40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
71.問題も「情報」 「知識」の学習というと、それを記憶すべく与えられた「知識」だけを考えがちで、様々な「問題」については、ここでいう「知識」の学習過程とは別のものだというふうに考えがちですが、それもまた、一つの「知識」の学習の過程として受け止めるべきで
70.整理統合は、人の中の自然なはたらき 我々が目にする「リンゴ」と紙に書かれた「情報」を見て、前者を「食べ物」と言い、後者を「情報」と言ったりします。その次元では両者は別のものです。ですから、その次元でどちらも同じ「情報」だとは言えません。 しかし、
69.感想文の学習を介して整理と統合 聴いたこと、読んだことの既成の知識との「整理統合」は、必要なことの取入れと不必要なことの排除につながります。人の中には、そういうはたらきがあります。それは、我々の中の物事の消化のはたらきで、物質レベルでわかりやすいの
68.正確に聴く 「読解」の「正確に読む」に次いで、「聴解」の「正確に聴く」です。 そこで、国語学習法では、次に、自分で「音読」したものを自分で「聴いて書き出す」ことをやります。これは、「全部」を正確に聴くことの学習です。 音を文字に換えるには、その
67.まず「全文」の正確な受け入れ 「教科学習」での「理解」というと、まず思い浮かぶのは、「聴解」と「読解」です。整理統合に至る過程を基に、聴解力とか読解力を身につけられる指導を考えて展開したのが、それぞれの「教科」の学習法です。 そこで、直接、それ
66.一時的「快」と学習のもたらす「快」 「理解」について、いつも疑問に思うのは、我々が「解った」と思うとき、我々の頭の奥で起きていることは何だろう、言葉をかえて言えば、その「コトバ」の「意味」を担う「はたらき」がどのようなものだろう、ということです。
65.健康の快と摂取の快 「解毒」のことで、表面的な理解に終わるか真の理解に向かうか、それを推進するものが何かについて考えていた際、思い浮かんだことがあります。以前、「情報」について、それを生み出す波動の接触・結合・固定・組替・排除という五つの過程の組
64.「情報の害」を取り除くはたらき 「解毒」という言葉をどうしてふれたかというと、「読解」をひっくり返すと「解読」、一字を置き換えると「解毒」となる、それで結びつけると覚えやすいということで、「情報」に接したとき、それが持つ「毒性」について、意識が行く
63.「理解」と「解毒」 「自主学習」が単なる我流の学習に堕さないためには、学習の対象についての「理解」が重要です。「理解」については、「能力の受け止め方」などでは、「何かに到達する」と言うより、「物事を成り立たせる『理』を、一つ一つ解きほぐす過程をた
62.「整理統合知識」の形成を目指す 「算数の問題」の例で使われた「知識」を大別すると、一般的な言語知識と算数の既成の知識ということになります。「面積」とか「四角形」とか「解の公式」とかいうのは、後者にあたります。 そういう「知識」を、どうやって形成す
61.「教えること」をなくすことを目指して「教える」 さて、「算数の問題」の例で、この問題の解決は、その生徒がその問題についての「理解」と解決のための「思考」に必要な「知識」を保持しそれを使用する能力があれば、教師は「教える」必要がないということを述べま
60.「教科」毎の知識の分断を超える 算数の問題の例は、問題の解決が、その「問題文」の「読み解く」ことから始まり、その延長上にあるということを示しています。その「読み解くこと」は、別の言葉でいうと「読解力」に関わることで、「教科」の分類でいえば、「国語
59.指導は「教科」の枠にとどまらない 更に、「想起」について、「知識」以外に「操作」とか「意思」とかいうレベルでの指導のことですが、そこでは、生徒自身による「意識」とか「姿勢」とか「呼吸」のコントロールが指導の対象となるということでした。その際、その説
58.「教科外の知識」の扱い? さて、「教科知識」を「教える」教師と、「自主学習能力の育成」の指導者が「教える」ことの違いについて、「算数」の「文章題」を例に、まず、「問題文」の読解から入りました。そこで、そのための「知識」とその「想起」の取り扱いをもっ
57.「想起」の能力としての強弱「想起」に強弱があることは、年取って「なかなか思い出せない」ということがあることでわかるのではないでしょうか。「思い出せない」というのは、もとは思い出せたことがあって思い出せない、「なかなか」というのは、今でも「時によって
56.「想起」の問題かどうか さて、「想起」という「能力」の理解のために、「知識」との関係について触れておきます。 ものごとを思い出せないとき、我々はよく「忘れた」という言い方をします。また、「覚えていない」とも、ときにはただ「解らない」、あるいは「知
55.「コトバ―コトバ」の「検索」に偏る 「検索」と「連想」という言葉の使い分けですが、それで特に注意したいのは、「コトバ―コトバ」の使い方の危うさです。それを安易に使うと、思考を誤ることがあります。 例えば、aという「コトバ」とbという「コトバ」が
54. 「知識」の引き出し―連想と検索 我々の中の「知識」のつながりには、個々の「コトバ―意味」との結びつき以外に、その「コトバ」同士のつながりと、「意味」を担うもの同士のつながりがあります。我々が「コトバ」から、その「意味」を担うイメージを思い浮かべ
53.「想起」は素早く正確に 「理解」や「思考」が必要な「知識」を引き出すことで可能になるとするというので、まず、前提となる「知識の関連」を取り上げましたが、そこで、その「知識」を引き出すことです。「想起」はその「知識」を引き出すために必要な、本人の内
52.「記憶」の整理で「知識」を関連付ける 「関連知識」の、「関連」は、「読解」においても、「思考」においても、そこで使用される「知識」が整理されてつながっていることを意味しています。 問題文の「読解」の例でいえば、そこで使われる「ことば」全てが、互い
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40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
21.教科学習のプロセス化 修正学習では、「解らない」「出来ない」の原因を明らかにする「原因分析」をやるわけですが、その原因分析の第一歩は「学習の経過」を明らかにすることで、そのために通常の学習の中で、その「学習の経過」のとらえ方を身につけるということで
85.現実を様々な次元で受けとめる我々は、ものを見る時、ふつう、それがそこにそのまま変わらずある「物」として見ます。ところが、例えば、それが林檎であるとて、その林檎を高速度で撮影した映像を早送りで見ると、その林檎はみるみる崩れて消えてなくなります。それは
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言