FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
本殿、秩父御岳神社、埼玉県飯能市坂石。 今日の写真は、 秩父御嶽神社は、現地(飯能市坂石)の御嶽行者、鴨下清八が創建しました。清八は十六歳のとき、母が重い病にかかり、薬、医術も効が無く、神の力に頼るほかなしと御嶽信仰に入信し、修業を重ねました。その
山門(仁王門)と本堂(門の奥に見える)、曹洞宗補陀山法光寺、埼玉県飯能市坂石町分 今日の写真は、飯能市の西武池袋線吾野駅下にある曹洞宗の古刹、曹洞宗補陀山法光寺です。 寺伝によると、至徳三年(1386)吾野要害山城主岡部新左衛門入道妙高が、父祖の岡
本堂、清流山長念寺、埼玉県飯能市白子。 今日の写真は、飯能市白子の「武蔵野観音長念寺」と呼ばれる、曹洞宗の清流山長念寺です。 長念寺の創建年代等は不詳ながら、正安元年(1299)銘の板碑等から鎌倉時代末期に創建したと推定され、南北朝時代・室町時代に隆
「聖橋」と「子の権現本坊」、 大鱗山雲洞院天龍寺、埼玉県飯能市。 今日の写真は、先週末の竹寺をさらに西へ上り、山頂近くまで行ったところにある 竹寺と同じく鳥居がある神仏習合の寺、「大鱗山雲洞院天龍寺」、通称「子の権現(ねのごんげん)」です。 「子ノ権
竹寺(医王山薬寿院八王寺)その2、飯能市大字南、埼玉県 Jun'2021
牛頭天王社本殿、八王子、埼玉県飯能市 今日の写真は、昨日の続きで八王子境内の神仏習合の象徴、牛頭天王社です。 牛頭天王社へ上がる参道。 鳥居に茅の輪。 牛頭天王社本殿。
竹寺(医王山薬寿院八王寺)その1、飯能市大字南、埼玉県 Jun'2021
竹寺(医王山薬寿院八王寺)、埼玉県飯能市大字南。 今日の写真は、竹寺として知られる埼玉県飯能市の医王山薬寿院八王寺(いおうざんやくじゅいんはちおうじ)です。 神仏習合の寺として知られ、本尊は牛頭天王(本地仏は薬師如来)です。 お寺ですが、神
本堂、高根山藤源院正龍寺、寄居町藤田、埼玉県 今日の写真は、埼玉県寄居町藤田にある曹洞宗の高根山藤源院正龍寺です。 中世に栄えた豪族の藤田氏の菩提寺として創立されました。寺院内墓地には北条氏邦夫妻と、氏邦の養父である藤田康邦夫妻の墓が四基並ぶように
山門と鐘楼(右)、藤田善導寺、埼玉県寄居町末野。 今日の写真は、昨日までの少林寺と花園城跡を挟んでの直ぐ東南側にある、浄土宗の白狐山悟真院善導寺。 「藤田善導寺」とも呼ばれれており、1155年〜1590年に武蔵国に栄えた豪族の藤田氏の菩提寺として1297年に藤
千体荒神、少林寺、寄居町末野、埼玉県 今日は、少林寺の最後、「千体荒神」です。
五百羅漢、少林寺、寄居町末野、埼玉県。 今日の写真は、昨日の続きで少林寺の五百羅漢です。 少林寺の後背の山の五百羅漢は、関東では川越の喜多院、目黒の五百羅漢寺と同様に五百羅漢の名所となっています。 龍神です。
少林寺(あじさい寺)、寄居町末野、埼玉県 今日の写真は、あじさい寺の別名もある寄居町の萬年山少林寺です。 曹洞宗のお寺で1511年の開基は、北条氏康の家臣となった藤田右衛門太夫国村となっているが、康邦であるという説もあるそうです。開山は大洞存奝で、開山
稲荷山(東那須野公園)から望む日光那須国立公園の山々 Feb'2025
日光男体山と女峰山、那須塩原市東那須野公園から 今日の写真は、那須塩原市の東那須野公園の稲荷山から撮影した日光から那須にかけての山々と東北新幹線です。 先週の記録的寒波で山の上は奇麗に冠雪を頂いていました。 左から、男体山、女峰山、高原山、男鹿山
三ケ尻八幡神社、熊谷市三ヶ尻。 今日の写真は、天喜4年(1056)に将軍源頼義・義家父子が奥州出陣の際、当地において戦勝を祈願したことに始まると伝えられている熊谷市三ヶ尻の三ケ尻八幡神社です。 埼玉県から「ふるさとの森」の指定を受けている美しい杜に囲ま
埼玉厄除け開運大師少間山龍泉寺、熊谷市三ヶ尻、埼玉県 Sep'2021
本堂(大師堂)、少間山龍泉寺(埼玉厄除け開運大師)、熊谷市三ヶ尻観音山。 今日の写真は、埼玉県熊谷市唯一の山である観音山のふもとにあり、日本三大厄除け開運大師の一つに数えられる「埼玉厄除け開運大師少間山龍泉寺」 日本三大厄除け開運大師とは、日本の真
