こちらにも八重桜。(撮影時:4月10日)緑豊かな遊歩道。動物のモニュメント。ポツンと一本、ポールが。かつては踏切の信号機だったようですが・・・。広場風のところへ。駅舎風の休憩所。ここに駅はありませんでした。その先、機関車風のコンクリート製の建物。「かめ号」、「熊谷妻沼」。1989年に建てたもの。そこから振り返る。レールをかたどった柱に「かめのみち」。ここまで「熊谷線」また「かめのみち」に関しての解説板がまったくありません(気がつかなかっただけかもしれませんが)。できたら、かつての様子も含め、解説がほしい...「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その2。SLパレオエクスプレス。立夏。(「荒川」を遡る。番外編。)

  • 「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その1。線路はそのままに。(「荒川」を遡る。番外編。)

    「熊谷駅」に着いて、もう一箇所探索したいところがあります。それが「東武鉄道熊谷線跡」。久々の廃線跡歩きです。「熊谷線」は、熊谷駅から妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた。もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期に、群馬県太田市の中島飛行機(現・SUBARU)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅-東武小泉線の西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として1943年(昭和18年)12月5日に熊谷駅-妻沼駅間が開業した。熊谷市石原付近(上熊谷駅-石原駅中間地点のやや石原駅寄り、かつての熊谷線と秩父鉄道の分岐点)で秩父鉄道をオーバークロスして秩父鉄道の南側に平行して建設、熊谷駅南側に熊谷線のホームを設置する予定であったが、そのための盛土を構築する時間は...「かめの道」。東武熊谷線跡をたどる。その1。線路はそのままに。(「荒川」を遡る。番外編。)

  • JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その5。江南サイフォン跡(明戸床止め)。秩父往還。(「荒川」を遡る。第5日目。)

    開けた場所に出ます。「江南サイフォン跡(明戸床止め)」。鉄筋コンクリート製、長さ513m、内径1.3mのサイフォン(伏せ越し)。江南サイフォンは、かつて農業用水を荒川左岸側から右岸側に送るために、荒川の河床下に設置された水路でした。しかし、荒川の河床低下の影響により、本来は埋設されていて見えないはずの伏越の本体が、川底からむき出しの状態になってしまいました。2003年(平成15年)、上流に新しい「六堰頭首工」が完成。荒川右岸側への農業用水は、「六堰」から行うこととなり、役目を終えた「江南サイフォン」は撤去されましたが、河床安定の必要上、現在の形となって残されました。事情を知らない人は固定堰や床止工だと勘違いするようで、俗称は「明戸堰」。実際、「江南サイフォン」の上流と下流では、河床に大きな落差ができ、上流から下...JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その5。江南サイフォン跡(明戸床止め)。秩父往還。(「荒川」を遡る。第5日目。)

  • JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その4。押切橋。秩父の山、上州の山々。(「荒川」を遡る。第5日目。)

    押切橋。橋の全長は1,339.13メートルで、埼玉県においては上江橋、幸魂大橋に次いで長く、埼玉県管理の県道に架かる橋梁としては最長である。押切橋は幾度となく架け直された過去がある。流失と架け替えが繰り返された理由として、押切の名が示す通りこの地域は大水(洪水)の常襲地帯で、堤を押し破ることからこの名がつけられ、このような立地から上流からの砂礫や流木等によって橋の傷みが激しかったことが挙げられる。また架橋技術などの問題から、3代目まで木橋が続いたことも要因のひとつと言える。「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも呼ばれる)の扇頂に近く、国土地理院の「治水地形分類図」を参照すると周辺に無数の旧流路が主に北東方向に乱流していたことが分かる。冠水橋が架けられる以前は、押切の渡しと呼ばれる、大麻生村と押切...JR熊谷駅~秩父鉄道・武川駅。その4。押切橋。秩父の山、上州の山々。(「荒川」を遡る。第5日目。)

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