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北条高時
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2023/02/12

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  • 北条時行は、なぜ後醍醐天皇の南朝に帰参したのか〜ただ尊氏直義等が為に其恨を散ん事を存ず

    「逃げ上手の若君」がアニメ化され、わが息子の北条時行への注目がますます高まっておるようなので、時行についてあらためて書いてみたいと思う。鎌倉幕府が滅亡した折、諏訪盛高に守られて信州へと逃れた亀寿丸こと北条時行。その5年後、中先代の乱決起し、一時は鎌倉の奪還に成功する。じゃが、あっさりと足利尊氏に鎮圧され、再び敗走する。

  • 建長の政変〜足利泰氏はなぜ自由出家で処罰されたのか

    北条得宗家による専制政治が始まるのは北条時頼公の時代である。宝治合戦で三浦が滅び、建長の政変で摂家将軍を廃して親王将軍を擁立したことで、将軍権力が弱まり執権北条氏、特に得宗家への権力集中が進んだのじゃ。今回は「建長の政変」についてまとめておくぞ。 建長寺所蔵の北条時頼像(Wikipedia) 将軍派・執権派の対立と宮騒動 まずは「建長の政変」に至るまでの経緯をざっくりと。北条泰時公の死後、執権の職は経時公、時頼公へと継承されていくのじゃが、この間の北条氏の地位は盤石ではなかった。摂家将軍との主導権争いが続き、将軍は名越流北条氏や三浦氏、千葉氏らを味方に引き込んで、将軍権力を執権から取り戻そうと…

  • 北政所(高台院)と関ヶ原の合戦〜おねさまは本当は石田三成を支持していた?

    今回は北政所(おね、高台院)について少々。ドラマや小説などでは、北政所と淀殿との間には確執があり、そこに石田三成ら文治派と加藤清正、福島正則ら武断派の対立がからんで豊臣家臣団が分裂。そこを徳川家康につけこまれて関ヶ原の合戦に至ったというような話が通説的に描かれている。 ただ、石田三成の末裔という白川亨氏は、北政所は加藤清正や福島正則ではなくむしろ石田三成と西軍を支持していたという説を提起されておられるぞ。

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