■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
アランの幸福論の【倦怠】の項にて・建設すべきもの、あるいは破壊すべきものがなくなると、男は大変不幸である。とある。これはその職能(欲望であり理性の生の源泉)が、狩猟、建設、発明、試みることであるからだ。何かしらの新しいものを自分の手の中に入れること
宗教とは「承認欲求の対象を"神様"にした人たち」の集まりである。神様のために尽くして、祈って、寄付をすることで、神様から評価されると信じることで、承認欲求を満たし、自分には価値があると思うようになった人たちのことである。だから、神様【の代理である教
『思考面のアプローチ』①与えられることを期待せず、諦める→与えられる蓋然性がないから、【欲望の働きにより、自分に価値がないと思わないようにする】②与えられていると気づく→既に与えられているから、【欲望の働きにより、自分に価値がないと思わな
『自分の知っていること』以外に、【自分の知らないこと】がある、と自覚するから(無知の知)、【自分の知らないこと】が何であるのかを、知ろうとする。【自分の知らないこと】が何であるのかを、知れば、『自分の知っていること』になる。知識の蓄積と科学の発
悲しみの原因は肉体かもしれないアランは幸福論で、悲しみ、生きづらさ、不満【情念】について、肉体が原因だ、と考えた。思考は結果に過ぎないと。【悲しいなら、思考に聞くよりも、胃袋に意見を聞けと】気の沈み、悲しみは、肉体の作用・血球の少ないこと、
時間がないとき用。できるだけ行間を読んでほしい。無意識まで通すべし。1 生きづらいのは当たり前承認欲求があるから、承認欲求を満たせる能力が低いから、欲求を満たせないから、自分には価値がないと思うから、生きづらい。誰も認めてくれないし
多くのことを考えなければならないのに、それも正しく考えなければならないのに、人は、ひとつのことしか考えられない。意識には、ひとつのことしか展開できない。ひとつのことを考えると、他の多くのことが意識できず、あまつさえ、大事なことを忘れてしまうのだ。
1 認めてくれないこと例えば、偉い人が来て挨拶しても無視されるのが辛い。本当は、声をかけてほしい、という問題があったとする。前は、声をかけてもらっていたが、もうなくなった。与えてくれる状態から与えてくれない状態になったそこに、無意識が、・
無意識は、満足していれば従順で大人しいが、満足しなくなると、再び承認欲求を求めだす。あの気分の浮き沈みである。無意識を満足させるために、・さとして(承認欲は不幸のはじまり)・なだめて(既に与えられており満たされていること、周りの人の貢献に気づく
ソクラテスの無知の知とは、「自分には知らないことがある、ということを自覚しなさい」、という意味だ。自分には知らないことがあるという自覚を持てば、知らないことが何であるかを知ろうとするから、真理という、プラトンの語る善のイデアを知ることにつながり、新たな
1 生きづらさの正体・現在や過去に、承認欲求を満たしたくても、満たされず、承認欲求が満たされない自分には価値がないと思う不満と・未来に、承認欲求が満たされず、そうなった自分には価値がないと思うかもしれないという不安が、人間の生きづらさの正体だ。
無意識とは、自分・意識・理性とは別の動物的な権力者である(宮崎駿が言う、アイデアを出すために、ひたすら血が出るほど考え抜いて、無意識のその奥からイメージを引き出すという話は、あっちに向いている無意識を疲れさせて、意識の方に向かわせるという意味だっ
人間には、・自分のコントロールできる意識(理性)と、・自分のコントロールできない無意識(欲望、本能、旧皮質・扁桃体)が存在する。意識は、自分のコントロールできない無意識がさらにより深く欲望側に落ちていかないように躍起になっている。なぜなら、
【続けられることをすること】自分は、・無意識に自然に続けられることを続けているだけ、のこと本を読み、それを解釈し、文章にする・イメージにする→生活の糧として書類仕事が向いている、だけであること【無意識が承認欲を向いたときの対処】そして、・
