5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その3。藤沢大和自転車道。東名高速道。
いよいよ東京地方も梅雨入りか?ぐずついた天気が続いています。さて、「藤沢大和自転車道」案内板。「神奈川県道451号」となっています。神奈川県藤沢市鵠沼海岸から神奈川県大和市下鶴間に至る一般県道として認定された自転車道である。大規模自転車道の一路線。通称境川自転車道。一般に境川サイクリングロードとも呼ばれる。整備済み区間の大部分が境川の右岸(西岸)に沿っている。総延長24.5km(整備済み区間:20.1km)起点:藤沢市鵠沼海岸-国道134号松波交差点の地下に設けられた地下横断歩道「湘南海のちか道」終点:大和市下鶴間-国道246号大和橋西詰(この項、「Wikipedia」より)境川沿いに設置された「境川ゆっくりロード」を歩きましたが、今回からはこの自転車道を歩くことになります。※1「境川ゆっくりロード」終点...東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その3。藤沢大和自転車道。東名高速道。
東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その2。都県境から離れて。九つ井 大和店。
左岸を進みます。この先で都県境が境川からと離れていきます。左岸(町田市)側の標識。右岸(大和市)側の標識。ここから都県境は、境川から離れ、北東に進みます。この先は右岸(神奈川県大和市)側を歩くことにします。左岸は、横浜市瀬谷区。「大和市」。左手に「九つ井(ここのついど)大和店」。鶴間橋から、当店では、吟味された素材を使い、炭焼きステーキ、しゃぶしゃぶ、いろり焼き、懐石料理,自慢の古式手打ちそばなどをご用意しております。九つ井の由来東国における有力な戦国大名、小田原の北條氏が相模の国を平定し、武蔵まで進出するようになりますと、鎌倉山に連なる戸塚一帯の山並みは、戦略要地としての重要な拠点となり、戦略要害として玉縄城を築城いたしました。丁度その頃、この玉縄城に相対して、ここ田谷の山上に平戸御前という豪族が居を構...東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その2。都県境から離れて。九つ井大和店。
東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その1。南町田グランベリーパーク。(「境川」を下る。)
東急田園都市線「南町田グランベリーパーク駅」下車し、「境川」に出ます。駅と周辺の変容ぶりにビックリしました。以前、「八王子絹の道」歩きでここを通ったときは、一帯が大工事中で、道路も建物も未完成といった印象でしたが。南町田グランベリーパーク駅。ギャザリングマーケット案内図。この付近の今昔。2010年代のようす。左の流れが「境川」。1970年代のようす。まだ未整備中。1880年代のようす。畑と山林。左が都県境となっている境川。昔の南町田南町田(鶴間)は、周辺エリアと合わせて、南多摩郡南村という小さな村でした。1954年(昭和29年)、同郡町田町と合併。1958年(昭和33年)には、町田、鶴川、忠生、堺の4町村が合併して町田市が誕生します。現在の南町田グランベリーパーク駅周辺は、山林と田畑がほとんどを占め、緑い...東急「南町田グランベリーパーク駅」~小田急「長後駅」。その1。南町田グランベリーパーク。(「境川」を下る。)
川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その4。浮島・重工業地帯。川崎宿。(「都県境を探る」番外編)
川崎駅に向かう車窓からの景色。日本の基幹産業が広がる大工業地帯。左手一帯。ロケットの噴射口のような設備。千鳥運河、大師運河・・・。運河の周辺には、(株)JERA川崎火力発電所やENEOS川崎製油所などが広がっています。都県境歩きで川崎市との境界線を何度か通りました。中でも、麻生区の田園風景(森も多く、坂の上り下りがけっこうありました。そのせいか、長寿日本一だそうです。)、一方で、多摩川歩きで対岸の、タワーマンションが連なる中原区。そして、この京浜工業地帯と様々な風景に接してきました。「川崎」というと、川崎駅周辺の競輪場や競馬場、歓楽街・・・、さらに、首都高の車窓から見る大工業地帯というイメージが強かった(偏見?)のですが、川崎市のイメージが大きく変わりました。川崎駅に戻り、旧東海道沿いにある「津之国屋三惚...川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その4。浮島・重工業地帯。川崎宿。(「都県境を探る」番外編)
