41.自分の自然な姿勢は「見える」?前回、「姿勢を正すことが難しいのは、多くの人が持つ、自身の姿勢に関する『視覚イメージ』のほとんどが、『妄想』だからではないか」ということについて。 人は、他人の姿勢は一応「目」で見ることができます。一応と言ったのは、
51.「教える」ことが減ること つまり、この算数の問題の例から言えるのは、それ以前に学んだ「知識」が整理されていて、それを引き出す能力があれれば、自分で解けるということです。そうすると、その「解く過程」を「知識」として長々と「教える」必要はないということ
50.「読解」と思考をつなぐ「関連知識」 さて、「関連知識」のことです。 前回の例でいえば、問題文に出てくるのは「正方形」「面積」という「ことば」だけですが、それが読む側の中で、それらとその「面積」を求める公式がつながっていると、その問題文に出ている「
49.「思考過程」を「教える」? 「思考」について、何を指導するか、つまり、何を教えるか、それについて、「見方を変える」で取り上げた次の問題を例に取り上げてみます。問題:一辺10cmの正方形に、円が内接しています。正方形の円を除いた部分の面積を求めなさ
48.「読解」から「思考」へ 「問題文」の「読解」は、その問題解決の前提です。問題を誤解すれば、普通に考えれば、その問題解決ができないか、誤りをもたらすことになるでしょう。現実には、誤りがそのまままかり通ることが幾つもありますが。 ただ、ここで取り上げ
47.個々の情報を基に指導方針を さて、「知識」が無い場合、例えばある漢字について、もともと学んだことがないような場合、それは「知識」そのものの問題ですが、以前学んだことがあり実は本人の中に「知識」として潜んでいる、ただ、それを「想起」できないというのは
46.その生徒の中の「知識」は? そこで、「問題文」の読み取りについての、実際の指導ですが、その「問題学習」を自ら計画し、自身で学習を進めていく生徒は、自主学習能力がる程度身についている生徒ですから、その困難に際しても、自身で対処できるでしょうから、ここ
45.目指すものが違うと「教える」ことが違う さて、「問題」の学習での「問題文の読み取り」を例に取り上げたのは、それに伴う「教える」ことの違いが、「自主学習能力の育成」と「現実の教育」では、それぞれの目指すものの違いから来ていることを示したいからです。
44.自分の中ではたらくもの 今使っているパソコンのハードディスクを先週HDDからSSDにとりかえました。そうすると、パソコンの動きがスムーズになりました。 年を取ると、若いころに比べ、明らかに頭の中のはたらきが鈍ってきます。それまで簡単に思い出せたこ
43.読み取るはたらき そこで、その「読み取る」ためのはたらきを一般に説明するための言葉として、先に取り上げたのが、「知識」と「操作」と「意思」の三つです。無論、この言葉を、「はたらき」として受け止めるには、不適と感じられるでしょうが、一般の人々の「知
42.「自分で読ませる」 そこで、指導する側の「目指すこと」が生徒の中でどういう「はたらき」を引き出すことにあるかを基に、具体的な「教える」とされることについて、取り上げてみます。 生徒に算数の「文章題」を解かせる、そういう学習を指導するとして、その解
41.相手の中の「意味」 我々が、人に「何か」を伝えるという時、その「何か」は、「自分」の中のここでいう「意味」です。「りんご」の例でいえば、〇としたものです。この〇は、様々な「はたらき」が結びついたものでした。 その際、「コトバ」を使用します。例えば
40.「教える」ことが変る 方針が変わるにつれ、「場」が変る、そうすると指導する側と学ぶ側の関係が変る、指導が変る、それは「ことば」を換えて言えば「教える」ことが変る、それは以前の「教える」ことの否定につながるわけです。そこで時にはその以前のやり方の踏襲
39.「意味」の伝達の難しさ なぜ、「意味形成」を重視するかというと、その理由の一つとして「表すことばが無い」ということがあります。 それは、我々が現在使用している「ことば」で、かってその「ことば」が無かった時について考えると解り易いのではないでしょう