やたらと無意識が承認欲求ばかり気にして意識が何を言っても言うことを聞かず(無意識は意識よりも強大だからそうなるのだが)自己肯定感を落として落ち込む時期と無意識が承認欲求を気にせず、意識が何もしなくても自己肯定感や幸福感が出る時期が存在する。バイオリ
無意識が、欲望の方を向いている。承認欲求を満たすように気にしろ、満たされない不満と焦燥感を持ち、満たされたとしても次にこれを失う不安を持て、と言っている。これは欲望が、理性とは違い、摩耗を知らない強力な怪物だからだ。無意識は、理性の方を向いていない
古代ローマのストア派哲学者セネカが「人生の短さについて」で語ったこと。”生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。運命の手中に置かれているものを並べ立て、現に手元にあるものは放棄する。”これ
無意識から、定期的に、承認欲求に属するものが、自分の価値を損なわせるものが上がってきたとしたら、それは、意識では太刀打ちできないものかもしれない。そういう説明しづらい不意の気の落ち込みもある(し、逆に根拠もなく気持ちが上がることもある)。
質問:周りの反応が冷たいと感じたら?回答:人の反応や評価をいちいち必要とするな。承認欲求につられようとしている。欲望(承認欲)による幸せ、外部から与えられる幸せの割合が大きくなっている。そいつは強大で、いつも自分(理性)に、欲望の快楽を満たすよう
自分が生きづらいから、他人を攻撃したり暴言暴力を振るったりで、鬱憤を晴らしたり安っぽい優越感を得ようとする不幸な人が増えた。そういう人は、他人に期待せずに、当たり前の生活のありがたさを感じたほうが自分の人生を幸せに生きれると思う。
人から与えられることに依存して、さらに拗らせると、人はメンタルの病気になってしまう。愛されたいのに、愛されないジレンマや愛されないトラウマから恐怖症や過剰反応が生まれる。承認欲求を拗らせているのだ。これは承認欲求を持つ人間なら誰にでも起こりうる。
善き本を読み、考えることは、自分中の「内なる人間」の善性を、無意識の淵から、呼び覚ます行為なのだ。内なる人間(理性)という自分が、意志(勇気)と強大な欲望を立派に従えるために。その瞬間に、善いことを理性で考えて選択するし、そうする意志を持ち、善い
一度、他の人を、社会性のある同じ生き物として、蟻と同一視してみるがよい。蟻には(自分のためになることを)期待しないし、できないが、蟻とはちがって、他人は、自分のためになることを既に提供しているはずだと気づくはずだ。当たり前すぎて、多くの人(過去にいた人、
自分が作ったものに「特別なもの」がないなら、人に「与えられたという幸せ」が想起されることはない。これを面白みがないと言う。特別なものとは、・新しいこと、知らないこと、見たことがないこと(新規性)・創造的であること、創作的であること、真の回答へ近づくこと(
いい加減に、おっさんになったらですね、おっさんって基本的に世の中からどうでもいい存在になるんですよ。おばさんの方はまだまし。おばさんでも面倒くさいのは煙たがれますけどね。面倒くさいおっさんは罪人扱いですwだから、おっさんになったら、自分のことは自分でケア
自分とは、理性(知識の蓄積)である。意志とはそれを実行に移す精神のエネルギーだ。自分とは、欲望ではない。(正しくは自分の主体ではない。)だから、理性に従って生きなければ自分ではなくなってしまう。自分の価値を見いだせなくなる。欲望に従って生きれ
誰も奴隷になりたがらないから、奴隷になる人が減った。それが現代社会の言う”人手不足”の本質だ。奴隷不足のことを人手不足と言っているだけなのだ。ここで奴隷とは、以下の内容面と経済面で、"他の奴隷ではない労働者"と差別化された人のことと定義する。
嫌なことを考えないということはできない。別のことを、善いことを考えるしかない(別のことを考えて、嫌なことを置き換えて、頭から追い出すしかない。人は、考えたいことを"考えない"ということはできないようになっている。考えたいことは無意識から上ってくるから、意
自己肯定感は放っておけば下がり続けるし、自分と他人との関係も、その解釈も変わり続ける。下がったもの、変わったものを見て、確定的で不変的で普遍的で本質的なもの(善のイデア、真理)を拠りどころに据えること、進むべき道を進むこと(イデアを捉えようとする行
