35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
22.理解したことの確かめについて 我々が学習したことはここで深層とした内部に形成されるわけですが、その形成の過程が深層でなされ、その一部が意識に上がる、そうも言えるわけです。 「解ったつもり」であるとか「出来たつもり」であるとかいうのは、その学習の過
21. 「自己確認」を身に付ける 以前、SSAの教室の風景として、生徒が黙々と長時間学び続けている、先生は本を読んだりしてたまに応対しているということ、そして、生徒の「面壁」しての学習が、生徒を個別に指導しているうちに次第にそうなったとこと、その場面を初
20.「つもり」を無くすこと前回の小指を動かしていたつもりが、実際は思っていたように動いてなかったという例をなぜ持ち上げ出したかというと、自分でできていると思っていることを見て確かめたら、そうではなかったという意味で、自分の思い込みと実際の違いというのを
19.「深層」からの誤ったフィードバック 前回、本人が「解った」と言ったのに、実際には解ってなかったという話をしました。それには、本人が嘘をつくと言うこともありますが、ここで問題にしたいのは、本人がそう思っている場合のことです。 さて、その「解ったつも
18.「解ったつもり」について 前回、自分で確かめる場合に人を利用するということを言いました。例えば、何かをやってそれでよいかどうか人に訊くということがあるわけです。そうすると、「それと人に確かめを依存するということがどう違うか、同じではないか」というふ
17.自分で確かめること 我々は、何かをやったり考えたりする時にいろんなステップを踏みます。その時に、あるステップについて、そこで「解った」とか「できた」とかいうことを確認して、次のステップに進むわけです。多少複雑な思考や行動というのは全てそうではないで
16.人の評価と学ぶ「説(よろこ)び」 そこで、「理解」がうまくいくというのは、どういうことだろうと考えると、食べ物の消化がうまくいって、体内におさまる、そういうふうに、自分の中の「有機的システム」としたものに、しっくりしたものとして修まる、そういうことが
14.学習が時間で切られる 学校での授業は「時間割」が決められていると言いました。「時間割」は、文字通り時間を割るわけです。それは「わかるまでやる」とか「できるまでやる」としようとすることに、待ったをかけることになります。時間がくれば、教師が教えてくれ
13.「知識」の壁をどうするか。 授業は教科として分けられた「知識」を授けるものですが、それは子供達がその以前に生活の中で一つの繋がったものであるとして経験したものを分割しつながりを失わせるということを引き起こします。解りやすいのは、我々が経験する世界
12.教師の「ことば」と生徒の「ことば」 さて、今の社会では、子供が一定の年齢になると学校へいくことになります。 そこではだいたい次のような仕組みになっています。同じ年齢の子は同じ学年ということになり、学年ごとに分けられますクラスに属して、教育されるそ
11.個々の「ことば」の形成 そこで「知識」について、そのもとを探ってみますが、その中核を担うのが、人間の「コミュニケーション」「思考」「自己統制」の手段としてはたらくとされる「ことば」です。そこで、その「ことば」が我々のあたまの中に形成される過程を考
10.生きることと学ぶこと 生徒の学習指導の前提として、そもそも学習そのものが個別性があるということですが、そこで、その「学習の個別性」についてですが、考えてみれば、我々は、自分で生きていく過程そのものが、何らかの学習になっているわけです。そして、そこで
9.学習の個別性に応じて さて「聴解」を例に、どの生徒も入塾時に一応同じ学習法を指導することから入って、その後は、個々に応じた指導に入る、その際、その学習法で、使用するそれぞれの器官の働きを把握することが前提になるということで、その器官が例えば手でれば、
8.「意思」の個別性我々が何かをやろうとする時、あたまの中で考えを巡らせて、それを決めるということがあります。また、前回出てきたように、考えることなく感情に振り回されて何かをやってしまうそういうこともあります。この二つを少し考えています。前者の、あたま
7.心ここにあらざれば 「意思」のことで、思い出したことばがあります。 『心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず、此れを“身を脩(おさ)むるはその心を正すに在り”と謂う』(意訳)心が他のことに奪われていては、注意
6.「意思」と「意志」 ここでその「意思」としたことについて少し触れておきます。「聴解」ということを考えたときに、一番身近な例として思い浮かぶのは、学校で授業中に教師の話に耳を傾けることです。その時に誰もが経験したことがあるであろうことの中に、「あたま