川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その3。羽田空港。浮島・京浜工業地帯。(「都県境を探る」番外編)
前方が開けてきます。「東京湾アクアライン浮島換気所」方向。。「東京湾アクアライン」木更津側から。羽田空港に着陸する飛行機が次々と。再びバスに乗って川崎駅まで戻ります。周囲は、大工場・物流施設が連なります。マキタ運輸、JFE物流。東京湾アクアラインにつながる「首都高川崎線」。木更津方向へ向かうICへ。川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その3。羽田空港。浮島・京浜工業地帯。(「都県境を探る」番外編)
川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その2。浮島町公園。(「都県境を探る」番外編)
来た道を戻ります。葦原の向こうには、多摩川スカイブリッジ。振り返る。羽田側とは趣を異にする。川中に釣り人2人。スカイブリッジ下から上流を望む。「川堺」標。多摩川に流入していた流れの跡?「国」の標示。「海から2K」標示。「ねずみ島」の姿が見えません。出発点へ戻ってきます。先進医療機関の施設の一覧。「浮島町公園」へ向かうためにバスを待っていると、通りの向こうを貨物列車が通過します。歩くと小一時間かかるところをバスで移動。沿道には「花王」「東芝」「ENEOS」「東亜合成」など、浮島町地区にはたくさんの大工場が立ち並んでいます。「浮島町公園」。森が広がっています。森を抜けると、目の前に海が広がっていきます。目の前の海越しに「羽田空港」に飛行機が次々と下りてきます。川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その2。浮島町公園。(「都県境を探る」番外編)
川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その1。多摩川河口標柱。(「都県境を探る」番外編)
東京都(大田区)側の多摩川河口までは歩きましたが、神奈川県(川崎市)側にも「多摩川河口」碑があるので、訪ねます。川崎駅前から臨港バスに乗り、「キングスカイフロント入口」バス停で下車。そこから多摩川河口の標識まで歩きます。多摩川の土手に出る手前、左手に、「theWAREHOUSE」。TheWAREHOUSEとは遊び方も、働き方も、すべてが変わる。次世代の体験型商業施設、それが「TheWAREHOUSE」です。TheWAREHOUSEは、羽田空港の対岸・多摩川河川敷に誕生した、全く新しいスタイルの商業施設です。ここでは「遊び」「働き」「泊まる」ことができて、しかもそのすべてで、今までにない体験をもたらします。多摩川河川敷という自然豊かな環境と、川崎の地が育んできた歴史がリンクして生まれたTheWAREHOUS...川崎駅~臨港バス「浮島町公園入口」(往復)。その1。多摩川河口標柱。(「都県境を探る」番外編)
東京都(大田区)側の多摩川河口までは歩きましたが、神奈川県(川崎市)側にも「多摩川河口」碑があるので、訪ねます。川崎駅前から臨港バスに乗り、「キングスカイフロント入口」バス停で下車。そこから多摩川河口の標識まで歩きます。多摩川の土手に出る手前、左手に、「theWAREHOUSE」。TheWAREHOUSEとは遊び方も、働き方も、すべてが変わる。次世代の体験型商業施設、それが「TheWAREHOUSE」です。TheWAREHOUSEは、羽田空港の対岸・多摩川河川敷に誕生した、全く新しいスタイルの商業施設です。ここでは「遊び」「働き」「泊まる」ことができて、しかもそのすべてで、今までにない体験をもたらします。多摩川河川敷という自然豊かな環境と、川崎の地が育んできた歴史がリンクして生まれたTheWAREHOUS...a
5・21。晴れ間の。向島百花園。バショウ。ヤマアジサイ。ユスラウメ・赤い小さな実。京鹿子・京鹿子娘道成寺。。
寒暖の差が激しい、今日この頃の東京地方。バショウもいよいよ色濃く。他の木々も。ヤマアジサイ。小ぶりですが、それぞれ鮮やかな色合い。地植えのガクアジサイ。ヤマアジサイ。ユスラウメ。赤く小さな実がいっぱい。ユスラウメは、サクラの花が咲きだすころ、ウメに似た5弁の白~淡紅色の花を枝いっぱいに咲かせ、梅雨の初めごろ直径1cmほどの真っ赤な小さい果実がつきます。熟果は生食でき、小果樹としても扱われています。中国原産ですが、江戸時代の初期にはすでに栽培されていました。当時は「桜桃」と呼ばれていましたが、明治時代になってサクランボとの混同を防ぐため「朱桜」(ユスラウメ)と呼ばれるようになりました。(「みんなの趣味の園芸NHK」より)和名ユスラウメの由来について、植物学者の牧野富太郎の説によれば、食用できる果実を収穫する...5・21。晴れ間の。向島百花園。バショウ。ヤマアジサイ。ユスラウメ・赤い小さな実。京鹿子・京鹿子娘道成寺。。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その7。多摩川スカイブリッジ。都県境。東京国際空港。小島新田駅。鈴木町・「味の素」。