前向きとか明るいことが善いことのように言われているが、自己肯定感があって前向きなのは善いが、自己肯定感もないのに前向きになっても辛いだけだ。表面だけ明るさや幸せを取り繕って、内実は不幸であることを隠している。自分の本質を認めていないから、取り繕
AIとは、その不死性ゆえに、真の創造性を持つことができない知性体である。AIには、既存のアルゴリズムに対して、既存の学習データで最適化したパラメータで固定される(既存の概念に固定される)という点で、真の創造性を持ち得ないという致命的な限界がある。この
例えば、評価されないとか、仕事が与えられないというのは、本当は難しいセンシティブな仕事も任せたいが、そのための知識レベルが足りていない(知らないことを知らない)ので任せられない、という現実的な問題が自分にあるのかもしれない。もしそうではなく、人より高
自分の価値について、いちいち人の評価を必要とするから、(評価されることはないし、いずれ評価されなくなるので)自分には価値がないと思い、死にたいとか言うのである。多くの人は欲望のまま獣性に従ってほぼ自動的に生きている。少しばかりの理性と規律でよ
有名になれるかどうかは、結局のところ、有名な人に紹介してもらうほかない。有名とは、与えられたものであり、与えられた幸運な人から、同じく運良く与えられただけの借り物に過ぎない(自分のものではない)。そんな有名になることを期待しても、可能性の中に生き
この世に、それだけで悪いものはない。与えられたものが悪いものだと判断してしまう、愚かで未熟で、不幸に片足を無意識に自動的に突っ込もうとしている私がいるだけだ。与えられたものに不満を持っても、反対に期待や希望すらを持っても、それに執着したとしたら、与
1.絶え間のない与える幸せの自己肯定感のために(a)善のために与えて、貢献して、役に立つと思う(自己肯定感を高める)・仕事をして役に立つと思う・考えて、創作して、善のイデアを表現して役に立つと思う(b)知識を知り考えることにより蓄積する・仕事のため
オカマの会話は、・相手の話を考えて聞いて、きちんと拾う。・1セッションの最後は必ず笑いにする(愛想が大事)。自分語りでは・自分をしっかり落とす(人から私への与えられない不幸を言う。幸せでしただけのエピはマウンティングになるので不要。なので基本的
意識を(考えるなり、体力を使うなりして)疲れさせ、無意識まで到達させるとよい。心から、何かを生みだしたりするために、自分の制御しづらく、気まぐれな感情を、・善のイデアに至る考察、・知識の蓄積、・イデアを表現することによる貢献という作業に戻らせ
考えることをしないで見るコンテンツは、時間の浪費である。本だろうが、動画だろうがだ。お前の今日見たYoutubeやテレビ番組はどうだったか?デイリーばかりでマンネリ化したソシャゲはどうか?娯楽としては成立したかもしれないが、「考えること」がないから、
与えられるために、与えることを含む行動をするのは、(与えられる能力は加齢により低くなるから)必ず自分を不幸にする。与えるために、(真理の知識を、真理の影を表現するために)与えられるのは、与える貢献感により、自己肯定感につながる。優先の順序の問題で
生きることととは、考えることである読本し、考えることで、創作し、真理に近づき、真理の影を表現して、社会の善のために貢献し、役立っている自分に対して、自己肯定感を高めていく。人から自分へのベクトルは考えることではなく(善のために、与えるために、真
ひっついて、一緒にいてあげるというのは、寂しがり屋の人に、あなたは大切な人ですよ、という気持ちを与えることであって、その人に愛を与える行為であって、貢献しているから、しいては、自分は役に立っているから、自己肯定感を高める行為でもあるのだ。
自分が、自分の持っている「人よりも真理に近いスキル、知識」を、活かそうと思っていなければ(人から評価されようと思っていないことはもとより、人に貢献するために使おうとおもっていなければ、「表現」するほどの大した技術でないと思っているのであれば)、どのみち、
