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ブルガリア研究室 http://79909040.at.webry.info

ブルガリアに関する歴史、政治、生活の紹介。およびバルカン専門家の視点に立った国際情勢へのコメント。

 ブルガリアには、60年代後半、70年代後半、80年代後半の3回(社会主義時代)、および自由化後の02年から05年の合計4回在住した経験あり。ブルガリア語の新聞が読める。

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2008/03/16

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  • 自由化後のブルガリア(12)

    シメオン2世元国王が主導したNDSV政権は、01年――05年の4年間の任期を全うしたが、また、EU加盟と言いう自由化後のブルの政治課題を、何とか成功軌道に乗せていった(ブルのEU加盟実現は、07年1月)が、全体としてみれば、マフィア企業、汚職、組織犯罪と政治家の癒着・・・・などの欠点も目立ち、再度左派系のBSP政権の誕生を準備してしまった。 その辺の、スキャンダルだらけとも言うべき政局の動きを見ながら、今回…

  • 自由化後のブルガリア(11)

    Ivan Kostovが、経済学者という出自にもかかわらず、見事に自由化後のブルで初めて「成功的な政治」と言うものを実践して見せました。その手法は、「バルカンの独裁政治家」特有の、独断的、独裁的手法+「金」による与党政治家らの買収でした。政治資金は、ドイツの団体からの寄付金もありましたが、大部分は、ブルのタバコ密輸組織からの献金、ロシア・マフィアからの献金、SIK組系暴力団からの献金、などでした。コストフ…

  • 自由化後のブルガリア(10)

    今回は、コストフ政権が、ブルのEU加盟の条件などに関して欧州側と交渉する際の、厳しい条件(原発削減、司法改革、汚職退治とか)、或いは、マケドニア、ルーマニアなどの隣国との関係改善・交渉に関する「歴史的な争点」を乗り越えていく努力などを扱います。 ソ連圏の時代には、ソ連の共産党幹部たちにゴマをすり、賄賂を手渡す・・・・ある意味やり方は明解でした。しかし、EUの場合は、欧州委員会以外にも、うるさ…

  • 自由化後のブルガリア(9)

    BSPのVidenov政権が、マフィア企業による銀行資金、国営企業資産の徹底簒奪と、ブル貨幣価値の劇的低下(ハイパーインフレ)を招来し、経済運営面での無策を暴露したので、この危機を乗り越えるため、臨時の総選挙が実施され、Ivan Kostov・党首が率いる本格的なSDS政権が成立しました。 Ivan Kostovは、元来が単なる経済学者で、しかも共産党系学者のはずですが、どういう訳か「バルカン的・独裁的政治家」としての才…

  • 自由化後のブルガリア(8)

    社会主義系の教育を、しかもモスクワの「名門大学」で受けた、いわば左翼思想のエリート教育を受けたVidenovには、資本主義経済の運営、経営に関するまともな知識、見識が欠けていたし、「ソ連人・ロシア人」に対する警戒感も不足していました。 しかも、移行期で90年代初期~半ばにかけてのブルにおいては、未だ社会の指導者階層、政治エリートたちが育っておらず、旧共産党時代の現場を仕切っていた「下級・青年将校…

  • 自由化後のブルガリア(7)

    移行期の政権が、短期での交替を繰り返したり、経済改革において無策だったりと、ごたごた続きだったので、国民はやはり旧共産党系の政党BSPに「経済安定、生活安定」の期待をかけました。 ところが、若すぎるヴィデノフは、政権運営に関し手腕もないし、頼れる指南役もなく、全てが裏目に出て漂流してしまいました。 特に国内経済の運営では、国営企業が赤字を垂れ流し続け、更には、マフィア人脈などが銀行(未…

  • 自由化後のブルガリア(6)

    今回は、移行期初期の5化年間における経済改革の失敗と、マフィアが経済界を侵食していった過程につき概観します。 実は、マフィア企業の大部分は、社会主義体制下で「えらいさんの下っ端として、汗をかかされていた、内務省組織(DSを含む)の下級青年将校ら」が中心となって、自由化後の失業蔓延の中で生き残りを図るためにマフィア企業を創設したこと、或いは、闇商売を庇護していた頃の経験から、自らが闇の商売を…

  • 自由化後のブルガリア(5)