5. 「聴解力」の前提は、その聴くことの「選択」 さて「学習法」の中に組み込まれた「聴解」について取り上げています。「学習法」の指導は、普通入塾した生徒に一対一で順序に従ってやるわけです。それは、ある意味型通りの指導です。「このテープを聴いて、それを覚え
4.「意味」に換えるはたらき さて「聴解」の「解」の方の、個々のはたらきについて、これについては先に「ことばの個別性」のところで取り上げたことです。 我々が何かの言葉を聞いた時、それを深層で意味に換えます。そのはたらきです。それには、そのことばを構成
3.「音声」を聴き分けるはたらき さて、「聴解」を例にそこで使用される器官の「はたらき」の「個別性」について取り上げてみます。「聴解」を、おおざっぱに、「聴」と「解」に分けるとします。「聴解」の「聴」の方は、外からの音波動を音声に換えるはたらきのことで
2.その器官はだれの器官か 前回、「誰の手か」という問いかけをしました。 さて、指導者の研修では、まず人の思考や行動を三層フローチャートで分析しました。その後、学習法の研修に取り掛かる前に機能図というのを使って「機能分析」という研修を行うのですが、そ
1.それはだれの手か 整体の教室で時々こういうことを見かけることがあります。 先輩、仮にAさんとよぶとします、その人が後輩のBさんを指導しています。それで、クライアント役の人に手を当てて、はたらきかけます。クライアントは、自分の中に起きた反応を伝え
100.自分でやることと、人に頼ることの違い ここ数回、(ここで言う)「深層」について取り上げてきました。そこで、その「深層」について、「行動」と「意識」との違いとして、「人にもわからないが自分にもわからない」と言いました。そして、個々人が自身の「思考」
99.意識の深層への拡がりと自己の確立 自分のやっていることを自分で理解するというと、そんなことは簡単だと思われるかもしれません。自分のことは自分が、一番わかっているという思い込みです。 SSAの教室では、生徒たちが毎回10分、「立腰」をします。これを
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35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
20.過程の意識化から過程の無意識化へ さて、誤りが既成の学習によってもたらされたものとすれば、まず、その原因を知る必要があります。そのためには、まず、その学習の過程を意識に上げ、それを基に原因を特定し、それを正す学習を考え実行することになります。そして
19.「解る」「できる」の判断 「レポートテスト」では、まず「問題」について、自身の思考過程を書き表します。次いで、その「レポート」と「解説」とを対照して、その「思考経過」の一つ一つについて、自分で「これは解っていた」、「ここはよく解っていなかった」、あ
18.原因の突き止め さて「レポートテスト」は通常のテストと違い問題の答とか結論とかだけではなく、思考経過を書き表すことになっています。 そこで、例えば、「解答」があっていたとしても、その「思考過程」に問題がある場合、それを明らかにできるようになってい
17. 自分の学習のレポート レポートテストは、与えられた問題について、それをどう理解しどういう知識を使用してどう考えたかといった経過をレポートする学習です。 そこで、その問題が、できなかったり、間違えたりした場合、その修正に入るわけですが、その際、その
16.学習したつもりの生徒 前回、述べたような表面的な学習から生まれる学習観というのは、以前取り上げたようにそもそも心構えの修正を必要とするものです。 それは、「解っていない」のに「解ったつもり」なっている、「覚えてない」のに「覚えたつもり」になってい
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話
64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが
63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての
62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1
61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「
60.異文化間のコミュニケーションの難しさ 前回取り上げた、「翻訳という仕事には必ず何か偽なるものが含まれています」の後に次のようになっています。よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳した途端に形象が違ってしまう。