年を取って退職した後の貢献と自己肯定感のために★仕事による貢献・シルバー人材センターでもなんでも雑用を行う。仕事を通じた社会貢献により自己肯定感を高める。★創作による貢献・読本(哲学でもなんでも)で、真理について考えていく。 真理を表現することで貢献する
★考えることは、創作であり、真理に近づくことであり、その影の表現が貢献であること
★意味の分からない難しい本でも、読本することで、著者が何を言っているのか考えること、そして自分のことについて考えること、がよいのだ。★「考えること」が、すなわち、頭の中での創作であり、著者の経験を通じて、自分にとっての真理に近づく行為にもなるのだ。自分や
作品(人ウケ)を作るなら、・創作物であることが、一番の土台、大前提として・自分と、自分をとりまく人、社会がより善くなること、それを目的として、それへの貢献のためとして、与えてくれない、意地悪なあの人と(関係者=上司、恋人、友達、会社、社会そのもの)与えら
・ある程度、というより、最低限というべきか、人ウケを狙いたいなら、 前提条件、具体的なケース、具体的な場面想定、を最初に入れるとよい。 創作物(著作物)として、イメージを創作せよ。・それに対して、 真理(イデア)までは言わないとしても、物の考え方の本質(
創作性がないとは、・既存の著作物の模倣(コピー)・ありふれた表現(インターネットからそのまま流用した表現)・ただの事実、客観的事実、データの羅列である。すなわち、労力と時間をだけかけたにもかかわらず、真理に近づいていない(それへの思いや視点すら励起させな
・創作とは、著作権(著作物)を生じさせることだ。自分の頭の中のアイデアという、自分の思った、捉えた真理を「表現」する。・著作物として、自分の中の発想を、創作して表現する=真理を表現する=貢献する=自分が役に立ったと思うこと(人から評価をまったく要さずに、
子供の頃からの刷り込みで、『親から褒められることで、自分には価値があると思う』ことを無意識下で、習慣化されている。(もし毒親だったなら、子供への支配欲が強いから、なおさら、親に認められなければ、自分には価値がないと、刷り込まされてしまっている。総じ
承認欲求が満たせないせいでマイナスに下がってしまった自己肯定感を、天上天下唯我独尊という自己価値のセーフティーネットで、プラスにして、人に貢献する、役に立っていると思える行動を行い、承認欲求によらずに、人の評価によらずに、自己肯定感を得ていく。
ゲタを履かしてもらって、意識の高い、理想と方針を押しつけるだけの勝ち組部署とか、現実と雑務を押しつけられるだけの負け組部署、という考え方も、承認欲求から派生する嫉妬だ。気にせず自分が役に立ったと思えることをやればよい。人が自分を批判している?→
承認欲求によらない自己肯定感を高める方法と行動が必要だ。承認欲求によらず、自分の力で貢献することのみで、自己肯定感を得られるとしたら、ささやかな幸せ(自分には価値があると思うこと)を得ることができるだろう。むしろ、強い快楽や承認欲求を経
承認欲求によらない自己肯定感を高める方法と行動が必要だ。承認欲求によらず、自分の力で貢献することのみで、自己肯定感を得られるとしたら、ささやかな幸せ(自分には価値があると思うこと)を得ることができるだろう。むしろ、強い快楽や承認欲求を経
人に関心を貢献をと言いながら、関心を持たず、自分の人生を生きよと言いながら、そのようにしない。過ちに気づきながらそれを忘れてやらない。本当は与えられる幸せを受けつつ、人の中で、与える幸せを享受するサイクルを維持できれば良かった?それも幻想に過ぎな
飲酒は不幸を一時的に忘れるだけであって、幸福になっているわけではないんよ…劣等感、コンプレックスを一時的に忘れられるから、多幸感や万能感が出るけど、醒めたら元通りなんや。
心の拠り所にならないもの(生産性、地位、お金、利便性)を、そのように大事なものと誤認させて、金銭や時間のリソースを使わせる、のがコマーシャルだ。不安定なもの(奪われるもの;生産性、お金、地位、名声、他人の評価、承認欲求)を心の拠り所にして不安定な
他人へのマウンティングの評価は、後になって、自分の最悪のタイミングで、評価した結果や言葉が、そのまま評価した自分ヘ全て返ってくる。仕事の本質は、自分が共同体のためになること(善きこと)に時間と労力を割いて働くことで、自分が貢献感を得て、自分の価値を感