38.極意の伝授 ここでいう「意味」は、「個」の内部に形成されるもので、社会で、「~のことを~とよぼう」というふうな、いわば約束事として成り立つものを指すのではありません。 ですから、その「意味」というのを追求すると、何らかの「個」のなかの「はたらき」
37.「コトバ」より「意味」にはたらきかける 我々は、「リンゴ」という「ことば」一つとっても、それを教える際、言葉で味やにおいを長々と説明するより、実際に現物を示しそれを食べさせて、「これがリンゴだ」と「教える」やり方を選びます。 その食べさせるという
36.「ことば」の個別性を基にする指導 生徒と個々に向き合うようになると、「能力」の「個別性」に目が行くということについて。そこで、「個別性」という言葉ですが、この言葉は、以前「言語の個別性」として再々使用したものですが、その「言語の個別性」というのも
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41.自分の自然な姿勢は「見える」?前回、「姿勢を正すことが難しいのは、多くの人が持つ、自身の姿勢に関する『視覚イメージ』のほとんどが、『妄想』だからではないか」ということについて。 人は、他人の姿勢は一応「目」で見ることができます。一応と言ったのは、
40.「能力」の土台をなす「姿勢」 前々回に「視る」ことと「姿勢」のことに触れました。 人の能力について触れている著作に目を通すと、多くの分野で、「姿勢」の在り方が能力を左右することに気が付きます。 解り易いのは、老化に因っての姿勢の歪みが人の認知能
39.内視と想像と妄想 「視覚イメージ」ということについて。 まず、普通にものを目で見る、そのことについて考えてみますと、我々は、当初は、単純にそのものがそこにあり、それを自分たちは「見ている」と思っていたのではないでしょうか。その時は、何人かで同じも
38.「内と外を合わせる」こと 我々は運動する際、骨とか筋肉を使用します。その際、筋肉で言えば、表層筋と深層筋を使います。ところが、表層筋は外から見えますから、その動きを言葉で伝えるのは易しいわけです。ところが、深層筋の動きを共有するのは非常に難しいわけ
37.「内の現実」を視る―「内視」について 「目だけの経路」を使用する視覚イメージの形成を「目視」とよぶとすると、我々が(「視る」ことは全て「目視」である)と考えると、学習能力についての判断を間違うことになりかねません。 そこで、その「目視」以外の「視る
36.「『現実』を視る」ことと「目を使う」こと 「視覚イメージ」が意識にあがるケースにはいろいろあります。 現に目の前のものを視ること以外にもいろいろあります。その見たものをいったん記憶し、それを再生するケースがあります。また、コトバとか文字を介して生
35.脳で視ている? 「目で見る」と「目以外で視る」ということについて、触れておきます。 「目で見る」ということを大雑把に言えば、少し突っ込んでみると、「目」が外からの刺激を感覚神経を介して「脳」に伝え、それを基に「脳」が視覚イメージを生み出す、そうい
34. 市民権を持たない能力 教科学習での誤りについて、それを修正することについて考える際、まず、その原因を知ろうということで、その「原因分析」についてとりあげ、「知識」についで、関係器官の「操作」について取り上げる中で、前回、「その能力をいわば市民権のあ
33.理解には様々な感覚が関わる 前回、ミラーニューロンを取り上げたのは、自閉症の例にあるように、我々が「視て解る」「聴いて解る」と思っていることが、実は「目」とか「耳」とかだけによるのではないのですが、普通は、そう考えられていません。例えば、「共感覚
32.ミラーニューロンについて 今まで、「聴く」ということについて、様々な器官が関わるということを取り上げました。 そうすると、その「聴く」に関わる器官とは、「耳」を中心としたいわゆる「聴覚系」とされた器官だけを指し、次にそれを支えるエネルギー系などを
31.様々な器官の動員 「学習法」は、様々な器官を動員し、そのはたらきを統合することで成り立っています。 例として取り上げた「単語学習法」にしても、大雑把に言っても、聴くと見ると話すと書くこと全てのはたらきを統合することになります。それらがバラバラに足
