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  • 南アルプスから(5)

    21日に2回目のヘリが来ました今回は小屋前に荷物が降りましたが、風があったので屋根にぶつかるのでは!とびっくりしました水場の写真です写真では出てるか確認できないかもですけど…ちょろちょろ出ています古い登山地図には水場と記されてますが、今は立入禁止ですここを通ってタンクに溜めて小屋に揚げます今夏はタンクから溢れているので、現在では去年より心配無いかもです(7月初旬の雨が良かったのかも!?)KIMさんより、今回は山小屋のライフラインに関わる便りでした南アルプスから(5)

  • 日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

    2007年11月20日講談社現代新書【見えない歴史】1965年まで、日本人はキツネに化かされていた。なぜか?かつては私たちの周りには“ヒトを化かす”たくさんの動物がいました。たとえばキツネ、タヌキ、ムジナ、イタチ……。そのような動物たちがヒトを化かすのは不思議でもなんでもなく、“普通の出来事”として語られていました。内山さんよると1965年頃を境にして日本の社会から「キツネにだまされたという話が発生しなくなった」そうです。なぜこのようなことが起きたのか、それはなにを意味しているのかを問いかけたのがこの本です。「なぜ一九六五年以降、人はキツネにだまされなくなったと思うか」と多くの人に訪ねたところいくつかの意見に集約されたそうです。1.高度成長期の人間の変化:経済が唯一の尺度となり非経済的なものに包まれて自分...日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

  • 森町 遠州山間地の道の交錯点

    森町に通じる県道以上の山間道路遠州森町というのは実は島田とは隣り合せの町だ。と言っても川根塩本から大日山の平松峠を越える県道が、太田川上流部(吉川)の大河内に抜けているのだから、平成の市町村合併を経て川根町が島田市となった後のことだ。それまでは間に金谷町、掛川市があって、東海道のルートからは北に外れていたから、私にとっては大日山や春埜山を訪れた以外は、もっぱら水窪など北遠の山々への往来で通過するだけの町だった。遠州森町は太田川の谷口にあって三方を山に囲まれた小さな町だが、遠江國一宮・小國神社をはじめとする多くの歴史ある寺社があり「遠州の小京都」と呼ばれる佇まいを今に残しているのは何故なのだろうか。それは平成の大合併の最中、周智郡中唯一の町制を守った気概の在り処とも通じているのだろうか。東海道(国一)のルー...森町遠州山間地の道の交錯点

  • 天方城跡

    15日、Chi、Ryoと一緒に車で森町・城ヶ平(天方城跡)へたかだか248mの端山だけど、よく整備された城跡をゆっくり巡れば、風に吹かれて少しは涼しいかな〜誰もいない櫓風の展望台は南西に開け、森町の市街、磐田原、遠くに浜松のアクトタワーが見える森町の城郭森町の山城(やまじろ)をめぐる戦いは1501年(文亀元年)の天方本城(あまがたほんじょう)(大鳥居)に始まる。城を守ったのは今川方の天方通季(みちすえ)軍、攻めたのは斯波(しば)・小笠原連合軍。通季は一時、城を奪われ、付近の山上に避難し、今川軍本隊の応援によってようやく城を奪還(だっかん)することができた。通季の孫にあたる通興(みちおき)は、徳川家康軍が遠江に侵攻してくることを予想して、1568年(永禄11年)ごろ、向天方に天方新城(しんじょう)(現在の天...天方城跡

  • 安倍奥と井川を結ぶ道

    井川峠安倍川と大井川の間には分水嶺として、南アルプス白峰南嶺から山伏を経て連なる山稜が横たわっていて、安倍と井川の集落とを結ぶには越えなければならない峠がいくつかあった。その内、2000年前後まで実際に使われていたのは、北から牛首(三尺峠)、井川峠、大日峠、富士見峠の四ルートである。牛首ルートは、井川最北集落の小河内に出る道で、西日影沢からの山伏周回ルートとして登山目的でも使われていたが、コンヤ沢トラバース部分の崩落で通行止めとなって久しい。井川峠は、安倍側の孫佐島や大代と井川の岩崎を結んでいる。岩崎は井川ダム建設前には大井川左岸の集落だったが、ダム建設による水没で対岸に移転した。ここに架かる井川大橋は、車の通れる吊橋として知られる。大日峠越えは、井川ダム建設以前、井川から静岡に出るための、また口坂本から...安倍奥と井川を結ぶ道