歳を取ると、自己肯定感が下がりがちになる何もしなければ、・特別なものは与えられないし(既に与えられているものは、特別なものではなく、もはや慣れてしまい、何も感じなくなる)・与えることもなく、役立っているとも思えない・生きている自分には、唯一無
人から与えてもらうために、人へ与えるのではだめだ。人から与えられなくなれば、人へ与えることもしなくなり、人のものである「与えられる幸せ」は、もとより失われているが、自分のものである「与える幸せ」すらも、失ってしまう人から与えられることに期待
★★ある日のよくある心のワークフロー★★★自分の価値について悩む(承認欲という本能のせいで、 何もしなければ、 自分は役に立っているのか、 自分には価値がないのではないか、と不安になる)↓★生きているだけで価値があると思える(天上天下
人から評価されることで自分に価値がある(逆に人から評価されないと価値がない)という思考では、必ず生きづらく不幸になります。即刻止めるべきです。古代ギリシアの哲学の時代から言われていることですが、「人の評価という不確かで不安定なもの」に、自分の人生の価値
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■知識的徳があるかという問い真に価値として認識できるのは、知識的徳と貢献的徳のみだ(徳=善=価値=肯定=肯定的感情、理性的動機、モチベーション、自らの内部の充実した活力)。本質的には、「その行為には、知識的徳/知性的徳があるかどうか」、という問い
どのみち、今無いものを手に入れる・認識する・積むという、本能から逃れられないならば(神経的刺激の生理システム)、・自分の内に知識善を積むこと(知識的徳)・自分の外に貢献善を積むこと(貢献的徳)で、その今に無い「善=価値あるもの」を積めば/認識すれば
否定する(失敗や批判)↓自己否定=苦しさ↓自己防衛=承認欲を満たそうとする(①自責か②他責又は両方)↓①自責:注目の承認欲を満たす・自分を下げて注目されたい =過度な自己卑下、自虐・他人を上げて注目されたい =過度な自己犠牲、ゴマす
■本質(探究という目的)と形(記録という手段)の関係本質は形(言葉など)にすると、形への執着となり、本質(形ではとらえきれなかった概念を含む全体)から離れてしまう。本質は(探究の)目的であり、形は(記録の)手段であって、形にすると、形(記録の手段)
■徳を積むについて自分の時間を差し出して自分の内や外に善を作る(善を作る=徳を積む)与えられることは諦めて(与えられることは無いから・なお、"一方的に"与えることでもない)徳を積む=善を作ること積む徳、作る善を、自己が認めれば、些細な肯
全ては、無を「否定する」ことから始まり(一切皆苦であり)、継続するものなので、意識し、無を「否定せず」、受け入れることだ(無を否定する苦しみを打ち消す方法)自動的に、無を否定するとしても、意識し、無を否定しない→まずは無意識の否定の対消滅無い
無の荒野・与えてくれる(都合のいい)他者は居無い・与えられる(都合のいい)自己の特別性も無い例えば、全くの見返りなしで、新規性もなく、誰かに1万円を渡す/寄付する行為があって(それは行動の善であるが)それに善さ、価値、善い神経的刺激、
自分を(本能的に)特別な存在だと思うことは、特別では無いという現実(現実の無)と常に戦うことになる。そして、(失敗者は当然のごとく、成功者でも時間とともに必然に)いずれ心のエネルギーが尽きて、無の否定とその苦しみに囚われることになる。無の否定と苦
日々のことに、何も無いなら、何も無いことが当たり前で中庸である。日々の行動は知るためだけにあって、知ることにしか価値と肯定はない。
イヌはボールをぶつけられると、ボールを敵と見做して吠える。ボールを自分にぶつけた者やぶつけた原因を見る=知ることはしない。これは、イヌだけでなく(それなりに知能があると思い込んでいるだけの)ヒトにも同じことが起こる。
皆が本能的に感じている否定の苦しみを放置したままにしておくと、自己否定の鬱や自暴自棄、他者否定の攻撃性(からの孤立や孤独)に繋がって、徐々に壊れてい(き、自己否定に起因する鬱病・アル中・薬物依存、他者否定に起因する誹謗中傷、暴言暴力や犯罪行為へエスカレー