本殿(聖天堂)(国宝)、妻沼聖天山歓喜院(めぬましょうでんざんかんぎいん)、熊谷市妻沼。今日の写真は、生駒聖天(奈良県・生駒/宝山寺)、待乳山聖天(東京・浅草/本龍院)と並び、日本三大聖天のひとつに数えられている、埼玉県熊谷市の妻沼聖天山歓喜院です。
蔵殿神社(所澤神明社の第一の摂社)。 今日の写真は、昨日の所澤神明社の摂社、末社についてです。 所澤神明社は所澤総鎮守であり、境内に数多くの摂社や末社も有しています。 特に、鳥船神社(とりふねじんじゃ)は鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)を
階段参道と拝殿、所澤神明社,所沢市宮本町。 今日の写真は、所澤総鎮守であり「武蔵国のお伊勢さま」としても知られ、日本の航空文化発祥の地としての「所沢」に所縁のある所澤神明社です。 創建年代は不明ですが、日本武尊が東国平定の折にこの付近で休憩をした際
安楽寺(吉見観音)、埼玉県吉見町。 今日の写真は、昨日までお同じく埼玉県の吉見町にある、岩殿山安楽寺です。 岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきました。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩
岩室観音堂、岩室山龍性院、最多開けん比企郡吉見町 今日の写真は、昨日の吉見百穴から300mほどの岩山にある、岩室観音堂です。 1Kmほど離れたところにある真言宗の岩室山龍性院の境外仏堂です。この観音のはじまりは弘仁年中(810~824年)といわれており、弘法大師
吉見百穴(よしみひゃくあな)、埼玉県比企郡吉見町 今日の写真は、埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代後期(6世紀-7世紀代)の横穴墓群の遺跡、「吉見百穴」です。 太平洋戦争下の地下軍需工場建設のために破壊された十数基を除いても、219基が現存しています。
本殿、拝殿。箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)、東松山市箭弓町、埼玉県 今日の写真は、日本三大稲荷や日本五大稲荷の一つとされることもある東松山市の箭弓稲荷神社です。 創建は和銅5年(712年)、平安期に平忠常討伐に向かう源頼信が白狐に乗った神から箭
武藏一宮氷川神社境内案内図。 今日の写真は昨日の続きで、大宮氷川神社の境内の建築物です。 楼門。 氷川神社本殿入口手水舎。 舞殿。 舞殿の干支の大絵馬。 拝殿。 ふくろ絵馬。願い事を書いた絵馬を折りたたんで袋に入れて奉納する絵馬。
神橋と本殿。 武藏一宮氷川神社、さいたま市大宮区。 本殿と神池を結ぶ朱色の橋で、参拝前に穢れを浄化する意味があるとされています。 今日の写真は、日本で最も長い参道と言われる、さいたま新都心駅から徒歩10分ほどの「一の鳥居」から境内手前の「三の鳥居」ま
高麗山聖天院勝楽寺。日高市、埼玉県。 今日の写真は、昨日の高麗神社の数百m南に位置する、高麗山聖天院勝楽寺です。 昨日の高麗神社の主祭神である高麗王若光の菩提寺として創建されました。寺号は若光が高句麗より持参した歓喜天を本尊とすることから名付けられた
将軍標。2005年(平成4年)10月23日に在日本大韓民国民団(民団)から寄贈された花崗岩製の標石中。高麗神社、日高市、埼玉県. 今日の写真は、埼玉県日高市の高麗神社です。 現在の日高市と飯能市にまたがる高麗郡は奈良時代の716年(霊亀2年)に武蔵国高麗郡とし
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
遊行柳(那須町芦野) 今日の写真は、那須町芦野にある「遊行柳」です。 芭蕉は那須野殺生石を訪れた後、いよいよ旅の目的の奥州へ行くため、まず奈良平安期の古道「東山道」の奥州へ関所であった「白河の関」跡へ向かいます。 その那須温泉から白河の関跡へ向か
