35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
72.「生徒の能力を伸ばす」か「生徒の能力を揃える」か 多くの教育機関でなされていることは教える側で、教えるための計画を立て、学ぶものをその計画に合わせてコントロールすることです。 例えば、何かの問題を解くことを課して、それを本人がとき終わるまで待つと
71.「この通り憶えろ」か「自分で考えろ」か 学習の過程を四つに分けての、「能力についてのあれこれ」、「理解・記憶」に続いて「思考」のことを取り上げたいと思います。つまり、「思考力」をめぐるあれこれということです。 「思考」について考える時に、今の教育
70.自分の「記憶」についての無知 人は自分の意識を考えた時にそれがその奥から何かが浮かび上がってくるそういうものだと思うのですそこで話の進め方としてその真相と呼んでそこに記憶も蓄えているゆうものだとしているわけです そこで我々の中の記憶は膨大なもので
69.記憶と無意識の体験 今まで学習の過程を、理解したことを記憶し、記憶を使用して思考し、思考したことを表現し、その結果を記憶に反映する、そういうように説明してきましたが、記憶の形成に影響を与えるものはそういう、意識が関わるものだけではありません。 実
68.「表現」と「記憶の整理」 さて次に「表現」と「記憶の整理」について。 我々は、自分が考えたことを外に向かって伝える際、どう表すか、考えます。考えたことをそのまま伝えることもありますが、普通は、伝え方を考えます。ここでは、それを「思考」を「表現」に
67.「記憶の整理」と「思考」 次は「思考」と「記憶の整理」です。 我々が何かについて思考する際、そこでさまざまな既成の知識を「記憶」から取り出して使用します。そして思考の結果、新たな知識を生みだし、それを外から得られた知識と同じく自分自身の知識とし
65.消化の譬え 「記憶」というものについて、倉庫や地理などに譬えることでその整理が必要だということを述べてきたわけですが、ここでは時に知識の獲得と使用について述べる際、食べ物の消化に譬えることがありました。 それは「言語」を名と実の組み合わせで説明し
64.地理の譬え 前回、倉庫の譬えについて、「あまりよくないが」と言いましたが、それは、倉庫の場合、物をそのまま出し入れするからです。 それは「知識」であれば、分離された知識をそのまま取り入れ、そのまま保持し、そのまま取り出すことにすることとして誤解す
63.倉庫の譬え あまり良くない譬えであることを承知の上で、「記憶」を倉庫に譬えてみるとします。 倉庫に何かを保管する、それは当然使うためのものです。であれば必要な時に取り出そうとする際、それが整理できていなければ、取り出すことはできない、できるとして
62.「記憶の整理」の軽視 我々は、外から得た情報を理解し、それを記憶します。その記憶の場所は必ずしも頭の中に限定されるわけではないのですが、それについて、ここでは、「深層」としたものの中に組み込まれたはたらきであるというように説明しています。 その「
61.不特定多数の相手への表現 先に、我々の情報の取得と使用の過程、あるいは学習の過程を「理解・記憶・思考・表現」と大雑把に分けました。大雑把としたわけについては、そのとき述べたわけですが、それに少し付け加えておきます。 前回、「理解」についての「個
60.ことばの持つ様々なはたらき 先に、意味機能の例として、イメージということばを使用しました。ただ、我々は言葉の意味というと、辞書などを使ってそれを検索します。それは、文字、つまり、言葉で書かれています。それは、言葉の意味を言葉で説明するということです
59.解り合うことの大切さ 「ことば」は人と人をつなぎます。その際、それはつなぐ人の「理解」によって、変化することになって、そのつながりを良くも悪くもします。 「解ったつもり」による、意味の歪曲は人々の関係を歪め、ひいては社会を歪めることになるのではな
58.「解る」と「解らない」の違い 「ことば」を理解するというのは、その「ことば」の意味機能がその人の深層ではたらいているということです。前回述べたイメージ化はその深層ではたらくイメージ機能のはたらきによるもので、それを意識化するわけです。それができな
57.イメージしてみること さて書かれたことの「理解」ですが、その書かれたことの中には、その人の考えとその根拠が入り混じっている際、それを区別してみると、何らかの事実としたことをもとに、それについて考えを述べている、例えば是非の判断を述べているということ
56.「苦」をもたらす根拠のない思い込み 前回、仏教で「苦」とされるものの一因として、「理解」をいい加減にするということを述べましたが、これはたまたま、目にした「神経科学」の本の中に、それにつながることがあったのです。 我々の脳は、良いこと楽しいことよ
55.理解を基にした感想 「国語」の「感想文学習」は、国語教科書の中の文章を対象として生徒一人一人が感想を書き表すという学習です。そこで、生徒がその文章を読み理解したことを基に自分なりの考えを書き表すことになります。 そこで、まず、その文章を読んで理解
54.MCの役割について 「聴き合い」でのMCの役割の一つは、参加者の発言が本人の思考の披露に及んだ時に、それは「聴く」ということをではなく、「自分の考えを述べる」ことで、ここはあくまで聞いたことについて「聴いて解らないこと」を糺したり、自身の「理解」を「
53.聴き合い―理解と思考 さて、「理解」と思考に分けることの例として、よくとりあげるのが「聴きあい」です。これについては、『聴き合いについて』でふれました。 「話し手」「聴き手(3人)」「MC(進行係兼聴き手)」の5人一組のグループになります。進行は、
52.理解・記憶・思考・表現の入り組んだ関係 ここでは、人の知識の獲得と使用の過程を大ざっぱに「理解・記憶・思考・表現」というふうに分けていますが、実際の使用の際、それぞれに他の要素が混じっています。 「理解」についてとりあげる中で、判断について取り
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35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
19.「解る」「できる」の判断 「レポートテスト」では、まず「問題」について、自身の思考過程を書き表します。次いで、その「レポート」と「解説」とを対照して、その「思考経過」の一つ一つについて、自分で「これは解っていた」、「ここはよく解っていなかった」、あ
18.原因の突き止め さて「レポートテスト」は通常のテストと違い問題の答とか結論とかだけではなく、思考経過を書き表すことになっています。 そこで、例えば、「解答」があっていたとしても、その「思考過程」に問題がある場合、それを明らかにできるようになってい
17. 自分の学習のレポート レポートテストは、与えられた問題について、それをどう理解しどういう知識を使用してどう考えたかといった経過をレポートする学習です。 そこで、その問題が、できなかったり、間違えたりした場合、その修正に入るわけですが、その際、その
16.学習したつもりの生徒 前回、述べたような表面的な学習から生まれる学習観というのは、以前取り上げたようにそもそも心構えの修正を必要とするものです。 それは、「解っていない」のに「解ったつもり」なっている、「覚えてない」のに「覚えたつもり」になってい
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが
63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての
62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1
61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「
60.異文化間のコミュニケーションの難しさ 前回取り上げた、「翻訳という仕事には必ず何か偽なるものが含まれています」の後に次のようになっています。よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳した途端に形象が違ってしまう。