    前回は、Filip DimitrovのSDS政権が、旧体制時の悪政に対する報復・・・・洗濯作業にばかり精力を注ぎすぎ、前向きの改革には結びつかず、却って政局を暗くしてしまった、という経緯を見ました。 今回は、少数派のDPS(デペセ)が基盤となって、専門家内閣を組織するという方式が試されることとなりました。 4.Berov政権:1992.12--1994.09 (1)後継内閣の形成:DPSが専門家内…

  • 自由化後のブルガリア(4)

    今回は、非共産党系のSDS(セデセ)政権による、経済改革、政界への「洗濯作業」などを見ていきます。「移行期」における正しい経済政策とか、成すべき政治課題への対応策とか、そういう方面に関しセンスの良い政治家は、未だにSDS内部から登場していなかったので、ブルの政界、経済政策などは迷走します。 3.SDS政府:1991.10--1992.10 (1)Dimitrov首相、Zhelev大…

  • 自由化後のブルガリア(3)

    移行期の初期、全く新しい体制を構築していくためには、中立的で専門家たちによる、特殊な政権が必要でした。 そして、自由化し、資本主義と民主主義に立脚する、いわば「普通の」体制を構築するためには、きちんとした新憲法が必要となりました。 2.民主主義諸機関の構築:1990.12--1991.10 (1)Dimitqr Popov政権(1990.12--1991.11)の課題:国民の間で合意…

  • 自由化後のブルガリア(2)

    ソ連への隷属から解放された、国内の共産党独裁からも解放され始めた・・・・と言っても、政局を動かしていくべき新政党、その指導者らにも、民主主義体制下でどうやって本当の改革を実践していくべきかにつき、ノウハウがありません。 やはり当初は、色々後になってみれば馬鹿げた試行錯誤をしてしまうものです。とはいえ、今では指南役として、米国大使館、ドイツ大使館・・・・などが、積極的にアドバイスしたり、専…

  • 自由化後のブルガリア(1)

    オスマン帝国の統治を脱したブルガリアが、ロシアとの利害関係の相違を認識して、嫌露路線の第3次ブル王国として、かつ中・西欧の提携先としては、結局ドイツを選ぶ形で近代化を推進してきましたが、その親独政策が災いして、ソ連赤軍の占領という事態をもたらした。 赤軍が入って以来ブルガリアは、対ソ従属国家として1944--89年の期間、共産党政権による、人間性を無視した、とんでもない圧政を経験したのですが、と…

  • 共産党統治期のブルガリア(8)

    遂にソ連では、ゴルバチョフ(Mihail Gorbachov)という、ジフコフにとっては全く理解不可能な「新世代の共産党員=夢想主義的共産主義者」が政権を担当することとなりました。ゴルバチョフは、純粋すぎるほど「正しい共産主義、皆が希望を抱ける共産主義体制」などを信奉する、いわば共産主義体制が産み出した「純粋培養のお坊ちゃま」で、現実のソ連共産主義国家がいかなる「独裁体制・全体主義思想」で、「暴力を伴う権力…

  • 共産党統治期のブルガリア(7)

    1980年代になると、ソ連本国を含め、社会主義圏全体の「経済的な後進性・ハイテク技術面での遅れ・西側との軍事技術格差の拡大」など・・・・要するに全般的に「ソ連圏」が、米国、西欧、日本との競争に勝てないという方向が明白化し、他方では、ソ連国内でも80年代半ばになるとゴルバチョフという改革派政権が誕生するなど、とうとうブルのジフコフのような「古い共産党員」では、対応が難しい国際情勢となりました! …

  • 共産党統治期のブルガリア(6)

    ジフコフ独裁期におけるブル国内での言論の自由度、或いは西側に亡命したジャーナリストたちの運命など・・・・社会主義時代の、今となっては信じられないほどの言論統制(中国などでは今でもやっている)などが語られます。 他方で、独裁者の娘で、しかもインテリだったLyudmila Zhivkovaが文化政策を主導したおかげで、ブルの知識人、インテリたちは、ソ連の目を気にしながらも、一定の「ナショナリズム的高揚感」に…

  • 共産党統治期のブルガリア(5)