30.「知識」の修正から「操作」の修正へ 修正学習を考える際、それまで身に付けたものの修正をやるとして、まずやるのが「誤り」の原因を突き止めることで、それを「原因分析と」読んでいるわけです。そこで、「レポート学習」では、まず、学習の過程を明らかにし、そ
29.内外の器官の操作 前回での「結び付ける」過程に問題がある場合は、そのためのやり方を指導することになるでしょう。 例えば、発音に問題がある場合、特定の音声について、その発音のための口や舌の使い方を指導する、後は本人がそれができるよう繰り返す、そうい
28.学習法を支える能力と知識 そこで、「学習法」とそれを支える能力について、SSAの単語学習法を例にとり上げるとします。 テープと単語プリントを使い、英語を聞きながら真似をして声に出して言い、同時に目で英文字を見ながら真似をして書く、次に英語を聞きな
27.学習法、通常の学習の中での習熟を目指すか? 「目標指示」は、その時の学習の目標を指示することですが、その前提は、その目標とされる学習の「方法指導」がなされていることが前提です。 例えば、「特定の単元の単語学習」の指示は「単語学習法」の指導が、「和
26.その場での修正にとどめるかどうか。 修正学習について、それを通常の学習を続ける中で行うか、それを一旦おいて遡及学習などに切り替えるかは、その修正を必要とする原因によって判断すべきこととなります。 例えば英語での和訳学習を例にとれば、通常の英語の単
25.その時の目標の選択と修正 生徒が、教室でその時何を学習するかは、行き着くところは、本人が自分で計画を立てその計画に沿ってその日何をやるか決めるというのが目指すところです。生徒が自分で計画を立てられるようになれば、指導する側はそれに助言をすれば良いわ
24.一定期間をかけての遡及学習 できなかったり誤ったりしたことの原因として、特定の事項というより、単元毎とかし小単元毎とか、そういう知識が欠けていることがあります。それは、本来、学校などで学習済みのもので、その知識の欠落がどの程度の規模のものか、本人
23.短期・中期・長期の取り組み 誤りの原因について、大雑把に言えるのは、まず「知識」の問題というのは、比較的短期に対応できるようです。例えば、あることについての理解が間違っていた、それを正しく理解し直す、それをその日の時間内にやる、そういうことが多い
22.原因と能力の結びつき 学習はうまくいかないことの「原因分析」について、「和訳学習」を例に学習の過程を取り上げたわけですが、無論、それだけで、そのまま「修正」につながるわけではありません。 その「過程」を前提とすれば、例えば「和訳学習」での単語の
85.現実を様々な次元で受けとめる我々は、ものを見る時、ふつう、それがそこにそのまま変わらずある「物」として見ます。ところが、例えば、それが林檎であるとて、その林檎を高速度で撮影した映像を早送りで見ると、その林檎はみるみる崩れて消えてなくなります。それは
84.「物」の実体とは? 「コトバ」を介して「物」のイメージが浮かび上がる、そのことを実感すると、その「コトバ」の「意味」するものが、そのイメージを生み出す働きがそこにあるのだというふうに感じられてきます。そうすると、それが、スマホとかパソコンにキーボ
83.検索と連想さて「深層」のメカニズムをさぐる例として、「深層」から「意識」への「想起」を取り上げる研修です。「想起」というのは、「思い起こす」、 つまり「深層」から様々な知識を取り出して「意識」に上げる、その際にその過程を「意識」に上げてたどってみま
82.「深言」ということば三層フローチャートに書き込みをやる、言葉を書き込むわけです。その言葉について、外言と内言という言葉があります。 内言とは、音声を伴わない自分自身のための言語であり、思考時に使用される。 一方、外言とは音声言語であり伝達の機能を果
81.三層間の移行三層フローチャートの書き込みを同じテーマで何人かがやるとします。その時、同じ過程を「行動」と「意識」と「深層」の各欄にどう振り分けるか、人によって違いが出てきます。我々は「意識」と「深層」の間が固定されているように考えがちですが、それは
80.深層に焦点を当てる現在の教育に問題があるなどと言えば、よくある民間による公教育の批判として受け止められるかもしれません。個々の学習過程を、三層フローチャートで分析することをやります。一人一人が書き込むことですから、全て同じにならないのは当然ですが
