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  • 東海道4.

    地図中央の細い川が高瀬川ですので、ここから鴨川に架かる三条大橋までは100ⅿも無いぐらいです。単なる騒動にしか過ぎない事件があった池田屋騒動之址の碑。案内板にもあるように、過激な尊王攘夷派をこれまた過激な取り締まり集団新撰組が、祇園祭宵々山の夜に襲った池田屋事件。映画や小説などで有名ですが、その池田屋の跡はごはん屋さんになっていました。高瀬川に架かる三条小橋のたもとにある佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎卿遭難之碑です。でもこの石碑は、北へ壱丁とも刻まれてるように、本当の碑への案内用の碑に過ぎません。後ろに立ってるビルの中の雀荘で、30代の10年間ほどはよく麻雀をしましたが、遭難同然の負けもよくありました。その高瀬川沿いに北に一丁の象山(ショウザン)(1811~1864)先生遭難之碑です。佐久間象山はや...東海道4.

  • やっと来たかな

    一ヶ月前の窓からの夏空です、冷房の部屋から眺める夏空は良いのですが、戸を開けると熱気が入ってきてました。雨が降って、やっと朝夕は涼しくなった今朝の窓からの空。家の窓からしか空を眺めない生活ですが、やっと秋が来ましたかね。何気なく見上げた夏の空の雲から♫風に揺れ涼しく秋のように見えてく夏空が変わったあ秋空に変わたの何気なく見上げた青空が変わった🎶ベッツイ&クリスもおばあさんになって、たぶんアメリカ中南部の田舎で、トランプを応援してる感じかなあ。この歌(先輩の北山修作詞)知ってる人は70歳以上になりましたかね。やっと来たかな

  • 東海道3.

    豊臣秀吉の築いたお土居は、この地図の左端を南北に走っていたので、この地図はもう三条口を出てしまっている地域の地図になるのですが、何となく三条大橋が三条口と思ってる方が判りやすいですね。地図中央に青線を引いた、細い路地にあったスナック(バー)に友達と集まって、時には向かいの「河しげ」から名物満月弁当を頼んで食べたりした後、麻雀をしていた期間が40年ぐらい前に有りましたので、懐かしい路地です。写真撮影中に、その頃はまだ20代であったと思っている河しげの三代目と偶然会って、懐かしい話が出来ましたが、彼ももうお爺さんでしたね。その後この辺りは、「おやじ狩り」がよく出たので、私たちは近づくのを止めました。この路地を三条通から抜けると、そこは15年前から龍馬通の名が付いています。昔は、三本立てで1本は立ったまま観て、...東海道3.

  • いい加減に秋が来い

    親しくして貰ってる人からのメールや、愛読してる人のブログから、中秋の名月を思い出しました。夜に外出しないどころか、月が出る頃にはもう布団の中の生活ですが、一昨日は8時頃に、表に寝巻のまま出てみました。満月ですね!島なら月夜間ですよ。村雲ですか?雲がかかってたお月見ですが、このほうが良いかもです。月見だんごは先日娘が持って来てくれたのを、もう食べ終わってます。私が小倉百人一首で好きな歌、以前のブログシリーズ物奈留島百人一首でもこれだけは替え歌にせず、そのまま出しましたよ第79番。秋風にたなびく雲の絶えまよりもれいずる月の影のさやけさそして昨日の窓からの夕焼け。まだ35℃の京都、明日から雨が降って気温も30℃切り始めるようで、やっと短い秋が始まってくれそうですが、そうなったらすぐにストーブの用意をしなくてはな...いい加減に秋が来い

  • 東海道2.

    京の七口の一つ三条口(粟田口)は、なんせ東海道の起点ですし、この地図に打った1~5は私の幼稚園から大学までの所在地ですので、1.の幼稚園に通った頃からや、映画館に通い続けた中・高校まで、自宅から一番近い七口として生活圏に入っていました。こんな狭い範囲で生活していた井の中の蛙が、離島に行ったとは自分でも信じられない時が有ります。戦後すぐの河原町御池の写真がFacebookに乗ってたので、お借りしました。京都市役所は今もそのままです、右の洋館が京都ホテル(今のホテルオークラ京都)の様で、戦時中に広げられた御池通は進駐軍のテニス場になってます。市電の辺りが、祇園祭でも辻回しが行われてる河原町御池交差点です。多分カメラの位置は三条口辺りですので、右のバスが止まってるもう少し右に、この写真の数年後から私が通い出した...東海道2.