    いよいよジフコフの独裁体制が確立され、ソ連式社会主義制度の中での経済発展が模索されます・・・・結論を先に言えば、既に現代のわれわれが承知の通り、「ソ連式社会主義」などには何らのメリットもなく、経済政策としては愚策、下策としか言いようがありません。 共産党の「幹部要員」にしか権限、権力が与えられない社会で、経済の指導方針も上の計画機関である「ゴスプラン」が全てを指令する方式(

  • 共産党統治期のブルガリア(4)

    ソ連の独裁者スターリンが死亡し、ソ連本国でも一定の政治的不安定が生じ、ス体制と直結していたブルのチェルヴェンコフの地位も微妙となった。この隙をついて、新たなクレムリン指導部に食い込んで信頼を得ていったのがジフコフだった。 今回から、いよいよトードル・ジフコフがブルの最高指導者として、権力を掌握していく過程となります。 2.非スターリン化とジフコフの台頭:1…

  • 共産党統治期のブルガリア(3)

    ソ連式の、共産党による支配体制へとブル社会を改編していく上で、一番苦痛が多いのは、私企業などの従来の会社を「国有化」して、国家が全てのこれまでの私的所有権を否定し、奪ってしまう作業。やはり、資本家とか、私的資産を持っていた人々の心理的抵抗感は強かったはずです。 特に、ブルの場合は、小規模農地を私有する「小規模農家」が多かったのだが、彼らから農地、家畜、農機具を奪って「国営農場」、「集団農…

  • 共産党統治期のブルガリア(2)

    ボリス親政期のブルでは、基本的に経済的な自由があり、市民的自由度は、ファシズム系政権が続いたこともあって若干後退していたとはいえ、ソ連の赤軍が進駐しブルを支配下に置いて以来の「共産党独裁制度」は、対比してみればとんでもないものでした。 そういう不条理で、全体主義的で、非民主主義的な体制がどんどん整備され、国民の「声」を潰していきます。 (8)更なる軍部粛清 1946…

  • 共産党統治期のブルガリア(1)

    さて、前回まで、6回にわたり、ボリス王の統治期を中心に、欧州でファシズムの嵐が吹き荒れた頃のブルガリアの歴史を、「第二次大戦終結までのブルガリア」として見てきました。 オスマン統治期を終えて、独立を果たした近代初期には、スタンボローフが嫌露派政権で近代国家の基礎を固め、その後は、スがドイツから連れてきた「サックス・コブルク・ゴータ家」のPrinceフェルディナントが、成長し、国王…

  • 第二次大戦終結までのブルガリア(6)

    前回書いたように、1943.08.28にボリス王は死亡した。その頃ドイツ軍が東部戦線で既に劣勢に陥り、第二次大戦におけるドイツ側の敗戦がほぼ明白になり、ブルとしても何とか早く枢軸側から逃亡し、英米のお慈悲を乞い、ソ連軍の占領からは免れたかった。 しかし、米、英両国は、ブル側からの働きかけに極めて冷淡で、今更ブルに寛大な措置を約束してはくれなかった。結局、米英は、バルカン半島は後回しにして、仏の…

  • 第二次大戦終結までのブルガリア(5)

    今回は、第二次大戦中のブルにおける対ユダヤ人政策(独の同盟国として、対ユダヤ人差別待遇に同調)とか、ボリス王の最後の日々、などに関しての情報です。 (6)対ユダヤ人政策 コムニストの脅威を抑止するという側面で、ブル政府と独側の間に意見の相違はなかった。他方、ブルの国内政策で、ドイツ側と意見が衝突したのは、対ユダヤ人政策。 194…

  • 第二次大戦終結までのブルガリア(4)

    ボリス王の親政となって、更にはナチス・ドイツ軍が欧州情勢を席巻したなか、とうとうブルガリアも枢軸国として参戦してしまったのですが、国王はブル国民の「親露的心情」をヒトラーに説明し、バルカン半島を離れた地域へのブル軍の投入には断固反対・抵抗しました。 7.ブルガリアと第二次大戦:1941--44年 (1)バルカン半島を枢軸国が分割統治 ドイ…

  • 第二大戦終結までのブルガリア(3)

    いよいよボリス国王が直接統治を開始し、第二次大戦では、国民の期待を背負って「領土問題解決」に向けて最後の試みをするのですが、結論を先に言えば、ブルの「領土的野望」は、遂に見果てぬ夢に終わりました。 6.ボリス国王の直接統治:1935.01--43.08年=8年間(ただし、この6.では1941年までを扱う) (1)ボリス親政への…

