熊襲という言葉がどこから生まれたか? とても重要である。日本書紀や古事記には熊襲の概念をロクに説明していないが、日本書紀には厚鹿文(あつかや)が熊襲八十梟師(くまそやそたける)と呼ばれているとある。 厚鹿文はこの地方では渠帥者(いさお)と呼ばれており、梟師(たける)の上位の位であ...
日本書紀を読むと天皇の逸話とセットで地名が変わる逸話が多い。特に九州は多い。 景行天皇の九州征伐でも逸話は多い。日向国、火国がそれに当たる。別の名前で呼ばれていた。 ではその前の地名はどうなっているのか?古事記の国産み神話にヒントがあると推測した。筑紫島には四つの顔があり、 それ...
景行天皇の九州征伐は中々の大所帯で行われている。部下の名前は少なくとも3人は名前が記されていて、それ以外も居たようにである。 天皇自ら征伐に向かうのは神武東征を除けば有史以来初めてでもある。 十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、 到周芳娑麼。時...
古代天皇の相続ルールが難しい。 だが、相続の仕方を見ると一定のルールの欠片が見つかるのでそれなりの何かはあるように思う。 それを読み解いていく。 ※女性の人数は抜いた計算となります、数え間違えるため。 まずは神武天皇。4兄弟の末っ子である。この頃は末子継承なのかと思ってしまう。 ...
この記事は著者の空想が過分に含まれています。この記事を理由にあたかも事実と思い込んで恥をかいたり、学校の試験でバツを貰っても責任を負いかねます。 其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。 そ...
日本書紀の景行天皇紀に出てくる物部君祖夏花は日本書紀にしか出てこない。物部氏について詳しく書かれている先代旧事本紀にすらその姿はない。 正直、どうしようもないと途方にくれていたが二つのヒントでたどり着くことができた。 ひとつは物部君祖である。普通なら物部連祖となるところなぜか君で...
此女王境界所盡 邪馬台国の境界となる国は奴国である。 ああ、九州にあるよね。ではすまない。場所は特定できないけどこんな国が有ると説明していたから別の国である。 結論から言うと那須国である。難升米の支配地であり、その先は蝦夷と呼ばれ大和政権の支配の及ばない地域である。東の果ては...
さて、卑弥呼のいた時代は何天皇の時代なんだ?調べたら公式見解があるそうじゃないか。 日本書紀を記した人によると神功皇后が卑弥呼らしい。きっとこの人なんだ。 え?なんかこの人強い。 違うんだよ。私の卑弥呼像と一致しない。これはこれで魅力的な題材ではあるけど。 あと、この考察だと。...
取り敢えず伊都国までわかった。港があると言うからには、そこから船にのったのだろう。奴国や不彌国に行った理由がわからないが、取り敢えずおいておこう。合計200里なんて誤差の範囲だ。伊都国から船を出せば邪馬台国に到着できるんだ。そう思ったものの船の速度ってどのくらいなのよ? 苦肉の策...
魏志倭人伝における倭王の重臣達の情報をまとめる。 官有伊支馬,次曰彌馬升,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮、 大夫難升米、 大夫伊聲耆 この6人である。実際に魏にやってきたのは 大夫難升米と 大夫伊聲耆であり、最高ランクの大夫を名乗っている。 伊支馬,彌馬升,彌馬獲支,奴佳鞮は大和で挨...
邪馬台国の場所について考察します。まずは原文を読んでみましょう。 倭人在 帶方 東南大海之中,今使譯所通三十國。從郡至倭,循海岸水行,歷韓國,乍南乍東,到其北岸 狗邪韓國 ,七千餘里,始度一海,千餘里至 對馬國 。又南渡一海千餘里,名曰瀚海,至 一大國 ,又渡一海,千餘里至 末...
卑弥呼は倭姫、難升米は田道間守としたものの引っ掛かることがある。 田道間守は中国行ってなさそう。 非時香菓を求めて 常世国に行ったのだけど。 非時香菓は橘の事らしい。 魏志倭人伝をよく読めば書いてあった。 豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香,其竹篠簳、桃支。有薑、 橘 、椒、蘘荷,不...
畿内説を語るならアタリをつけている。斎宮だ。斎宮も未婚の女子卑弥呼も未婚。巫女をするところも同じ。なんか接点出そう。 なになに、斎宮は昔は斎王と呼ばれていた?これは追い風。雑な考察だけど一気に前に進んだ感じ。初代は倭姫で、豊鍬入姫命が最初に始めた?なんだこの設立と創業の違いみた...
卑弥呼は倭姫、倭王は景行天皇で考察を進めるが聞き捨てならない言葉に気づく。 景初二年六月, 倭女王 遣大夫難升米等詣郡 正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國,拜假 倭王 其四年, 倭王 復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人 其八年,太守王頎到官。 倭女王 卑彌呼與狗奴國...
「ブログリーダー」を活用して、時をかけるエイリアンさんをフォローしませんか?