遊歩道から階段を上がり、橋の上に出ます。車道と歩道、自転車道と区分され歩きやすい。上流方向。途中にこうした標識があります。河口側。ほぼ都県境の上で。振り返る。バス、自家用車、自転車、歩行者とけっこう行き来があります。羽田空港方面。川崎市側。右手奥に「多摩川河口」碑があるはずです。まもなく川崎市側橋詰。「多摩川スカイブリッジ」。案内板。都県境が川の中央に。「多摩川スカイブリッジ」を振り返る。京急大師線の終点「小島新田駅」に向かいます。この先、もう少し歩きそうです。久々に川崎市のマンホール。この地域には、こうした医薬関連の施設が建っています。幹線道路脇に貨物の引込線。貨物線沿いに駅へ向かいます。跨線橋から。小島新田駅。「京急川崎駅」まで。途中、「鈴木町」駅。周囲には、「味の素」の工場が集中しています。(「今昔...京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その7。多摩川スカイブリッジ。都県境。東京国際空港。小島新田駅。鈴木町・「味の素」。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その6。環八通り。正面に飛行機。河口を望む。
空港横を走る「環八通り」。「東京モノレール」。悠々と旋回する。砂地に影が(↓)河口を望む。正面に飛行機。振り返る。整備中の遊歩道。自転車で空港方面に向かう人の姿が。遊歩道最先端。戻ります。対岸(川崎市)の河口先端近くには「浮島町公園」があります。振り返ると、飛行機が。対岸の正面付近に川崎市(神奈川県)設置した「多摩川河口」の標識があるはずです。「多摩川スカイブリッジ」を渡って川崎市側に向かうことにします。京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その6。環八通り。正面に飛行機。河口を望む。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その5。海老取川。羽田鈴木町。
羽田空港側が大きく開けてきます。海老取川。多摩川から分流して東京湾に注ぐ。東京都大田区を流れる多摩川の分流で東京国際空港(羽田空港)を隔てている一級河川である。長さ約2km。うち1kmは河川法上の指定区間となっている。河口付近で新呑川と合流する。東岸に空港関連の施設があり、西岸の北の方に工場が多く立地する。西岸の南は住宅地である。河岸には漁業用船舶やプレジャーボートが係留されている。氏神・鈴木弥五右衛門の碑。「江戸近郊八景之内羽根田落雁」。羽田鈴木町地図。かつて存在した町。羽田空港建設のために強制的に町ごと移転させられた。(「今昔マップ」より)かつての羽田、鈴木、猟師町お台場(河口の微高地)に空港を造ることに。※戦前には「羽田競馬場」というのがあったのですね。五十間鼻。右に「無縁仏堂」。羽田空港方面。遊歩...京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その5。海老取川。羽田鈴木町。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その4。海から2K。ねずみ島。羽田第一水門。五十間鼻・無縁仏堂。海老取川。
ますます川幅が広くなって、対岸は、川崎市川崎区殿町付近。遠く河口付近に見える橋は、「多摩川スカイブリッジ」。「多摩川羽田地区自然環境保護指定区域」の標示。「海から2K」。川面にほんの少し見えるのは、「ねずみ島」?右奥に見えるようですが。(「今昔マップ」より。昭和の初期まではこの島まで河川敷で畑があったそうです。河川改修で川幅を広げる際、畑の持ち主が買収に応じなかったため、とり残されたと言われています。今も標高3mで、川崎市に属しています。※都県境は、かつては川崎市寄りになっていたようです。1970年代のようす。顕著な島の姿。2010年代のようす。小さく、中洲のよう。大田区側の羽田第一水門。水門に通じる舟だまり。今も漁船や船宿があります。案内板。海老取川と多摩川の合流点付近。「五十間鼻無縁仏堂の由来」。創建...京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その4。海から2K。ねずみ島。羽田第一水門。五十間鼻・無縁仏堂。海老取川。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その3。大師橋。高速大師橋リニューアル工事。羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革。羽田の渡し。