  • 第二次大戦終結までのブルガリア(2)

    第一次大戦における敗北などにより、先代の国王フェルディナントは、退位、亡命を余儀なくされましたが、子息のボリス王が、父親同様に独裁体制を固めるまでには、かなり長い忍耐の時間が必要でした。 王室以外の「軍閥系内閣」、「右派系政治家」らが登場して、夫々が有効な政府の形成を競ったのですが、結局大物政治家は現れず、徐々に王党派への期待が高まっていきます。 3.「…

  • 第二次大戦終結までのブルガリア(1)

    これまで、フェルディナント国王の独裁時代のブルガリアを4回に分けて<(1)~(4)>見てきました。 いよいよ、第一次大戦後、フェルディナントが退位し、亡命した後のブルガリアの歴史です。ハイライトは、未だに国民の間で人気の高いボリス三世の独裁期ですが、それ以外にもスタンボリースキによる農民党政権時代、ブルの国粋主義者達が跋扈した時期、などもあります。…

  • フェルディナントの独裁時代(4)

    2度のバルカン戦争を通じて、主としてセルビアとギリシャ両国が、狡賢い戦略+外交でマケドニア地方の領土をそれぞれが4割と5割も奪取するという、とんでもない成功をおさめ、更には「火事場泥棒」として勝手に参戦したルーマニアまでが、ブルから南ドブルジャの土地を奪い取るという「戦果」を挙げ、他方でブルは本当はオスマン・トルコから得た領土なども若干はあるのですが、基本的にはブルが果たした戦争での貢献・犠牲…

  • フェルディナントの独裁時代(3)

    いよいよ今回は、近代のブル史における一番屈辱的な、軍事・外交面での失敗の経験となります。ブル史では、「第一回目の国家的破滅」と呼ばれる敗戦で、政府・王室に対する国民の信頼が揺らいでしまいます。 フェ国王には、バルカン半島における地政学を理解しつつ、諸隣国を操り、ブルの国益を貫徹できるほどの「外交的知恵」はありませんでした。 5.バルカン外交と2回のバルカン…

  • フェルディナントの独裁時代(2)

    フェルディナント公は、マケドニアに対するブル人達の「自決権」行使への「願望」、「国民統合への願望」を踏まえて、何とかブルガリア国家の独立を完璧化したい、そしてその上で自らの王朝を盤石の基盤に乗せたい、と考えました。 4.マケドニア危機と独立宣言:1900--1908年 (1)国際情勢が悪化 1897年、クレタ島における危機を契機にオスマン帝国…

  • フェルディナント独裁時代(1)

    ★★「フェルディナント公の独裁時代」:1896--1918年=22年間★★ さて、ブルガリア史の「近代編」を(1)~(5)まで連載してきましたが、今回からは、いよいよ第2代のブルガリア公フェルディナントが、スタンボローフ首相を追い出し、自らの直接指導体制を整え、国際的承認も得て、アレクサンダル公以来悲願だった、ドイツ系王族による「親政」を実現した時代を見ます。 …

  • 近代のブルガリア(5)

    今回は、ストイーロフ政権下、フェルディナント公が国際的にブル君主として承認を受け、ブル国家が本格的にキリスト教国家として確立していく過程を扱います。キリスト教国家として確立していくにつれ、ブル領内に残存していたムスリムたちは、やはり居心地の悪さを感じて出ていくし、産業構造もオスマン帝国期と近代欧州国家期とでは変わってきます。そういった変化の部分を見ていきましょう。

  • 近代のブルガリア(4)

    近代ブル王国の2代目君主としてドイツからやってきた、フェルディナント公も、アレクサンダル公同様に、現地のブル人の才能を理解しておらず、先進文明国人としてブル人を内心軽蔑していたようで、スタンボローフの才能にも頼ろうと考えず、徐々に勝手にブル政界を牛耳り始めて、最終的には失敗します。また、国政から排除されたスは、マケドニア系テロリストの手にかかり暗殺されてしまいます・・・・近代のブルガリアでも…

  • 近代のブルガリア(3)

    解放・独立後のブルガリアですが、国家目標として最初に皆が気にかけたのが、「国外」に残されたままの同胞たちを、早く「国内」に取りこみたい・・・という気持ちでした。 3.国家問題と東ルーメリアとの合併:1884--85年 (1)リベラル左派が政権を取り、露の干渉を退け、中銀、国…