他人を責めたり自分を責めたところで現状が変わるわけがないただ承認欲を求めているだけだ自分の内に善(価値)を生まなければ、自己肯定の変化(自己成長・自己変革)もない------否定も刺激であるし受容も刺激であるし肯定も刺激である否
自分は特別だと思うことが、認知の歪み(本当は特別ではないのに、そう思い込んでいる)の根源なんだよこの本能的な(承認欲求に起因する)歪みのせいで人間は苦しむようになっている(特別なはずの自分が、現実では特別扱いされないという承認欲の否定の苦しみ)この自己
究極的には、肯定感は、知性的卓越性(知の善)で得るしかないし、否定感は、倫理的卓越性(中庸)で消すしかない。ただし、否定も日々の行動のトリガーとしては必須。否定と苦しみがなければ、考えることもなく、動くこともしなくなり、受容のカタルシスも得られない
人生はいずれ無に帰すが、無を否定したとしても(無を否定したままにせず)、無を受け入れて、無から「何か」を生み出して肯定することだと思っている。身の回りに有る物や事が、この何か(誰かが残した善さ)から構成されている以上は、その分だけは意味があると捉える
前向きになるんじゃなくて、まずは無になるんだ何も無いのに前向きになれるはずがないだろう無理に前向きになろうとするから、(何も無いことに対して)後ろ向きになるんだよ~~~~~~~~~どうやって何も無いことを受け入れるかどうやって何も無いこ
『意識を仕直すこと』《無意識の否定に対して》①自己否定したとしても、否定したままにせず、②自己受容できること③そのうえで、自己肯定できること《無意識の期待/肯定の期待に対して》①承認欲の期待が生まれたとしても、他者運も無く、才能運も無いか
そうやって現実を否定する(のは仕方がないとしても、否定したままだ)から、自分は(自己否定で)苦しいし、他人も(他者否定で)苦しくて離れていく。人生が苦しいのは一切皆苦であるし、孤独になるのは因果応報/自業自得なんだ。
犯人の心理を5段階で解説(自己否定の苦しみを抱えている人は現在『非常に多い』ので、今後も事件は発生)する。①現実否定=自己否定で苦しい(生き苦しい)↓②他責思考=苦しいのは周囲や社会のせい↓③他者攻撃=人を攻めて気持ちよくなろうとする(承認欲/
No.0 詳細(無と中庸と善)No.1 全体(否定➡受容➡肯定)No.2 無知の知_知の探究_知の幸福No.3_意識の不連続_No.4_無意識の否定の仕組み_No.5_無の荒野
本来的に与えられない(与えられるものが無い)のに、①幸運により与えられるものが有る快感(リターン・ベネフィット)を享受する②与えられるものが無い不快(リスク・ロス)を回避する③与える快感がある①の与えられる快感が多く(ハイ・リターン)②の与え
①空即是色無いはずなのに、有ることに感謝しよう今において有ることが幸運である②色即是空無いものを欲するな今において無いものを欲するのは苦痛となるーーーーー①本来は、外部には何も無く空なのだ。それが時代の幸運、他者課題の幸運、生まれ
欲しても、自分の力では制御できない幸運がなければ得られず、苦しむということ。多くの(生きづらい)人が勘違いしているのは、小説や漫画やメディアなどの娯楽の影響で、さも現実もそのように多少は苦労したとしても(言い換えると努力すれば)、結局は都合良く進みいつか
外部から入ってくる/与えられる物(有形の物)や事(無形の概念)は多種多様であって、その快感も不快感も多種多様にあることから、①外から自分が受け取って快感なときは、外は無なのに、 奇跡的に物や事が有るとして、欲望の幸運を感謝して、 快感を享受できる②外か
ある事件や事故を起こした人の問題行動の理由を説明するのに・優秀な人だから・真面目な人だから・金持ちだからという、特定の目を引く性質を理由に問題行動を起こした、と言うのは間違っている。これらの不快な記事は、ライター側が読者の関心を引くために仕掛け
①外から与えられたものはすべて喜ぶ、感謝する・空即是色(自分の外には何も無く空であるなら、すべてのものは奇跡的な幸運の産物であり、よって、すべての物欲はすでに満たされている)・欲望の幸福(外から与えられる幸福)の『幸運に』感謝する・幸運とはなかな
