詩への想いがメインです。短めの詩や有季・無季の句も詠んでいきます。ご意見などいただけたら嬉しいな。
詩作する人だけが詩人じゃない。詩は詠めなくても詩を読むのが好きなら詩人。だから私は詩人です。強引に売り込んでみました。
岸見一郎教授の講義は26日(月)が最終回だったようだ。三木清の「人生論ノート」を読んだことがない私には岸見教授からの情報が凡て。合計60分間の講義で三木の人となりを把握することは私には出来なかった。と云うよりも「人生論ノート」を通して岸見一郎教授の哲学が述べら
世界の構成は「あなたと私」「you & i」から成ると私は理解する。これは言い換えると「主体と客体」「自己と社会」と言っていいし、「水と魚」というのも仏説にある。この魚は私( i )と受取っている。だから水はあなた・you・客体・社会だ。水が害悪ならば私は安らかでいられ
勝って兜の緒を締めよという格言がある。ちょっと油断しても命を奪われる戦国時代には大いに意味があった言葉だし、言わんとするところは分るけど、今はもっと大事にすべき言葉がある気がする。そういうことで私はあまり好きになれない。太平洋戦争へ突入して日本は言論弾圧
己の流儀が受入れられない局面にあって三木清はどう対処すべきだったのか?私ならどう対処するか?あなたなら折れるか?それとも突っぱねるか?理屈も綺麗ごとも通じない難局に立たされた人に対して傍からオイソレと口出しできるものではないだろう?人生論ノートの意味は結
幸福と云い、幸福感と云っても自分&世界の関係‥という地点までは私もどうやら辿りついた。自分というのは私と言い換えるべきかも知れない。そう感じる私はそう思えるが、だからと云って、あなたに「そう想いなさい」と言う積りはない。「私は幸福だ」と言う人へ「おいおい、
幸福と幸福感は異なるとする岸見教授の考えを支持はしたい私なのです。その私の目に平均的日本人は幸福感のなかに居たいように見える。それよりなにより幸福感のなかに居るのが大好きな私なのです。それなら幸福と幸福感は異なるにしても別々のモノと捉えるのは間違いに思え
三木清の「人生論ノート」は多くの若者たちから支持されたと講師の岸見一郎教授は「100分de名著」の講義で述べておられる。岸見氏が受けた印象は確かにそうだろうけど、それならそれらの若者たちはどこへ行ったのだろうと私は考える。一過性の支持?熱病のごときファン心理?
素材を得て反応するのは業(ごう)の為せるところ。業は共鳴する。私は私の業を得て反応し共鳴することになる。そう想えればこそ私は私の業を善きもの美しきものとしておきたいし、鋭利なアンテナとすべく研いでおきたい。それが叶ってこそ私は私の業を大好きになれるし、私の
時代の波に吞まれた人格は破綻する‥啄木の「我を愛する歌」の章を読返してそんな事を想った。どうして私はそう想ったのか‥思い当ることはある。この11月のnhk「100分de名著」で三木清の「人生論ノート」を再放映している。時代の波に翻弄された哲学者・三木清、時代の波に
一握の砂は五章構成「我を愛する歌・煙・秋風のこころよさに・忘れがたき人人・手套(てぶくろ)を脱ぐ時」で並ぶ。これらの初めの「我を愛する歌」には既に軽く触れたとおりだ。それにしても石川啄木は何を想って「一握の砂」を出版したか?産まれたばかりの真一は病弱‥それ
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