  • 近代のブルガリア(2)

    一日1回という投稿ペースを守るつもりでしたが、どういう訳かいつもよりページ数が少なく、訂正したり、校正したり、といった作業もあっという間に終えて、暇なので、2回目の投稿をすることとしました。 2.憲法上の矛盾:1879--1883年 (1)アレクサンダル・バッテンベルク公 …

  • 近代のブルガリア(1)

    さて、いよいよ新型コロナ対策が本格始動して、外出自粛などが要請されています。小生は、リハビリのために、午前、午後と散歩に精を出す毎日ですから、外出自粛とはいきませんが、人込みにはいかないし、他人様との接触はほぼ無いし、その意味では大丈夫なはずです。ところで、このブル歴史シリーズは、今回から、オスマン帝国から解放された近代の、ドイツ系君主を推戴しての「ブルガリア公国」としての出発です。

  • オスマン統治下のブルガリア(7)

    新型コロナウイルス対策として、外出禁止、学校などの閉鎖措置など、いよいよ世の中は大変さを増しているようです。でも日本の場合は、やはり医療機関の信頼度が高い、政府への信用度も高い・・・から、我慢して頑張れば、何とかなりそうな気がします。結局、こういう非常時には、紙幣を刷りまくって、困っている企業、個人に流す工夫をするしかない。 ところで、このシリーズでは、今回で、オスマン統治時代は最後と…

  • オスマン統治下のブルガリア(6)

    欧州諸国では、仏革命の影響で、各国がナショナリズムに目覚め、「国民国家」樹立という方向での政治運動が起きますが、ブルの場合はオスマン帝国首都のイスタンブールと直接の地続き・・・・直轄領という環境もあり、スルタン支配からの解放運動、ブルガリア民族としての独立運動開始への機運は見られなかった。そこで、その代わりというか、宗教面での独立運動が先行した(宗教がギリシャ人…

  • オスマン統治下のブルガリア(5)

    前回も強調したように、オスマン帝国が「衰退期」を迎えつつも、色々「改革」を試みる中、ブルガリア人たちは、商人、或は職人として才能を発揮する時代となり、富裕化し、そしてその富を自国民のための教育振興、文化復興、宗教施設の再建などに投資していきます。 11.ブルガリア文化復興の背景 (1)イェニチェリ軍団の解体:ブルガリアにとっての二つの影響 (…

  • オスマン統治下のブルガリア(4)

    オスマン帝国支配下のブルでは、19世紀に入ると、手工業段階ながら産業が発展し、経済的な繁栄が顕著となって、民族復興運動を支えます。古い帝国としてオスマン帝国本体は「衰退期」に入ったのに、「占領下」のブルでは経済的な勃興期となっていたのです。 10.オスマン帝国における経済、社会、政治的変化 (1)国内市場の列強への開放 オスマン帝…

  • オスマン統治下のブルガリア(3)

    オスマン統治下のブル人達の間で、ようやく一部の人々が覚醒して、ナショナリズム運動の萌芽が出てきます。 8.民族復興、解放:総論 ヴァズラージュダネ(ブル語=vqzrazhdane)、即ち民族復興とは、ブル人達が今日誇りとしている現象である。最初は、文化復興の形をとり、これにおける先駆者達は、少数ながら18世紀~19世紀初頭に出現した。これら復興…

  • オスマン統治下のブルガリア(2)

    今回から、オスマン朝トルコの統治下にあったブルガリアに関する歴史の第2回目です。14世紀末に、オスマン軍に占領されたブルガリアが、その後約500年のオスマン統治下で、どのような運命をたどったのか?という風に、想像をめぐらしつつ読んでいくと、より楽しい読み方になるでしょう。 5.オスマン統治下のブルガリア教会 ブルガリアの小村落が維持した祭りとか祝日な…

  • オスマン統治下のブルガリア(1)

    今回からは、オスマン統治下のブルガリア(485年間)の連載第1回目となります。ブルの歴史としては、「近世」と言ってもよいでしょう。 ★「オスマン統治下のブルガリア」:1393年~1878年=485年間★ 1.ブルガリアの土地におけるオスマン帝国の統治:総論 オスマン帝国時代に関し、英国ヴィクトリア(Victoria)朝期のク…

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