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河は流れる~90代元国鉄マン九州諸所の紹介ブログ https://pikapikaclass.blog.jp/

昭和一桁生まれ男性。九州在住【南向庵】です。趣味パソコン、写真撮影、文章を書く事。ブログ立ち上げと管理は家族が手伝っていますが、文章は全て本人によるものです。

南向庵
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2022/06/06

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  • 初めての酒①

    思春期は好奇心が強い。未経験の飲食物に酒がある。飲んでみたいが金はない。知恵者がいた。大島部落の闇焼酎を飲んでみよう、というのである。大島は奄美大島の住民たちが戦火を避けて宮崎に疎開してきた集落であるが、仕事がない。※奄美大島↑ 鹿児島市と沖縄本島のほぼ

  • 祖父について

    祖父のことはよく存じ上げない。職業の関係があったのだろうか、高鍋藩高級武士だったN氏の娘である祖母を娶った。祖父・祖母の間には何人かの子が出来た。そして次男である私の父は とりわけ優秀だった。小学校時代の通知表を見ると、図工・体育を除いてクラスのトップ。校

  • アルバイト④

    港湾の場合、遠洋漁業の船主宅に世話になったが、明らかに奥さんの機嫌が悪い。港を整備してくれ、という地元漁民の要望に対して予備調査をしましょう、整備するか否かは調査結果次第です、というのが県の意向。調査期間中、学生の下宿をお願いします、という話があり学生を

  • アルバイト③

    ダム建設予定地の上流には見事な滝があり、【観音滝】(※1)という名称だった。約34万年前に大噴火した加久藤カルデラの火砕流の溶結部を流れる滝で、昭和8年に宮崎県の名勝に指定されている。村人たちは【継子滝】とも呼ぶ。撮影/南向庵なぜそう呼ぶか聞いてみたところ、

  • アルバイト②

    連日の測量だから、技能は確実に上達する。数年後、国鉄の採用試験で成果を披露できたのは無上の喜びだ。ところで、ダム建設の場合、それぞれの家庭事情は異なり深刻でもあった。須木村・綾南川のダム建設予定地の例を述べてみたい。ある農家は恵まれていた。所有する農地の

  • アルバイト①

    宮崎大学の先生方は我々、特に宮崎中学出身者が貧乏であることを充分ご存じだった。「君たち、アルバイトで稼がなくちゃいかんのじゃろう?」「カリキュラムを変えよう。測量を一番にしよう。」四月から夏休みまでの講義は測量学、それも実技中心の講義となる。更に、先生方

  • 進路

    数学の先生は奈良高等師範卒の女性教師だった。宮崎高女からの転任で、常に笑みを絶やさない。懇切丁寧な指導ぶりにも人気があった。因数分解、一次方程式、二次方程式、微分方程式、積分・・・すいすいと頭に入ってゆく。さて 進路はどうする。高校の担任教諭は進学指導懇

  • 修学旅行

    高校三年の時、修学旅行を議題にした生徒集会があった。生徒会長は挙行すべきか見送るべきかを苦渋の色を浮かべながら問いかける。実施するとすれば資金調達はもちろん、「米」を持参しなければならない。家庭事情はいろいろだから全員参加できるかどうか判断がつかない。全

  • 学び②

    (学び①の続き)「龍之介がインドを旅行した時、街頭で蛇使いが籠から蛇の首を出させようとして笛を吹くのだが、首を出さない、その情景を描いたもの。」採点結果を見て驚いた。その部分に横線が引いてあり綜合点・六十点との評価。私にしてみれば屈辱的である。早速抗議せ

  • 学び①

    高校三年にもなると、進学にむけての指導があり、毎週土曜の午後には実力テストがある。その結果は火曜日。通路の壁に上位五十位までが貼り出される。※画像はイメージです。近所の学友で同じ図書部のA君B君も二十位ほどだったろうか。トップは常にO君で、全科目満点か数点減

  • 学制改革②

    A君は熱心なクリスチャンで西洋史に興味がある。B君の父は陸軍のパイロットだったが中国で戦死した。親思いの彼は中国史に関心を持っていた。後日談だが、A君は九州大を出て、某私立大の副学長まで勤めあげた。B君は東京大を出て鹿児島の高校教師となった。さて私の場合、友

  • 学制改革①

    県立宮崎中学を三年で終了した時、学制改革があった。総員三百五十名のうち、半数は大淀工業改め大淀高校に異動、穴の空いた人数分は宮崎第一高女と宮崎商業から移し替えられた。同時の課題として全員クラブ活動をするように、との事。クラブ活動には運動部と文化部がある。

  • 高原に霧は流れる②【えびの高原】

    十時過ぎ、終着点に到着。周りには土産物店が二軒と展示場、それに簡易宿泊所がある。道路には「ガスが発生しております。有毒ですから登山は禁止します」という看板が立てられていた。女性軍は宿泊所へ。おしゃべり三昧の時を過ごすことになるのだろう。ベンチに腰を下ろし

  • 高原に霧は流れる①【生駒高原】

    宮崎交通のシャトルバスに「りんどう号」というのがある。目的地は【えびの高原】で、その手前にある【生駒高原】は今ポピーが花盛り、とある。花盛りのポピーとは見たことがない。そこに行ってみよう。五月六日運行のそのバスには三十人ばかりの乗客が乗っていた。殆どが中

  • 読書②

    (読書①の続き)その中から 二葉亭四迷・志賀直哉・芥川龍之介・森鴎外・夏目漱石・菊池寛・川端康成その他諸々の作家を選び出し猛スピードで読んでゆく。ふと思った。これは乱読じゃないか?もう少し系統立てて読んだほうがいいんじゃないか?と。そうなればノンフィクシ

