SE山城京一のP.F.ドラッカー講座 Amazon
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
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一ノ谷の戦いで敗れた平家の面々は四国屋島に海路で戻っていた。 誰が一ノ谷の戦いで討ち取られたのか、あるいは、討ち取られたかどうかはわからないにしても行方不明…
寿永三(一一八四)年二月一一日、朝廷は源氏方に対して平家の首を携えての上洛を許可するにいたった。 二月一三日、源氏方の武士たちが討ち取った平家の武士の首を掲…
寿永三(一一八四)年二月八日、源氏勝利の第一報が京都に届いた。九条兼実は梶原景時から第一報が届いたとしており、九条兼実の日記には、伝聞にしてはわりと細かな一…
戦いは一ノ谷だけで始まったのではない。平家が主力を集中させていた生田の森でも戦いは始まっていた。その中で奮闘を見せたのが梶原景時である。このときまで梶原景時…
以下は平家物語の記載である。 寿永三(一一八四)年二月七日に攻撃を開始することは源氏方の誰もが理解しており、源義経のもとにいる武士たちも翌日の攻撃に備えて眠…
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一ノ谷の戦いの代名詞とも言うべき鵯越(ひよどりごえ)の逆落としのあった場所として、現在も地名として残っている神戸市兵庫区の「鵯越(ひよどりごえ)」を思い浮か…
福原に陣取る平家のもとへ、三草山に陣取っていたはずの平資盛の軍勢が源氏方に完膚なきまでに叩きのめされ、総大将平資盛が命からがら逃走したという知らせが飛び込ん…
寿永三(一一八四)年二月五日の夜に搦手(からめて)の軍勢は三草山に平家の軍勢が陣を構築しつつあるのを目撃した。 ここで搦手(からめて)には二つの選択肢が突き…
神戸市は北に六甲山系のそびえる都市である。現在の神戸市にあたる福原もそれは変わらない。京都から福原に行くならば、陸路ならば名神高速を経て阪神高速、あるいは鉄…
寿永三(一一八四)年二月五日、山陽道を進んできた源範頼率いる源氏の軍勢の大手が摂津国に到着。既に伝えている通り、二月七日の戦闘開始に向けて準備を進めることと…
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源範頼の出陣を翌日に控えた寿永三(一一八四)年二月三日、源行家が後白河法皇の配慮によって京都に戻ってきた。平家に敗れ、木曾義仲の派遣した樋口兼光にも大敗し、…
摂津国福原の本拠地を再興しつつある平家を討伐するため、源範頼の率いる軍勢が京都を出発したのは事実である。山陽道を進んで東から福原を攻める大手、すなわち源氏の…
源頼朝が報告書を受け取って読んでいた寿永三(一一八四)年一月二八日、京都では何の前触れもなく源義経が訴えられるという事態が起こっていた。 訴えられた理由は、…
木曾方の壊滅は復讐を生みだした。 その嚆矢は、寿永三(一一八四)年一月二一日に既に始まっている。木曾義仲の死が公表され、残っていた木曾方の兵士たちが、ある者…
寿永三(一一八四)年一月二〇日、後白河法皇のもとを木曾義仲が訪問した。宇治川での敗走に加え、東方では勢多で源範頼率いる本隊に敗れ去ったことを知り、もはやこれ…
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源頼朝が梶原景時を派遣したことの効果の一つに戦場からの報告の詳細さがある。既に記している通り、鎌倉方の軍勢の本隊たる大手は源範頼率いる近江国の軍勢のほうであ…
木曾義仲が後白河法皇を連れて北陸に都落ちすることを考えているという噂は広まっていたものの、既に鎌倉方の軍勢が近江国まで進出していることは木曾義仲の北陸への都…
鎌倉に目を移すと、この頃の鎌倉では一つの出来事が起こっていた。 前年末に梶原景時が上総介広常のことを謀叛計画ありとして殺害した事件の影響で、正月に源頼朝が鶴…
寿永三(一一八四)年一月八日、平家が摂津国福原に到着し京都帰還を伺っているという知らせが京都に飛び込んできた。しかも福原の東西を封鎖して要塞化しているという…
年が明けた寿永三(一一八四)年一月六日、源頼朝の代官である源義経ら鎌倉方の武士たちが、墨俣を越えて美濃国にまで入ってきたという風聞が届いた。この風聞に最初に…
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ここで鎌倉に目を移すと、鎌倉方でこの頃、一つの大問題が発生していた。 上総介広常が殺害されたのだ。 京都と鎌倉との月に三度の定期連絡を受ける仕組みを設けてい…
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いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
源実朝が園城寺と手を結ぼうと考えたこと、中原広元ら鎌倉幕府の文人官僚が園城寺と距離を置こうと考えたこと、その双方とも理解できる話である。 まずは後者であるが…
近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日の…
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
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鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
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土御門通親がこのことを理解していないわけではない。 とは言え、土御門通親の権威の源泉を辿ると、養女が土御門天皇の生母であるという一点に行き着く。 仮に後鳥羽…
後鳥羽上皇が和歌の世界にのめり込んでいることは既に記した通りであり、正治二(一二〇〇)年七月一五日に百首歌を企画したのも既に記した通りである。そして、このと…
それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様…
後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
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宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…