「大師橋」。橋の下の干潟で貝採り?大師橋東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。同橋は川崎市が管理している。中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋。※「斜張橋」と「吊り橋」の相違。(「Wikipedia」より)左奥は、「首都高横羽線」橋脚。右が「大師橋」、左が「高速大師橋」。上流を望む。羽田第二水門。「高速大師橋」。大規模なリニューアル工事中。1968年の開通から50年以上が経過し劣化が著しいため、橋梁の架け替え工事が2018年1月から行われている。「多摩川八景・多摩川の河口」。旧大師橋の親柱。昭和14(1939)年に開通した当時の遺構。「羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革」解説板。1度...京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その3。大師橋。高速大師橋リニューアル工事。羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革。羽田の渡し。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その2。海から3K。たまリバー50キロ。多摩川起点標。(東京都大田区)。
次第に川幅が広く。「海から4.0K」。六郷ポンプ所排水樋管。土手下は、桜並木。振り返る。ここまで、のんびりと歩いてきました。河川敷がなくなり、コンクリート護岸壁に。「海から3K」。「たまリバー50キロ」案内図。気づくと、「羽田」という地名が。起点に着きました。「たまリバー50キロ」実は「羽村取水堰」から53.0km。「羽田水辺の楽校自然体験教室」。ここが大田区(東京都)側の多摩川起点のようです。来た道を振り返る。起点を示す柱が色あせているのが残念。この先、まだまだ河口は先に伸び続けているので、ちょっと中途半端なのかも。「老舗の佃煮大谷政吉商店」直売所。京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その2。海から3K。たまリバー50キロ。多摩川起点標。(東京都大田区)。
京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その1。六郷橋。六郷水門。
左岸を羽田空港まで。京急線。「六郷橋」。振り返る。京急本線「六郷土手駅」~大師線「小島新田駅」。その1。六郷橋。六郷水門。
元気な猫たち。久々の投稿。急な暑さにも負けず(て)。寝心地のよいところを。マイペース。(Days with Cats)
ドスンと乗っかってくる5.3㎏。ウっとなってしまう。何か文句ある?こちらは3㎏。静かに。すばしっこいので、なかなか被写体にはなりません。孫とはそれぞれ寛ぐ。暑くなってくると、涼しいところを求めて窓際に。ところが・・・。狭いところで身をよじりながら体勢を変えつつ、飽きてきたようで、上の食事支度のようすを。そして、お気に入りの場所。元気な猫たち。久々の投稿。急な暑さにも負けず(て)。寝心地のよいところを。マイペース。(DayswithCats)
正面に川崎駅付近の高層ビル。「多摩リバー50㌔(実際は、53㌔)残り4.5㎞た」。対岸には、「ラジオ日本」の電波塔。運動広場。ランナーが練習中。四阿で小休止。隣の木が気になる。「ブラシの木」というらしい。「海から7K」。道路上に大書。「7.0→」。東海道線と京急線が並行。「海から6K」。ゴルフ練習場。金属音が響きます。右が東海道線。左が京急線。六郷橋。橋のたもとにある「旧六郷橋」。「六郷土手駅」前の通り。20年以上昔、この近くに知人が住んでいたので、何度か下車した駅。あまり変わらない印象。「六郷土手駅」。東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その7。
東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その6。散策路案内板。矢口の渡し。多摩川大橋。電波塔。
散策路の案内図。川べりにあります。朽ちたような標柱。草むらにポツンと。「矢口橋」。「矢口ポンプ所排水樋管」。「多摩川大橋」が下流に。橋のたもとの川べりに、「矢口の渡し跡」解説板。新田義興(1331~1358)が、矢口の渡しで討死したといわれるころの渡し場は、現在の新田神社付近であったと思われ、当時の多摩川は今より東へ大きく湾曲していたと考えられる。江戸時代に、平賀源内により浄瑠璃「神霊矢口渡」が作られ、歌舞伎でも上演されるようになると、この渡しは有名になった。渡し場は、流路の変遷と共にその位置をいくたびか変え,この付近になったのは江戸中期からであると考えられる。多摩川に数ケ所あった渡しのうち、ここは区内最後の渡船場として、多摩川大橋が完成する昭和24年(1949)まで利用された。対岸を望む。橋の中ほどに「...東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その6。散策路案内板。矢口の渡し。多摩川大橋。電波塔。
東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その5。ハマダイコン。桜並木。ガス橋。下丸子・キヤノン本社。
ゴルフ練習場。「たまリバー残り9.8K」。ハマダイコンが咲き乱れる土手。ハマダイコン(浜大根)は日本全国の海や川沿いの砂地に自生する多年草。野菜の大根と同じアブラナ科の植物ですが、ハマダイコン(浜大根)の根は細くて野菜のダイコンとは全く異なります。ハマダイコン(浜大根)は食用や漢方に用いられます。花色は薄紫色から白色で、大根の花に似ています。花径は2㎝ほどです。草丈は30~70cmくらいで、群生して咲きます。咲く前の花芽はお浸しに、葉は塩漬けや炒め物に使えるそうです。ハマダイコン(浜大根)の根は細くて繊維質が多く、野菜の大根のように美味しいものではありませんが、おろすと大根おろしよりさらに辛い大根おろしになると言われています。ぷっくりしたエンドウ豆のような実(種)ができています。「海から12K」。「たまリ...東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その5。ハマダイコン。桜並木。ガス橋。下丸子・キヤノン本社。
東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その4。田園調布。東京都水道局調布取水所・調布取水堰。多摩川駅。丸子橋。
森が多摩川に迫ってきます。釣り人。上流を望む。東急線の橋梁。手前には、「東京都水道局調布取水所」。調布取水堰は、多摩川から取水した原水を調布浄水場および玉川浄水場に送る施設で、大田区田園調布に玉川水道株式会社によって昭和11年(1936)に完成した。取水堰。東急線。左に「多摩川駅」。多摩川園(たまがわえん)は、東京都大田区田園調布にかつて存在した遊園地である。現在の東急電鉄多摩川駅の駅前に正面入口があり、面積は約5ヘクタールであった。1925年(大正14年)12月23日に「温泉遊園地多摩川園」としてオープン。同年には丸子多摩川花火大会も開始されている。園内には、飛行塔、お化け屋敷、メリーゴーランドの遊戯施設があり、菊人形展でも多くの客で賑わった。また多摩川駅の反対側の台地にも、付属施設として展望塔や「松の...東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その4。田園調布。東京都水道局調布取水所・調布取水堰。多摩川駅。丸子橋。
東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その3。満開のツツジ。両岸にある「等々力」。世田谷区から大田区に。多摩川台公園。
沿道に満開のツツジ。「等々力排水樋管」。「等々力」という地名は、対岸の川崎市にもあります。当地は、もともと多摩川の流れが南に屈曲していたところに張り出した、荏原郡等々力村に属する半島状の土地であったが、洪水や多摩川の付け替えが行われた結果、対岸の飛び地となった。宝暦12年(1762年)の小杉村絵図にも、現在の川崎側の等々力の南側を、多摩川の本流から分流して蛇行した流路が「古川」として描かれている。江戸時代には旧河道の土地をめぐり等々力村と小杉村で争いとなり、宮内村が立ちあって境界が定められ、幕府側でのその裁決の文書には大岡越前守の名も残っている。明治末期に、多摩川に沿って府県境が引き直され、当地は神奈川県橘樹郡中原村へと編入された。・・・江戸時代に「等々力」の字が当てられた。この付近の今昔。2010年代の...東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その3。満開のツツジ。両岸にある「等々力」。世田谷区から大田区に。多摩川台公園。
東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その2。「孤独なライオン」。等々力大橋(仮称)。等々力渓谷。
「孤独なライオン」。どういうわけで、一頭だけ?この疑問を追求したブログ「デイリーポータルZ」には、その疑問が解決されていく記事が掲載されています。それによると、40年近く前、ライオンの近くには・パンダの遊具があった・「前後に揺れる遊具」や砂場もあった・ライオンは台風のたびに埋まる当時の写真などを発見、ついに、区役所による周囲の発掘作業に立ち会うことになります。そこでの発見は?事の次第・興味深い話は、下記の記事をご覧下さい。(写真・図を借用しました。)多摩川に埋まる遊具「孤独なライオン」の発掘調査に立ち会った【完結編】::デイリーポータルZ(dailyportalz.jp)2010年代のようす。1970年代のようす。ライオンなど遊具があった?こんな経緯があったのです。ライオンだけ撤去されずに残されて、今に至...東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その2。「孤独なライオン」。等々力大橋(仮称)。等々力渓谷。
東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その1。玉川西陸閘。岸辺の散策路。二子玉川公園。
4月28日(金)快晴。多くの乗降客でにぎわう駅の改札口から。多摩川土手に向かいます。駅構内のようす。「二子玉川駅」。ホームの一部は多摩川に。多摩川の旧土手。「玉川西陸閘」。レンガ造りが印象的。結構な高さと幅。南東に延びています。かつてこの上を歩いたことがあります。現在の堤防に上がります。土手の松がすくっと高く。駅のホームを振り返る。河口に向けて出発。対岸遠くは、武蔵小杉付近の高層マンション群。河川敷を歩きます。直線に伸びる道。松並木。水辺の散策路。左手に緑豊かな大きな公園。「二子玉川公園」。多摩川を見下ろす。平成25年4月14日(日曜日)にオープンし、多くの皆さまにご利用いただいている二子玉川公園。二子玉川駅より徒歩9分と、国分寺崖線のみどりと多摩川の水辺に囲まれた場所に位置している自然豊かな公園です。世...東急線「二子玉川駅」~京急線「六郷土手駅」。その1。玉川西陸閘。岸辺の散策路。二子玉川公園。
向島百花園。4月29日(土)。すっかり初夏の模様。なにわいばら。しゃくやく(芍薬)。むさしのきすげ。たにうつぎ。ひつじぐさ。ゆきもちそう。・・・
久々の「向島百花園」。緑もめっきり濃くなって、初夏の雰囲気。ばしょう(芭蕉)。なにわいばら。孟宗竹。筍もあっという間に生長しています。しゃくやく(芍薬)。むさしのきすげ。たにうつぎ。ひめうつぎ。たむけやま。梅もしっかりと実をつけています。こうとうじ(紅冬至)。しろかが(白加賀)。ぼだいじゅ(菩提樹)。四阿から。つがいのカルガモ。そのうち、ひな鳥が泳ぎ回る?あやめ。ひし。ひつじぐさ。ゆきもちそう。しらいとそう。ちょうじそう。次回来るときには、もっと夏らしくなっていることでしょう。向島百花園。4月29日(土)。すっかり初夏の模様。なにわいばら。しゃくやく(芍薬)。むさしのきすげ。たにうつぎ。ひつじぐさ。ゆきもちそう。・・・
京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その8。水道局砧下浄水所。陸閘(りっこう)。野川。二子玉川駅。
上流を望む。二子玉川駅に近づいてきます。東京都水道局砧下浄水所。上流にあった同じような給水塔があります。広場やグランドが河川敷に広がります。この先、土手の道に「自転車通行できません」との表示。それを無視し、走る自転車が戻ってきます、「陸閘」。陸閘(りっこう)は、多摩川の水害から暮らしを守る目的で大正時代に作られた堤防の一部を削り、堤防内外への通路としたものです。この通路は、増水などにより川の水位が上昇した際に、手動で門扉のように締め切り、水が堤防の外(多摩川河川敷外)へ流れ出るのを防ぐ仕組みとなっていました。陸閘は玉川1丁目に2か所あり、それぞれ「西陸閘」「東陸閘」と呼ばれ現存しています。レンガ造りの壁が印象的です。・・・さて、こうして古くから地域の人々の生活に寄り添ってきた堤防と陸閘ですが、現在でもその...京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その8。水道局砧下浄水所。陸閘(りっこう)。野川。二子玉川駅。
京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その7。狛江水辺の楽校。東京都水道局砧浄水場。宇奈根の渡し。
先に進みます。自動車教習所。ここも水害の被害を受けたところなのでしょうか?「狛江水辺の楽校」。狛江水辺の楽校は、わき水や小川、池、雑木林、オギ原、化石島など多摩川らしい自然と景観を残す私たち市民の共有財産といえる貴重な水辺の空間です。多摩川流域でもこれほど恵まれた自然環境を保持しているところは数多くありません。私たちは、こうした環境を大切にして次代の子どもたちに引き継ぎたいと考え、この水辺の価値を考え、この水辺の価値を共有する市民や団体、そして狛江市との協働で運営協議会を設け、環境保全の管理・運用に当たっています。(この項、「狛江水辺の楽校」HPより)※都内でほぼ確実に化石が見つかる場所のようです。「東京都水道局砧浄水場」。世田谷区喜多見。「警視庁白バイ訓練所」。「東名高速道路」橋脚が見えてきます。「警視...京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その7。狛江水辺の楽校。東京都水道局砧浄水場。宇奈根の渡し。
