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2023/08/12

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  • 佐賀藩が威信をかけた アームストロング砲(1)

    維新期の佐賀藩のアームストロング砲、命を懸けた鉄製の大砲の開発とは一体どんなものだったのか?現代の日本の産業界が注目する「失敗学」の実践者だった。佐賀の鍋島藩は徳川幕府の長い鎖国の時代、幕府より幕府直轄の肥前長崎港を黒田藩と交互に警護することを命じられていた。長

  • 閑叟と新平の知られざる強い絆(2)

    閑叟と新平の知られざる強い絆(2)前回の続き 脱藩して京都に着くと、寸暇を惜しんで色々な人に会い情報入手に努めました。その情報を自分の頭で分析し、詳しい報告書にまとめて、国元の同志大木や大隈にどんどん送る。これら報告書は藩内で回し読みされ、ついには閑叟の目

  • 閑叟と新平の知られざる強い絆(1)

    閑叟と新平の知られざる強い絆(1)前回の閑叟の葬儀を主宰したのは江藤新平 の謎を解く、久米邦武の示唆にしたがって、その事実関係を調べていきましょう。旧態以前の古い家柄の連中が執りしきる藩の体質に不満を感じ、藩政改革を要求するわ、また藩校弘道館の書生たちも一

  • 閑叟の葬儀を主宰したのは江藤新平

     閑叟の葬儀を主宰したのは江藤新平明治新政府最高首脳、大納言、鍋島閑叟の葬儀を主宰したのは江藤新平ーなぜ?(故毛利敏彦先生講演録より)惜しくも閑叟は病気にたおれ、明治四年正月、五十ハ歳で亡くなりました。岩倉は何度も盟友閑叟を見舞っています。病の床にあった

  • 明治維新の本流

    明治維新の本流明治維新の本流とは、「明治維新は19世紀後半、欧米列強の外圧がもたらした民族的危機への対応であったのです。そのためには、欧米先進文明を積極的に導入して自強に努めなければなりません。その先頭に立ったのが鍋島閑叟であったのです。(日本の産業革命、

  • 鍋島 閑叟 (幕末・維新期の佐賀藩)

     鍋島 閑叟(幕末・維新期の佐賀)鍋島 直正(閑叟)は、第10代肥前佐賀藩主。9代藩主・鍋島斉直の十七男。母は池田治道( 因幡鳥取藩6代藩主)の娘。正室は徳川家斉(第11代将軍)の十八女・盛姫(孝盛院)継室は徳川斉匡(なりまさ)(一橋徳川家2代当主徳川治済の五男、徳

  • 江藤 新平(4)(留守政府と明治6年の政変)

    江藤 新平(4)(留守政府と 明治6年の政変) 幕末維新期を 烈しく生きた志士 留守政府明治4年7月14日(1871年8月29日)に断行された廃藩置県の後始末が済まないうちに、岩倉使節団の計画が持ち上がり最終的に岩倉具視・大久保利通・木戸孝允ら明治政府を主

  • 江藤 新平(3)(義祭同盟 参加と新政府での活動開始)

     江藤 新平(3)(義祭同盟参加と新政府での活動開始) 幕末維新期を 烈しく生きた志士鍋島藩義祭同盟の原点湊川の戦いは、南北朝時代の1336年7月4日(建武3年5月25日)に、摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直

  • 江藤新平(2)(幕末維新期の佐賀)

    江藤新平(2) 幕末維新期を 烈しく生きた志士江藤新平の活躍を振り返りましょう。 江藤新平幕末期における『葉隠』の影響力をみてみます。江戸中期に完成した『葉隠』は成立当初から直ちに広く読まれることはありませんでした。一般的に普及したのは天明二年(1

  • 江藤新平(幕末維新期の佐賀)

    江藤新平 幕末維新期を 烈しく生きた志士天保5年2月9日(1834年3月18日)ー 明治7年(1874年)4月13日)江藤新平は、幕末から維新期にかけて活躍した日本の武士(佐賀藩士)および政治家です。幼名は恒太郎またはまた蔵であり、諱は胤雄(たねお)または胤風とも呼ばれ

  • 戊辰戦争時におきた神戸事件

    戊辰戦争時におきた 神戸事件アームストロング砲が三ノ宮神社にある理由  神戸事件の時のアームストロング砲   (備前岡山藩のもの)神戸事件とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切

  • 大きな攘夷

    「攘夷」決行と             佐賀藩文久3年5月10日(1863)は幕府が天皇(朝廷)に約束した「攘夷」(外国・欧米人を追い払う)決行の期限でありました。実際には「攘夷」を決行したのは長州藩のみでした。幕府や諸藩は何もしませんでした。その後長州藩は欧米各

  • 維新期の佐賀藩(3)

    維新期の佐賀藩(3)一貫して当時の日本における産業革命を推進してきた佐賀藩は、日本有数の軍事力と技術力を誇っていましたが中央政局に対しては姿勢を明確にすることなく、大政奉還、王政復古まで静観を続けました。しかし1867年には11代藩主鍋島直大(なおひろ)が新政府か

  • 維新期の佐賀藩(2)

    維新期の佐賀藩(2)佐賀藩海軍発祥の地・「凌風丸」が建造された三重津海軍所絵図および川副町早津江 の三重津海軍所佐賀藩の海軍増強 佐野 常民 川副の三重津海軍所の監督となる。佐賀藩は維新期の重要な存在であり、その海軍発祥の地として知られています。 佐賀藩では「

  • 維新期の佐賀藩(1)

    維新期の佐賀藩(1)鍋島直正は科学技術の研究機関である精錬方を設立し、鉄鋼や加工技術、大砲、蒸気機関、電信などの研究開発に取り組み、幕末期において最も近代化された藩となりました。佐賀藩精錬方絵図精錬方:科学技術の研究機関創設精錬方は科学技術の研究機関であり、

  • 江戸期の佐賀藩

    江戸期の佐賀藩佐賀藩は長崎に程近いため、幕府より福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていましたたが、その負担は代々の藩財政に重くのしかかっていました。   佐賀城本丸特に文化5年(1808年)には、イギリスのフリゲート艦が長崎に侵攻し、オランダ商館の引き渡しを要求

  • 筑後川下流土地改良事業

    筑後川下流     土地改良事業佐賀平野の西には白石平野が、さらに東には広大な筑後平野が広がっています。これらの平野は干拓によって形成され、似たような水土の歴史をたどってきました。昭和40年代初頭、「新佐賀段階」として米の収穫量で再び日本一の座に輝いた頃、産

  • 佐賀段階 (佐賀平野の米の一反当たりの収穫量の増加)

    佐賀段階田んぼに水を流すためには水車でくり返し作業を行わなければなりませんでした。 真夏の日差しの下での重労働でした。また、クリーク泥土が溜まるため、毎年浚渫[しゅんせつ](泥土を掘りさらう)しなければなりませんでした。すくい上げた泥土は農地の大切な肥料とな

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