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鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
京都における源頼朝は希望を与えてくれる聖人君子であったが、鎌倉では完全無欠のリーダーから転落し始めていた。木曾方の残党狩りという名目で源義高を処罰し甲斐源氏…
ここで京都に視線を移すと、東国の勢力が徐々に西国に浸透してきていることを痛感させられる事態がだんだんと起こってきていたことが読み取れる。 まず、元暦元(一一…
何度も記しているが、木曾方の残党狩りとして源頼朝が派遣した先は信濃国だけではなく甲斐国も存在しており、派遣された御家人たちは各地で木曾方の残党を討伐すること…
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なお、元暦元(一一八四)年六月五日の除目において源義経の名は挙がっていない。源義経はこのときに何かしらの役職を、それも兄の源範頼と同等の役職を要求したという…
それが起こったのは元暦元(一一八四)年六月初頭であることはわかるが、詳細な日付は不明である。 何が起こったのか? 山陽道で平家が巻き返してきたのだ。 平家の…
公的地位を有さない源義経は独自の軍事行動を執ることが認められないが、源範頼が鎌倉に戻っている途中における源義経は、源頼朝の指揮下で京都とその近郊で鎌倉方の一…
元暦元(一一八四)年五月二一日、源頼朝から後白河法皇の近臣で大蔵卿でもある高階泰経への書状が届いた。名目上は源頼朝から高階泰経への私的な書状であるが、その中…
前年九月に京都に派遣していた文覚の記録は少ししか出てこないでいたのであるが、源頼朝が源義高を亡きものとさせ、木曾方の残党狩りを命じていたその頃、それまでの記…
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源義高に対する処遇は、娘との関係を考えれば最低最悪であったと評するしかない。だが、新しい政治体制を構築することを考えると間違いであるとは言い切れないのも事実…
京都で発令された改元は、当然のことながらその日のうちに鎌倉に届くことなど無い。少なくとも四月中は元暦元年ではなく寿永三年であったはずである。 捕縛されて鎌倉…
寿永三(一一八四)年四月一六日、元暦への改元が発令された。 ただし、平家は自分たちのもとにいる安徳天皇こそが正統な天皇であるとしているため元暦への改元を否定…
何度も記しているが、源頼朝は京都との間で月に三度の定期的な情報のやりとりをしていた。名目上は源頼朝の乳母の妹の息子である三善康信との私的な書状のやりとりであ…
次に一条能保であるが、この人は藤原北家中御門流という名門中の名門の出身であり、本名も藤原能保である。一一歳にして丹波国司に就いたというのであるから藤原北家の…
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位階が従五位下である中原広元が鎌倉に来たことで、実質上はともかく理論上は未だ従五位下である源頼朝と並ぶ位階の人物が鎌倉方にやってきたこととなる。この時代の考…
平家物語の記すところの平維盛の死から遡ること一〇日、実際の平維盛の死からは二〇日ほどが経過した寿永三(一一八四)年三月一八日、源頼朝が鹿狩りという名目で伊豆…
源頼朝は九条兼実をまずは内覧にすることを求めたが、源頼朝の意見を一つ実現させることには成功した。寿永三(一一八四)年三月一〇日、平重衡が鎌倉へ護送されること…
鎌倉の源頼朝が京都から源氏方の武士に対する取り締まりの要請を受けていた頃、京都では源頼朝の意向に沿った動きが見られるようになった。 その嚆矢が寿永三(一一八…
一ノ谷の戦いの結果、鎌倉は京都と並んで時代を動かす拠点となったが、何度も繰り返すように鎌倉と京都の間の情報連携は早くても半月の時間を要する。これが人間となる…
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寿永三(一一八四)年二月二九日、平家追討の一時中止が決まった。 この日、平宗盛から三種の神器と安徳天皇、そして、平清盛の正妻であった二位尼こと平時子を帰洛さ…
平重衡はいつでも鎌倉に搬送される準備が整っていたが、この時点ではまだ讃岐国屋島の平家からの返答を得ておらず、三種の神器との交換次第では搬送先が鎌倉ではなく讃…
まずは第一条「朝務等の事」。 戦乱の影響で土地を離れざるをえなくなり、特に農地から離れて失業者となってしまった人が数多くいることを挙げ、その人たちに農地に戻…
鎌倉から京都へは、書状ならば届くが源頼朝自身については全く姿を見せないでいる。 源頼朝の末弟である源義経が京都にいて、一ノ谷の戦いにおける活躍はたしかに評判…
寿永三(一一八四)年二月一五日、時刻は辰刻とあるから現在の時制にして午前八時頃、鎌倉にようやく一ノ谷の戦いでの勝利の報告が届いた。もっとも、ようやくとは言う…
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いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
源実朝が園城寺と手を結ぼうと考えたこと、中原広元ら鎌倉幕府の文人官僚が園城寺と距離を置こうと考えたこと、その双方とも理解できる話である。 まずは後者であるが…
近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日の…
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
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鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
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土御門通親がこのことを理解していないわけではない。 とは言え、土御門通親の権威の源泉を辿ると、養女が土御門天皇の生母であるという一点に行き着く。 仮に後鳥羽…
後鳥羽上皇が和歌の世界にのめり込んでいることは既に記した通りであり、正治二(一二〇〇)年七月一五日に百首歌を企画したのも既に記した通りである。そして、このと…
それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様…
後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
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宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…