40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
94.全機現と組織―民主か専制か 全機現という言葉は、組織の運用について言及する際も、よく使用されます。組織の一人一人が情報を共有し、それぞれがその役割を果たすことで、組織全体がめざすことが効率的に成し遂げられるということでしょう。 そこで、組織の運用
93.「全機現」と「ムカデの寓話」 「全機現」という言葉があります。これは禅の言葉で「人が持っている全ての機能(はたらき)を現す 」ことです。「座禅」、ひいては「立腰」は、それを目指すものということです。 そこで、もう一つ、「ムカデの寓話」というのがあ
92.「立腰」と「速記」 我々は、「からだ」を動かすとき、普通は、特定の部位を意識してそこを動かそうとします。しかし、それでその部位がスムーズに動くかというと、そうはいきません。なぜなら、それは、他の部位とつながりそれと連動して動くからです。それは指一つ
91.極意と次元変換ところで、武道とか芸道とか言われる分野での「ことば」の使用を考えると、その極意とされることの伝達には、この「心」を無にするとか、「空」にするとかいうようなことを言って、直接具体的な言葉を使用しない、ということがあります。「心」を「無
90.「能力」の限定と解放 「専門的知識」ということばがあります。「専門」というのは、限られた分野の学問や職業を意味しますから、そこで使われる言葉は、その閉じられた世界を超えると、論理的でない、不正確である、そんな扱いをされるようです。つまり、その「こと
89.窮屈な「ことば」と自由な「ことば」 「こころ」は「からだ」のはたらきを受け止める、「からだ」は「こころ」によって働かされる、つまり、相互依存とでもいうような関係にあるとでもいうのでしょうか。では、それと「ことば」とのあいだはどうなっているのでしょ
88.「からだ」と「こころ」 「日本語」は、「外来語」と「和語」から成り立っているとされています。 そこで、「心」を訓読みすると「こころ」、「体」を訓読みすると「からだ」となります。古来の日本人がそうよんでいたとすれば、それはどこから来たのだろうと考え
87.刺激→「体癖」→反応 人の「からだ」は、様々な刺激に対して、反応します。そういうふうにできています。その反応というのは、言葉をかえて言えば感受性であり、その刺激には、いろいろあります。環境のもたらす刺激もあれば、人の働きかけ、「コトバ」もその一つで
86.性格と体癖 「感情」の問題を取り上げたのは、いわゆる「こころ」と「からだ」の観かたについて、それを別のものとする人の多くは、「こころ」を優位に考え勝ちで、物事を考えるとき、そういうアプローチをするわけです。そして、そういう人は「からだ」というと、こ
85.「感情」を生み出す「からだ」 「活元運動」の集まりで、指導する先生が生徒の背骨を観て、「今日は何かありましたか」と尋ねることがあります。その日の出来事での感情が発散されないでからだに残っていて、それでそういうやり取りになるわけです。 こういうふう
84.「観える」ことで、「見える」指導が違う 自己の中のつながりを観る、他者とのつながりを実感する、外界とのつながりを受け止める、こういうふうなことをやる中で、生徒について「観える」ものが変わってきます。 「姿勢」という言葉がありますが、それは「姿」
83.自己と外界とのつながり 次に、自分の「からだ」と外界の目に見えないはたらきとのつながりの実感を持てるようにすることです。 例えば「外界」と自分の「気」のつながりは、普通見えません。普通、というのは、人によっては、「オーラ」といわれるように、外気を
82.自己のからだと他者のからだのつながり 自分の中の「内のからだ」についての実感が得られると、それを介して、他者の観かたが変わってきます。 解りやすいのは、「気の感覚」を通しての「自己のからだ」と「他者のからだ」のつながりです。「自己のからだ」と「他
81.「外のからだ」の「内のからだ」によるつながり そこで、その「内のからだ」を観る力です。 無論、「からだ」の内側など、「見る」ことはできません。しかし、外から「観察」はできます。そこで、まず、自分の中での「からだ」のつながりを身に付けることです。
80.「ことば」で「教える」限界 「教える」際、中心になる手段は「ことば」でしょう。 その言葉を使ったことで起きるミスコミュニケーションは、言葉が不自然な歪みをもたらす欠陥を持っていることを表しているのではないでしょうか。 前回取り上げた「学習障害」
79. 本人に届くか 実践の中での確かめとして、わかりやすいのは、様々な学習障害と言われる子供への対応です。「あなたは人と劣っていない」(優劣が前提)と言い聞かせながら、知識をわかりやすい(と思える)言葉で詳しく「教え込む」ことと、そもそもそんなもの(人の優
78. 「からだ」と「こころ」―「一体」であり「相即」である。 「神経科学」の知識を基に考えると、「知情意」のはたらきは、「身体」を基にしていることになります。しかし、一方でその「身体」を我々は自分の意志で動かしているわけで、そうことからすれば、その逆も言
77.「からだから押さえてかかる」とは? なぜ、「からだから押さえてかかる」という「ことば」が発せられなければならったかというと、そこに「からだ」の軽視が前提としてある、ということが考えられます。では、「からだ」を軽視する人々は、何を重視するかということ
76.「自然なはたらき」と「からだ」 問題解決のための「自然な働き」を生み出すものを考えるうえで、現実の教育では、普通に言う「からだ」を除いて考えているのではないか、と思えます。「思考」ということばと結びつくものとして、視野に置くべきは「こころ」とか「あ
75.「問題」が「知識」に働きかける 「根本解決」について、「知識」としての「本」がある「根」があると述べました。 ただ、「問題」の解決を支える「根本」としては、「知識」以外にもあります。 「算数」の問題の例での「解決」への「思考過程」について、まず
74.「根本解決」と「知識」の「ここまで」 「問題」の「レポート学習」での、「根本解決」について指導する際、どこまでを「根本」とするか、「知識」のつながりを考えれば、その広がり、深まりには、限界がありません。それをその時の学習課題としてどこまでとするか、
74.「根本解決」と「ここまで」 「問題」の「レポート学習」での、「根本解決」について指導する際、どこまでを「根本」とするか、「知識」のつながりを考えれば、その広がり、深まりには、限界がありません。それをその時の学習課題としてどこまでとするか、一応考えて
73.「原因分析」「根本解決」「表現工夫」 「問題」のもたらす「過ち」から逃げないで対処することを身につける学習の具体例の一つが、「レポートテスト」です。その「レポートテスト」で重要なのは、「原因分析」「根本解決」「表現工夫」の三つです。 「問題ができ
72.問題から逃げるな、間違いを放置するな 問題と取り組むと、間違えることがあります。その誤答を「過ち」と読み替えると、「論語」にある、孔子が「過ち」について述べた言葉が思い浮かびます。 子曰(しいわく)、過ちて改めざる、是(これ)を過ちと謂(い)
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40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言
65.人間は「喋りすぎる」?さて、ここまで井筒俊彦氏の著作といってきましたが、それは「意識と本質」の中にある「対話と非対話」という文章です。これには、「禅問答についての一考察」という副題がついています。その、禅問答を取り上げる前に、現代の言語理論が「対話