  • 読書①

    中学入試に合格したのは嬉しいが、戦況はますます厳しく、物資が無い為教科書は支給されなかった。英語は教師が黒板に書くアルファベットをノートに書き込んでいたが、数学や理科は話を聞くばかりでさっぱり解らない。そうこうしているうちに動員令。さらには八月十二日、校

  • 衣を食を住を⑪

    だが生産性は悪かった。産卵はするのだが、なんとも数が少ない。原因が飼料にありそうだという事は判る。米ぬかの他に多種の飼料を混合しなければならないのだが、そういう飼料を入手する方法を知らないのだ。貝殻を細かく砕いて与える程度では話にならない。あきらめて処分

  • 衣を食を住を⑩

    昭和二十二年、粗末ではあったが我が家が復旧した。次の問題は栄養補給である。誰言うともなく「鶏を飼おう!」ということになった。小屋の設計みたいなものは父が担当した。柱の鉋かけや臍(ほぞ)作りは中学生である私の担当。棟上げと言ったら少々オーバーだが、ともかく

  • 走れ②

    戦後 仮の校舎も建っていない時、珍客があった。昭和十五年ベルリンオリンピックで中距離三種目を走った村社(むらこそ)講平さんである。※1905年8月29日‐1998年7月8日陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者、ベルリン五輪代表小柄な身なりで笑みを浮かべ、いろいろと話をし

  • 走れ①

    校内マラソン、というのがあった。学校から 一の鳥居~10号線~芳士~平和台~宮崎神宮、というコース。10号線はマカダム舗装、つまり砂利道で、裸足で走るには足裏が痛かった。先頭を走るものはハチマキをなびかせてカッコ良い。私は中ほどを走っている。順位発表もな

  • 加藤清正④

    時は流れ明治10年、西南の役が起こった。その詳細は司馬遼太郎の小説【飛ぶが如く】に詳しい。参考↓司馬遼太郎「司馬遼太郎を読む」 美しい日本人に会いたい 特設サイト - 文藝春秋BOOKS (bunshun.jp)要するに薩摩藩は 谷干城(たに たてき/たに かんじょう)が率い

  • 加藤清正③

    清正は朝鮮の役にも出陣している。朝鮮の役とは文禄の役(1592~)と慶長の役(1597~)のことだが、私は清正が辿った慶長の役のコースを辿ってみた。文禄の役・慶長の役要図 ©Shogakukan慶長の役では明国が4万の大軍を送り込んできたので、日本軍は総退却となり、清正が

  • 加藤清正②

    私は城壁の構造に驚嘆する。それは垂直でもなければ直線でもない。微妙な曲線である。提案者はどうやってあの曲線を考案したのであろうか。経験から考え出したのであろうか・・・あの曲線は、後年明治時代の初期にオランダの土質学者ランキンやクーロンが解明した[土圧(※1

  • 加藤清正①

    古今 勇将・名将と言われる人物は多いが、その中で私はまず加藤清正を挙げたい。その取り組み方や仕事ぶりは熊本城に表されよう。城の概念は「守る」為にある。清正がその概念を心に留めていたとしても、築城の技法を知っていたとは思えない。築城の為に彼が選んだ手法とは

  • 衣を食を住を⑨

    部屋は三つ。そのうち二つは畳が敷かれたが、私が起居する部屋には畳がなく、板敷のままだった。水は井戸から。炊事場はカマド。風呂は五右衛門風呂。井戸と便所が近いのは嫌だったなあ!それでも牛小屋よりは良かったが。衣・食・住、それぞれに改善されたが、未だまだだ。

  • 衣を食を住を⑧

    さて住のこと。ある日父が絞り出すような声で「このままじゃいかん。家を建てよう。」と言った。衣も食も不十分だったが、住はそれ以上に劣悪な状態だった。牛一頭飼っていた場所だから、そのスペースは三畳半。そこに伯父から貰った古畳三枚敷いて親子六人が横になる。電気

  • 衣を食を住を⑦

    祖母が耕作している畑からの食材は甘藷しかない。甘藷の蔓を摘み取り、皮を毟って味噌汁の具に供したりするが、それだけでは全然足りる筈がない。主たるものは母の実家から頂くことにする。ただ無償で戴くというわけにはいかない。せっせと農作業を手伝い、その報酬として野

  • 衣を食を住を⑥

    空襲で我が家が全焼した時、私の着衣は半袖のシャツに半ズボンだった。これでは秋・冬は過ごせない、どうしようと案じているとき、行政機関から支給品がありホッとする。上下の服は陸軍の歩兵用、カバンは海軍の雑嚢(ざつのう)、そのバランスは何とも珍妙だったが 無いよ

  • 糾弾

    中学では諸々の事件が起こった。終戦後 教員の資格を持った人物が教壇に立ったが、授業に行き詰まり生徒から苦情が出て姿を消すケースもあった。2年生になったある時、級主任から「明日は双石山に行くから準備をしておくように」との言葉。我々はそれなりに準備し 清武駅に

  • 1945年

    8月12日の朝。母校・宮崎中学からは焼け落ちる校舎の音と 生徒たちの悲鳴が聞こえた。8月15日終戦。前述のように(※【衣を食を住を】に記載)自宅も燃えた為 狭い牛小屋で親子6人が暮らした。電灯はない。水は祖母宅の井戸から。庭隅には竈(かまど)をしつらえた。校舎は

  • 鹿児島・大隅路をゆく

    SL愛好会からお誘いがあり、大隅半島の東部をめぐるバスツアーに参加した。目的地は柏原海岸のルーピン畑・宇宙空間観測所・二階堂家。良い写真が撮れるだろうか。ルーピンは か細い花がパラパラと三分咲き。まだ作品にならない。※参考:満開時黄色いじゅうたんのように咲

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