  • 敬老の日

    明日は敬老の日ですが、先日近所のおじさん(私より1歳年上と分かりました)が敬老の日の記念品を持って来てくれました。75才以上に貰える資格があるようで、私は76歳になりましたが、今回のように町内会から貰うのは初めてです。型染めの風呂敷です。それなりにしゃれていて、額縁に入れて飾ってもいけそうです。でも、奈留島では皆さん紅白饅頭を貰っていたので、やっぱり食べて無くなる物の方が嬉しかったです。手紙も添えられていて、松ヶ崎小学校児童の手紙も付いていました。(昨年もこれは貰った気がします)今時の小学生、えいごやタイピングをしてるって、タイピングってパソコンの打ち方ですよね。今日は、多分娘が孫と赤飯を持って来てくれるでしょう。敬老の日

  • 続・自由時間

    前回の何もなかった宮川町を走り抜け、五条通手前の豊国神社門前の甘春堂(カンシュンドウ)に氷の看板を見つけました。天皇陵巡りで第52代嵯峨天皇陵に行った時も、大覚寺の前の甘春堂に入った記憶がよみがえりました。まだ10時前でしたが、秀吉の命により造立された京の大仏が有った方広寺前と言うことで、大仏氷を食べました。名物大仏餅もついていて1210円、黒糖蜜が少し甘いですが、(たぶん大仏の頭のぶつぶつ螺髪(ラホツ)を表わしてるよう)小豆はさすがに京都老舗和菓子屋さん、絶品でした。氷で元気が付いて、更に伏見まで足を延ばしました。40年以上前にこの近くの病院で当直のバイトをしてました。(他院より当直料は高かったですが、忙しく地獄のような日も有りました)その時知って、以後も帰りにお土産で買っていた、この=いなりのいもや...続・自由時間

  • 自由時間

    月に2回だけ余分に土曜日も家内はデイサービスに行ってくれてるので、その間7時間の自由時間です。暑いですが、締め切りも迫ってる?ので頑張って「京都へ、京都から」の取材に、電動自転車で出かけました。鴨川沿いになるべく歩道の木陰を利用して南下。鴨川のところどころに飛び石や、写真では舟橋を模(カタド)ってるのか、石の舟も置いてあります。橋だけではなく、様々な方法で賀茂川を渡る生活が有ったのでしょうね。丸太町橋のたもとに、私は全く知らなかった、梁川星厳(ヤナガワセイガン)(1789~1858)と紅蘭(コウラン)(1804~1879)の寓居跡の碑が有りました。星厳は美濃大垣出身の勤王詩人で、鴨沂小隠(オウキショウイン)と言う寓居に1840(弘化3)年から10年近く夫婦で住んでいたようです。それまでは星厳・紅蘭夫...自由時間

  • 東海道1.

    「京都へ、京都から」も回を重ねて50回以上になりました。今回からは、いよいよ一番有名な街道である東海道・三条口を始めます。その前に、そもそも京都の中央、起点はどこかと言うと、一応は道路の起点を示す道路元標があるようです。京都市の道路元標は、烏丸三条南東角に目立たなく、何故か下半分は白っぽく、私の子供の頃から立っていました。この道路元標から南へ一筋の六角堂の中に、京都の中心を示すへそ石も有ります。私が子供の時は、このへそ石は六角堂を入った道の真ん中にあって、(京都の真ん中に立ってるぞと言って)踏めたのですが、最近は約20mほど移動して、綺麗に飾られてるので、もう踏めません。そもそも江戸時代には、この石は六角通の中央にあったようなので、へそ石を少し移動し、京都の中心も移動さすことに、目くじらを立てることも無い...東海道1.

  • 台風10号

    10日ほど前までの窓からの景色は夏でしたし、クーラーの効いた部屋からは懐かしい夏の空でしたが、窓を開けるとムーっとした熱気が入る夏でした。1週間ほど前からは、激しい嵐のような夕立が毎日のようにあって、夕から夜は少し過ごし良くなってましたし、大型の台風10号が近畿を直撃すると、天気予報は言ってました。でもその台風10号は、一向に近畿には来ず、西に寄って九州に上陸し、台風から離れた所にもたくさん雨を降らせましたが、京都はほとんど被害を受けずに過ぎ去りそうです。8月最後の夕方、熱帯低気圧に変わった台風10号はまだ近畿にいるのに夕陽が出てました。昨年9月1日に信州車山山頂テラスで転倒し恥骨骨折したことから、徐々に進行していた家内のアルツハイマー型認知症が急速に進み、老々介護生活に本格的に入った我々夫婦ですが、丁度...台風10号

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