79. 自・他に「みえる」「みえない」さて、この三層フローチャートをなぜ研修の最初に持ってきたかと言うと、その行動と意識と深層と書き分ける、そのそれぞれについて、大雑把な違いをまず把握することです。「行動」は、自分にも他にも「みえる」。「意識」は、自分
78.能力の普遍性・共通性・個別性さて、三層フローチャートへの書き込みをして、お互いに披露しあう中で、同じ「コトバ」の意味の形成一つをとっても、ある人と別の人では違いがあることは解ります。そこで、個々の持つ様々な能力について、一人一人が違うということも
77.コトバと意味の結びつきに気づく そこで、その「音声」とか「文字」を意識すると、それが指すもののイメージが浮かび上がってくる、逆に、あるいは何かを思い浮かべると、それを指す「音声」とか「文字」が浮かび上がってくるということを経験することで、「コトバ
76.「深層」の存在にあらためて考える 次いで、「三層フローチャート」を使用しての研修に移ります。 そこで、何を書き込むかは、予め用意したテーマで、それぞれが書き込むこともあれば、それぞれが自分の経験したことを書き込むこともあります。 そこで、その
75.「意識」「深層」「行動」の意味の共有 研修では、まず、そのあたまの中で何かが浮かんだり、消えたりすることを、それぞれが経験できるか確かめ、それを「意識」とするとします。それを「意識」とするというのは、ここでの取り決めで、他の人々が何と呼ぶかは別の事
74.自分に由ること さて、「自灯明」とか、その前にでてきた「格物致知」とか、そういうことについて、人に教えてもらう、しかし、それは「他者に頼る」ことになる、「事物に即して知ること」にはならない、それこそ、「自灯明」とか「格物致知」が否定したことです。
73.ことばを生かすのは自分がやること 我々は、自分で考え、それを基に行動します。そして、考えたことを人に伝えます。その際、その考えるにも、人にそれを説明するにも、ことばを使うわけです。その「ことばを使う」という「自分がやること」について、それがどういう
72.「分別智」と「無分別智」など 前回述べた弟子の中の「山」の変化については、「ことば」の意味の在り方を左右する意識構造の在り方として取り上げましたが、これについては、仏教では「分別智」と「無分別智」という言葉で説明したりすることもあります。 外から
71.「山は山にあらず」から「山は山」へ。 その意味的凝結体を使用する場合とそれが溶け合って流れる場合では、経験することが違ってきます。我々は、例えば同じものを「見る」とします。そうすると同じ経験をしているというふうに思いがちです。しかし、その「見る」
70.意味的凝結体の溶解 「対話と非対話」では、その分割された名前を持ったもののことを、意味的凝結体と言っています。そして禅の修行はこれを溶かしてしまうことだということで、禅問答もそうですが、座禅についても、「座禅とは、意味的に凝結している事物を溶解して
69.「山は山にあらず」 さて、禅問答の「山は山にあらず」を例に、禅が問題にする言語の意味的分節化について、 説明するとします。ですから、元の本にあるものではありません。 我々は、本来繋がったものごとに意識を焦点化するために「ことば」を使います。このこ
68.ことばの意味による拘束から抜け出す さて、言語による「意味的範疇の枠組みから抜け出す」ということについて、この書では、「山」と言う言葉について、「山は山にあらず」という禅での問答を取り上げています。 ここでは、以前、「能力の受け止め方21」で、「
67.禅の言語観について前回述べたことのあと、更に、禅の言語観として、次のように述べています。禅が内蔵するこの言語観によりますと、言語は主として、あるいは第一義的には,一種の認識 パターンである、つまり、本来何の区別もなく、何の線も引かれていない、絶対無
66.言語を使うことによる自由の喪失さて、「喋りすぎること」の何が問題か、次のように続きます。 禅の立場からして一番大切なのは、人間がただやたらに喋りたがる性質を持っている点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちにその言