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  • 133 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

      Ryo Daimonji Blog海を見つ松の落葉の欄に倚る 虚子 橋を渡りながら海を見ている。その欄干に倚っているのだが足元には松の落葉があった。そしてそれを、子規と共に見ているのだ。前書き「子規と共須磨保養院に在り」とある。

  • 171 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog起立礼着席青葉風過ぎた 神野紗希 教室であろう、生徒が先生になす授業前のルーティンと読んだ。その瞬間に初々しい新緑を風が吹き抜けた。若さとはそんな風の一瞬なのかもしれない。この句、歴史的仮名遣いではなく現代語で括っている。そこにこの

  • 104 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog蕣は下手のかくさへ哀れ也 芭蕉 蕣(あさがお)は下手な人が描く絵でさへしみじみとした風情があります。嵐雪の絵心への褒美句とある(小学館『芭蕉全句』)。ところで、あさがおは貞享四年(1686)にもあって蕣と書いたのか。植物にも漢字にも歴史があって

  • 170 『名句の所以』(著:小澤實)から

     Ryo Daimonji Blog夢の如くがゞんぼ来たり膝がしら 岡本松濱 がゞんぼと言う虫の儚さはよく知っているつもりだ。さすわけでも毒があるわけでもなく、なんとなく藪蚊を大きくしたような形状がうっとおしくある。ただ、この句の上五「夢の如く」の比喩が

  • 103 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blogいなづまを手にとる闇の紙燭哉 芭蕉 蝋燭の灯を手で包みかこうような紙燭を、闇に閃くいなづまを手にかこうイメージに重ねてその瞬間を捉えている。いなづまの閃光はあやしくも美しい。科学的説明もない当時に俳句で捉えることは難しかったことと想像

  • 132 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blogひしひしと黒門の夏木立かな 虚子 東京の上野寛永寺、目黒不動滝泉寺や、大阪の四天王寺のものが有名な黒門であるそうな。虚子さんは関西人なので四天王寺を指しているのか、全く確信はない。黒門沿いにある夏木立が強く身に迫って感じられることよ。

  • 169 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blogふとわれの死骸に蛆のたかる見ゆ 野見山朱鳥 妄想の果てなのか、夢にであったか朱鳥は己の死骸に蛆がたかる景を見ている。確かに氏は病弱で長年結核と闘われている。しかしその間に結婚もしホトトギスの巻頭にも達しておられる。享年52歳はいかにも惜

  • 102 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blogさゞれ蟹足はひのぼる清水哉 芭蕉 上五「さざれ」は小さい、という意味。いわゆるちいさな沢蟹のことでそれが足をはいのぼると読んだ。そのことで下五清水の清涼感も遺憾なく伝わる。季語は「清水」である。「蟹」もまた夏の季語であるので、一句に同

  • 131 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog十抱への椎の木もあり夏木立 虚子 さまざまな夏木立が緑を蓄え、猛暑の中にある。そのなかに「十抱への椎の木がある」この「十抱へ」がわからない。椎の木を形容しているのだと思うのだが、具体的に十と数をいう。私は「とおかかえ」と読んでその大き

  • 168 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog塵取の手にも夕べの蜘蛛の糸 鈴木花蓑 塵取をもつ手にも蜘蛛の巣がくる。蜘蛛の巣もろいろではあるが、早朝や夕方に風に乗って手に絡みついてくることがある。そういう蜘蛛の糸なのだと思った。「夕べの」に過去詠嘆の感もするが、ここでは只今の夕べ

  • 101 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog瓜作る君があれなと夕すゞみ 芭蕉 この句は、西行の「松が根の岩田の岸の夕涼み君があれなと思ほゆるかな」(『山家集』)を本歌とする。つまり、瓜を作る君がいたらなあ、と詠嘆しながら夕涼みをしている。との意味、(明治書院『新芭蕉俳句大成』)。

  • 130 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog大粒の雨になりけりほとゝぎす 虚子 大粒の雨になってしまったなあ、と時の天気を詠嘆して見せる。それはそれでその時の呼吸があっていいのだが、大粒の雨の最中にほととぎすが鳴くものか、私は疑問に思うのだが、むしろそこに虚子さんは軽い驚きを感

  • 167 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog鉄階にいる蜘蛛智慧をかゞやかす 赤尾兜子 鉄の階段に住んでいる蜘蛛はそこでも美しく輝く巣を張って生きている。その蜘蛛の巣の輝きがすなわち蜘蛛の智慧と言えるのである。と句意を解して見た。 私にとって問題は、(毎日新聞社版『名句の所以』著

  • 100 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog酔て寝むなでしこ咲る石の上 芭蕉 なでしこの咲いているそばの石の上で、ほろ酔いで寝ようではないか。と一応の解釈をしてみるのだが、解説(小学館『芭蕉全句』)に小野小町・僧正遍昭の贈答歌「岩の上に旅寝…」による。とある。その意味合いにこそ真

  • 129 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog鶏の築地をくづす日永かな 虚子 この句のポイントは、「築地」小さな山を鶏が崩す、と読んでみたが「つきじ」は海や沼の埋立地、で「ついじ」は土塀のこととあった (ネット)。地名の意味もあるが、俳句の意味、風情としては「土塀」と解するのがまず

  • 166 『名句の所以』(著:小澤實)から

    Ryo Daimonji Blog阿修羅の鵜女体とききしあはれさよ 渡辺桂子 阿修羅は六道のひとつ。人と地獄、餓鬼、畜生との間にある境地とある。人に縄で縛られ懸命に鮎を取りそれを横取りされる鵜に己と同じ雌と聞きあはれと思うとともに、ある種の共感を俳句にした。

  • 99 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

     Ryo Daimonji Blogいでや我よきぬのきたりせみごろも 芭蕉 まづ上五「いでや」を理解したい。「いでや」で感動詞で「さあ!」ほどに解した。さあ!我に、良き布が来たぞ、良い服とでも訳すのか、蝉のころも、つまりせみの羽のように涼しいころもだ。と贈られた服を喜

  • 128 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog住みなれし宿なれば蚊もおもしろや 虚子 芭蕉一門に内藤丈草という俳人がいて「血を分けし身とは思はず蚊のにくさ」と言うのがあった。確かに蚊は自分の血を吸っておりそこを血を分けた、と言えばなんとも身内の如き、感は出る。しかし虚子さんの句の

  • 165 『名句の所以』(著:小澤實)から

     Ryo Daimonji Blog人殺ろす我かも知らず飛ぶ蛍 前田普羅 前田普羅は1884年(明治17年)東京生まれ、早稲田大学英文科中退、横浜裁判所勤務とある (ウキペディア)。人を殺すかもしれない、という不安は令和を生きる私たちにとっては普通に抱く不安と言えるのではない

  • 98 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

     Ryo Daimonji Blog鰹売いかなる人を酔すらん 芭蕉 貞享四年(1687)頃では鰹という魚はさほど高級魚ではなかったらしい。そして、その鰹を売ろうと人を口車に乗せる輩もいたようだ。利のために人を騙す、今も昔も欲に取り憑かれた人間は徒然草あたりに絶好の教材として

  • 127 定本 高浜虚子全集 第一巻『五百句』より

    Ryo Daimonji Blog人行かぬ舊道せまし茨の花 虚子 田舎の道には新旧があって旧道を少し外して立派な国道や県道があったりする。久しぶりに旧道に入ってみると、雑草や雑木に狭められた懐かしい道が数十年昔のまんまあったりする。特に狭くなったわけではないのだがひど

  • 164. 『名句の所以』(著:小澤實)から

     Ryo Daimonji Blog恋を得て蛍は草に沈みけり 鈴木真砂女 蛍に託して満ち足りた己の恋を草に沈むと表現した。蛍に託すことで人間の愛欲の儚さを自覚するのであり、草に沈むとすることでささやかではあるが、私たちのしとねの美しさを官能的に表現し切った。奇しくも今

  • 97 芭蕉を読む(芭蕉全句:小学館)

    Ryo Daimonji Blog五月雨に鳰の浮巣を見に行む 芭蕉 梅雨の雨どきに、田んぼの水加減を見に行ったり川からの取り込み口を見に行ったり気忙しいことである。時にそういう作業の途中増水に足を取られたりの高齢者がいて注意喚起に躍起である。この句は鳰の浮巣を見に行

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