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  • 「自分でやること」の理解

    71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」

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    70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して

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    69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ

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    68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「

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    67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無

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    66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言

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    65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話

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    64.日英の「文法」の違い 「和文英訳」の学習です。最初にやる「日本文」の「論理化」については、先に取り上げました。 その後は、その「論理化された文」を「句切り」、それを「句順変換」して、「中間日本語」化します。これは、「和訳」でやったことの逆操作ですが

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    63.対話の可能性 そこで、井筒俊彦氏の著作の続きで、その言語による文化の伝達の楽観論を主張する人々の考え方について触れた箇所を取り出してみます。 このような悲観論に反対して楽観的な立場を取る人々がおります。この人たちの思想の背後には人間精神についての

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    62.翻訳により抜け落ちるものと付け加わるもの「和訳」での「意訳」、「英訳」での「論理化」の両方を経験するとわかるのは簡単に言うと、元の文にあったものから抜け落ちるものがあることと、逆に元の文になかったものが付け加わることがあることです。そして、それを1

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    61.「論理化」で抜け落ちるもの 英語の英文和訳と和文英訳については、「自分でやることの意味」でとり上げましたが、そこでも紹介したように、和文英訳は英文和訳を逆にたどるようですが、それだけではありません。そこで、最初にやるのが、和訳の最後の「意訳文」を「

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    60.異文化間のコミュニケーションの難しさ 前回取り上げた、「翻訳という仕事には必ず何か偽なるものが含まれています」の後に次のようになっています。よくフランス人が言うことですが、フランス語のpainを英語のbreadと訳した途端に形象が違ってしまう。

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    59.翻訳による意味の伝達はどこまで可能か? 「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということについて、まず、英文の日本語訳について取り上げてきました。さて、ここで取り上げている文章の中に、翻訳について述べている箇所があります

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    58.「意訳」がもたらす認識の違い 「中間日本語」を「句順変換」すると、「直訳文」ができます。そこで、それを「意訳」して、自然な文に直します。「自然な」というのは、それを読む「日本人」にとっての、それです。「直訳文」を「意訳」する過程で、いろいろなことに

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    57. 語と句の順序を換えること 「英語学習」での、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということの経験として、まず、「和訳」を考えると、「英文」が対象になります。「意味選択」を取り上げました。 『現実』の認識を表したこと

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    57. 語と句の順序を換えること 「英語学習」での、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということの経験として、まず、「和訳」を考えると、「英文」が対象になります。「意味選択」を取り上げました。 『現実』の認識を表したこと

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    56.なぜ「意味」を選ぶ必要があるか 「英語学習」を介して、「言語」が「『現実(リアリティー)』の認識的文節形態の体系」であるということを経験してもらおうというわけです。 「英語学習」での「和訳」と「英訳」は、同じ「現実」について、「日本語」と「英語」

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    55.異文化間の意味の理解井筒俊彦氏は、記号と意味の問題についてさらに次のようなことを指摘しています。 もし、同一言語内での対話ですらこのような状態であるとすれば、異文化間の対話がいかに困難な理論的問題を惹起するかは想像にあまりあるということであります

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    54.外的過程と内的過程の理解「ことば」について取り上げた際、「内部知識」と「外部知識」ということばを使いましたが、そこで言いたかったのは、「ことば」について考える際、我々の知識の使用に偏りがあるということです。そこで、最近目にした「整体」の機関紙での

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    53.両極の壁は乗り越えられるか? そこで、その「記号による意味の伝達」を「全て可能とする側」と「全て不可能とする側」の両極の隔たりについて、否定か肯定か、この2つの極の間に、言語理論は何らかの妥協の道を求めることを余儀なくされているように思われます。

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    52.「記号による意味の伝達」は全て可能とする立場次にその反対の側についての言及です。 これと正反対の極に近いあたりには、言語は人間の意識に生起したことを、それがどのようなものであれ、本質的には他人に伝達できるという古来の合理主義的な立場を堅持する人々

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    51.「記号による意味の伝達」は不可能とする立場 次に、その両極の立場としたものについて、まず、前者の「記号による意味の伝達は全く不可能だという考え方」について述べた箇所を取り上げてみます例えばフンボルトの後継者たちはだいたいの傾向としては否定的態度を

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    50.言語記号を手段とする意味の総合伝達孔子の「名を正す」ということばは、弟子とのやり取りから解るように、それが社会的混乱の根本的解決につながるということなのですが、それを弟子の方は「迂遠」だと受け止めているわけです。たぶん多くの人が感じているのも、そう

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    49.洗脳に対処する学びさて、「洗脳」にどう対処するかということですが、それは何かのことに集団で批判するというのでは、いわば「洗脳」に対して、別の「洗脳」で対処することになりかねというのが、前回取り上げたことです。そこで、一人一人が、それぞれが接する情

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    48. 「知」の共有の難しさ「科挙」のことを取り上げましたが、現代でも教育についても同じような危険を持った制度が居座っているということがあります。ですから、一人一人が自由な個として学んでいくことが大切なのではないでしょうか。現在の世界のあり方を憂える人々の

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