この世の全てが「 」(無や空)であるならば、この世の全ての物が有ることは全て奇跡(幸運)の産物であり、愛情の対象となる。有ることが難しい奇跡的な物への(有り難うという言葉のとおりの)感謝や慈しみとなる。物欲(客体への欲望)も、無や空がベース(本来の、根
①色即是空:物(色)への欲(物欲)は苦痛しか生まないため、物欲が生まれたら、これを、自分より外から与えられるものは無く、すべてが空であるとして捨て去る。すべての物(色)が無いとすれば、(理想や願望も空であり、現実(もまた空であるから)とのギャップも生
□欲望を捨て去るために欲望を完全に捨て去るなら、自分の外から入ってくるものは、全くないものと思い(外には何も無い)、自分の内から外へ出ていくものしかない(自分のみが確実に有る)、と思うほかない。ゲームだって、無から考えれば、ゲームがあって、
■承認欲の強い人は必ず苦痛を感じ不幸になる人から認めてもらいたい欲求(承認欲求)を持ってしまうと、自分の力で自分のことを認めることができなくなって、自分だけでは、自分に価値があると思えること(自己肯定感を得ること)ができなくなってしまう。代わりに、
真面目な人が、ストレスのせいで問題行動を起こして転落するのではなくて、(承認欲求が強いせいで、外面が良くて)真面目な(ように見える)人が、承認欲求の苦痛のせいで問題行動を起こして転落していくのだ。しかし、本当に真面目に会社のために頑張って貢献しようと
承認欲求とは、子供が生き延びるための本能であるから(自活できない子供が、親や周りの他者から、可愛い子供であると認知されて、食べる物などを与えられて生き残るための欲望であるから)、自活できる(ようになる代わりに子供の持つ可愛さを失う)大人がいつまでも持つよ
気分の浮き沈みがあるとしたら、それは、・欲望が満たされたから一時的に気分が良くなっているか(自己肯定感がある・高い)、・欲望が満たされなかったから気分が悪くなっているか(自己肯定感がない・低い)、のどちらかの心理状態を、日常生活の中で揺れ動いている
点を取りたいから勉強をするのではなくて(点を取って他者よりも上に立ちたいという欲望ではなくて)、この世の中の仕組みを理解し(てあげ)たいから勉強をする(理解をしてあげる、知識を身につけて役に立てるという理性である)ことだ。点数がとれるかどうかは、そ
日本を含む先進国で精神疾患が多い理由は、欲望(承認欲、金銭欲、名誉欲など)を満たすことが人生の幸福である、という価値観が推奨され広く浸透しているからです。しかし、幸運に恵まれ(続け)ない限りは、欲望を満たし続けることはできないので、欲望の幸福の屋台骨
○行為だって、自分の欲望を満たすからではなく、□の役に立つという理性を満たす気持ちでやることだ。□を理解する・□に優しくする・□に興味を持つ・□に愛を感じてもらう・□にひとりではないと感じてもらう。○欲は、欲望なので苦痛と不幸にしかならない。
欲望は苦痛しか生まないから捨て続けること。この世の全て(外界から自分に入ってくるものは)利己的・欲望的なものだ。よって幸運や他者課題に恵まれなければ、欲望の不満の苦痛により不幸(欲望を満たせない自分には価値がないと思う状態)となる。利他的・理性的
欲望とは、欲望の苦痛を自分に与えて、欲望の理想へ向かう行動を強制させ続ける仕組みである。そして、欲望の理想を獲得するには、幸運や他者の評価・人脈などの他者課題が必要となる。よって、人間は、生きている限り、欲望の苦痛に苛まれ続ける。生まれながらに
!欲望は苦痛になるので、勝ち負けは考えない。負け続けることもあるのが当たり前の事実だと現実を受け入れる。苦しみたくなくば欲望を捨てよ。!自分の技量を実行すること、技量を確認することだけを快感とする。技量が行えれば(行えなければ)、その結果で勝とうが
この世の全て(外界から自分に入ってくるもの)は利己的なもので溢れている。よって幸運がなければ、欲望の不満の苦痛により不幸となる。利他的なものとは、自分から外界に対して出していくものだけだ。自分の意志と善の活動により、役に立てる、理解してあげる、優