  • 南アルプスから(4)

    梅雨が明けて夏山シーズン本番へ富士山とハクサンシャクナゲ7/17(2564.4三等三角点「奥槙沢」より)夕暮れの赤石岳富士山、手前右に笊ヶ岳・布引山7/19(2701標高点辺り、赤い屋根の小屋も見える)聖岳方面荒川岳方面おまけ山小屋の夕食生姜焼きと具だくさんの味噌汁が売り南アルプスから(4)

  • 静岡の一等三角点

    一等三角点「坂部村」(坂部高根山)師走の「おはようハイク」は、坂部高根山に行った。担当の河野君お薦めの展望所からは、高草山の上に富士山が、また北には大井川筋の山々と申し分無い眺望だった。目的地の坂部高根山頂には白山神社の祠があり、藤枝蔵田の高根白山神社との関連も窺えて興味が湧くと共に、もう一つここには一等三角点(点名:坂部村)と、県内ではここだけという天測点(かつて三角測量の位置座標を補正するための天文測量に用いられた測量標、全国で48点)が埋設されている。現在は木立に囲まれ山頂からの展望は望めないが、この場所が地図測量において重要な地点だったと推測される。三角測量の原理は、三角形の2点間の長さと内角が分れば、もう1点の位置(残り2辺の長さ)が分るというものだが、ここで必要になるのは正確な2点間の距離(基...静岡の一等三角点

  • 南アルプスから(3)

    小屋開けを迎えたが生憎の天候が続く「昨日、今日(7/11)と風が強くて雨もありで…嵐みたいな時もあります」「夕方4時、小屋前気温11℃」「今朝(7/12)6時頃の小屋裏から」赤石岳聖岳荒川・悪沢岳方面裏の展望台への道ハクサンシャクナゲ2564.4m三等三角点『奥槙沢』、名なしではありません小屋裏の小ピーク2564.4m三等三角点「奥槙沢」の名前が出ましたので、南アルプス南部の三角点について少々。三伏峠から光岳までの南アルプス南部主稜線のピークで一等三角点は盟主・赤石岳(3120.5m「赤石岳」)だけで、範囲を南アルプス全域に拡げても甲斐駒ヶ岳(2965.5m「甲駒ケ嶽」)と二峰しかありません。二等三角点は南部主稜線では小河内岳(2802.0m「小河内」)と上河内岳(2803.4m「上河内岳」)。三等三角点...南アルプスから(3)

  • 井川への峠越え

    井川は静岡最北部の山村であり、大井川最上流部の南アルプスによって遮断された閉塞谷、つまり行き止まりの谷である。車道が整えられた今でこそ、大井川の平野部への出口となる島田から二時間程で行けるが、戦後も暫くまでは、峠の山道を越える以外にない文字どおりの離れ里だった。井川へ越える車道が入るのは1957年の井川ダム完成の後であり、1958年、富士見峠を越える大日林道(現・県道南アルプス公園線/県道60号)、大井川筋では1971年、林道閑蔵線の完成を待ってのことであった。また、大井川鉄道井川線の前身は、戦前より電源開発(ダム建設)のための軌道としてあったが、旅客営業を開始するのはやはり井川ダム完成後の1959年であった。こうした閉塞谷の秘境にあって、外へと通ずるルートは、主要には川に沿って縦に移動するものではなく、...井川への峠越え

  • 南アルプスから(2)

    知人からの南アルプス便り、小屋開け前の準備に忙しい絶好の布団(毛布)干し日和コーヒーブレイクやっと荷揚げのヘリが来る南アルプスから(2)