京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その6。万葉歌碑。絵手紙発祥の地 狛江。多摩水道橋。「多摩川決壊の碑」。岸辺のアルバム。
万葉歌碑。多麻河伯爾左良須テ豆久利佐良左良爾奈仁曽許能児乃己許太可奈之伎『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方4丁目辺り)に建てられましたが、洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して、大正13年(1924)、旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。解説文。玉川碑「万葉歌碑」。「万葉通り」。水神。さて、多摩川歩きを再開。足もとを見ると、「絵手紙発祥の地狛江」と。この先もいくつか発見。下流に「多摩水道橋」。狛江市立西河原公園。「海から24K」。「多摩水道橋」。初代「多摩水道橋」の碑。初代の多摩...京王線「京王よみうりランド駅」~東急線「二子玉川駅」。その6。万葉歌碑。絵手紙発祥の地狛江。多摩水道橋。「多摩川決壊の碑」。岸辺のアルバム。
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5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
右手は工業団地。「元荒川水管橋」。※元荒川水管橋は城北大橋から500m上流に架けられている。元来は水管橋(元荒川の上を水道水を渡らせるためのもの)だったが、平成14年に改修され、歩行者も渡れるようになった。上流方向。下流方向。土手沿いの道を進みます。「伊豆島の大蛇全3ヶ所の東側」(蓮田市黒浜)。※この付近が、蓮田市とさいたま市岩槻区の境界線になります。民俗行事の一つで、春祈祷(はるきとう)に関連する厄除け行事です。由来は200有余年前に集落内に悪い病が入り「魔除け、災難除け、疫病除け」として『大蛇(だいじゃ)』を作り、集落境界の2ヶ所に立てたと言われています。集落内の1軒に1人が夕方(3時頃)集まり、御神酒で清め「家内安全・五穀豊穣」も祈りながら作られ、「上顎」・「下顎」・「胴体」を別々に作ります。胴体は...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
今回から元荒川の上・中流歩きになります。利用する路線も東武線からJR線になります。「東岩槻駅」。東武線鉄橋の上流へ出ます。「東宮(ひがしみや)歩道橋」から上流を望む。この付近の今昔。(現在)東武鉄橋上流に「東宮歩道橋」。「江川地区調整池」が設置されています。(1970年代)元荒川は大きく西にカーブしていました。その後、流路の変更が行われ、宅地化されました。土手沿いの道(左岸)を歩きます。右手は住宅地。上流に「慈恩寺橋」。河川敷に畑が広がっています。(1880年代)河川敷が広がっています。(現在)かつての河川敷が農地となっています。水道橋が左手奥に。畑の正面に「水道橋」。「城北大橋」。下流の水道橋を望む。この先に人も歩ける「元荒川水管橋」があります。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
国道16号線・「岩槻大橋」のたもとに。下流方向。上流に「新曲輪橋」。「国道16号線」は首都圏の幹線道路。都心から郊外へ向かうときには必ず遭遇します。(「」より)春日部方面。「新曲輪(くるわ)橋」。右岸奥周辺が「岩槻城址公園」。岩槻は「日光御成街道」歩きのときに通りました。※「本郷追分」で中山道と分かれ、「幸手」で日光街道と合流する。モニュメントの人形。旧岩槻市のマンホール。蓋を三等分し、上部には岩槻城黒門と桜の花、右には園内の池にかかる朱塗りの八つ橋、左には岩槻城鐘楼と市の花「ヤマブキ」がデザインされている。汚水蓋。「岩槻橋」。岩槻橋は、第二次緊急輸送道路である主要地方道さいたま春日部線(都市計画道路岩槻中央通り線)と一級河川元荒川の交差箇所に位置し、さいたま市の副都心である岩槻駅周辺地区を横断する路線の...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。
「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・
中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。
賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)