  • 井川に見る様々な「日本」

    一面に花が咲いたソバ畑=静岡市葵区小河内(2014年)9月22日付静岡新聞に〝焼き畑復活3年目静岡・井川の「在来ソバ」根付く〟という記事が掲載されていた。静岡市葵区井川地域で伝統の焼き畑農業を復活させ、在来ソバのブランド化を目指す取り組みが3年目を迎えた。ことしは近隣の民家を改装し、そば打ち体験など交流拠点としての活用も始まった。県外からの移住者も受入れ、集落に活気が生まれ始めている。として、2012年、井川小河内で約50年ぶりに焼き畑を実施し、井川地区の村起こしの一つとなりつつあることが紹介されていた。井川において焼畑が行われていたのは、遠い昔のことではない。戦後しばらく、場所によっては昭和50年代まで続けられ、山間(やまあい)の集落という地理的条件に即した農法であり、生活の基盤であった。井川の昭和28...井川に見る様々な「日本」

  • 続・山名の読み方

    先の会報に『山名の読み方』と題する小文を載せた。さっそくにA・Hさんが手紙の中で触れて下さり、また幾人かの会員からも反応があって気を良くした。今回は文末に記した「○○ノ頭」の頭について、無い頭(あたま)で考えてみた。A・Hさんは「私は頭(かしら)の呼び名が好きです。」と述べられ、また山の話をしていると、他の多くの人も[かしら]と呼んでいるようである。なるほど語感的には[かしら]の方が、すっきりと納まる気がする。ところで一般に使われている[あたま]と[かしら]の区別は、おおよそ以下のように思う。まず、体の部位としての区別は、[あたま]は頂点そのものであるのに対し、[かしら]は首(肩)から上の全てと範囲が広くなる。「おかしら付き」は顔のついた状態であり(魚に首や肩は無いが)、「かしら右!」の号令では首から上を...続・山名の読み方

  • 南アルプスから(1)

    奥山に入っている知人から山の便りが届く7/2聖岳と兎岳7/5三等三角点「奥槙沢」(2564.4)から朝の富士山南アルプスから(1)

  • 山名の読み方

    1997年・岩波新書山名、地名の読みというのは甚だ難しく、いつも苦労させられる。それは、こうした固有名詞には、それぞれの歴史的、地誌的な意味、つまりはそれぞれの地域の文化があって名付けられているからであり、また、長い時間の営為の中や、その土地土地の風土によって名前が変化(訛ったり、省略化されたり)してきている場合もある。さらに、後付けによって特殊な意味合いを付与されるなどということもあるので、一層複雑になってくる。そのような事情もあって、およそ当てられている漢字にのみ囚われていると、頓珍漢な方向に行ってしまったりすることもあるのだ。山名(地名)というのは、読みから辿らなければならないのである。逆に言えば、名前と、その変化してきた経緯(当てられた漢字を含めて)から、その土地の時間の流れ、風土などを垣間見るこ...山名の読み方

  • ランドマークとしての粟ヶ岳

    山頂下の「茶」の字で知られる粟ヶ岳我が家から外に出ると、ほぼ真西の方角に粟ヶ岳(あわんたけ)の「茶」の字を見ることができる。振り返って真東を見ると白岩寺山で、この両山と我が家は東西線上に並んでいることが分かる。もう少し広い地域のことを言うと、志太平野は東端の高草山と西端の粟ヶ岳の両ランドマークに挟まれた地域であり、この両山を目印に新旧の東海道が越えているのだ。高草山塊を越える古東海道の峠が「日本坂」であるのに対して、粟ヶ岳から牧之原台地へと続くこの山塊を西から越える道は「日坂」で、いずれ劣らぬ難所であったことが窺えるが、大井川と共に駿河・遠江の境として存在する粟ヶ岳の方が、より東西文化を分かつ面が強かったのではないかと思える。高草山塊が白峰南嶺から続く大井川左岸尾根の最末端であるのに対して、粟ヶ岳は赤石山...ランドマークとしての粟ヶ岳

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