那須殺生石、那須町那須湯本温泉那須温泉神社 かつて九尾の狐が化身したといれる大きな岩の国指定名勝史跡「殺生石」の写真です。 2022年3月二つに割れたことが確認されました。 今日の写真は、那須湯本温泉の那須湯前神社付近に存在する溶岩で、付近一帯に
「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」、松尾芭蕉 『那須湯本の温泉大明神では、京都の石清水八幡宮が合祀されているので、ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくう(むすぶ)と、両神社にお参りしたことになるという。これは湯が結ぶ縁である。』 この句は奥の細道にはあり
芭蕉翁塚「杜鵑の墓」、那須町史跡 今日は、那須町高久本郷地区内の芭蕉所縁の地や句碑です。 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚
高福寺楼門、那須町大字高久甲 黒羽を立った4月16日から4月20日に那須湯本から下山し、芦野の遊行柳、白河の古関跡近くの旗宿に投宿するまでの5日間の「奥の細道」はあっさりと、『是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。や
「俳聖松尾芭蕉と黒羽」、浄法寺桃雪邸跡脇の芭蕉の句碑一覧、旧黒羽芭蕉公園(現大田原市前田) 今日は、「芭蕉の里くろば」というキャッチフレーズを掲げている現大田原市の旧黒羽地区の黒羽田町、黒羽向町、余瀬、雲巌寺などに点在する10か所の芭蕉、曾良の句碑の
鍋掛八坂神社(那須塩原市鍋掛)から望む早春の那須連山。 旧鍋掛宿(現那須塩原市鍋掛)「野を横に馬牽きむけよほととぎす」 今日の写真は旧鍋掛宿の八坂神社と芭蕉の句碑です。 鍋掛八坂神社芭蕉句碑(那須塩原市鍋掛) 「黒羽町誌(黒羽町誌編さん委員会
那須連山、那須高原大橋から、那須塩原市西岩崎 那須野ヶ原は山ぎわの部分で標高500メートル、これが南東に緩やかに傾斜して標高100~150メートルまで下っていきます。ところが全体的には緩やかですが、ちょうど那須塩原市と南東の大田原市の境のあたりで5~10m急に下
源実朝の歌碑、玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 「武士の矢並つくらふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原」(柳営亜槐本金槐和歌集) 『那須の篠原』が那須野を表す歌語として使われるようになった有名な歌。 初めて文献上に「那須野」あるいは「
那須神社(金丸八幡宮)楼門、重文。 大田原市南金丸。 今日の写真は、「那須神社」その2です。 元禄2年4月13日余瀬に住む津久井翅輪は、芭蕉と曽良を鹿子畑家に見舞った。そして余瀬の西南、約一・五粁のところにある「金丸八幡宮」に参詣すべく誘いました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 今日はの写真は、昨日境内にある源実朝の和歌碑と松尾芭蕉の俳句碑を紹介した玉藻稲荷神社です。 境内には句碑の他に、九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がありました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須篠原地区今日の写真は、大田原市の旧黒羽町エリアの余瀬の修験光明寺跡、蜂巣地区の犬追い物跡、篠原地区の玉藻稲荷神社と狐塚之址の碑です。 芭蕉は元禄2年(1689年)4月5日に雲巌寺まで往復約25Km を歩いた後は、雨降りだったり、休養
雲巌寺。大田原市雲巌寺。 今日の写真は、松尾芭蕉が元禄2年4月5日に訪れた雲巌寺です。 雲巌寺は、江戸深川での芭蕉の禅の師であった仏頂禅師が当時住職をしていました。 雲巌寺は、高峰顕日(仏国国師)が弘安6年(1283年)に復興開山した臨済宗妙心寺派の名
黒羽芭蕉の館、黒羽藩の藩庁だった黒羽城の三の丸跡に建つ。 今日の写真は、「おくのほそ道」で最長の14日間逗留した松尾芭蕉に関する展示や黒羽藩主大関氏に関する展示を行っている黒羽城の三の丸跡の建てられた「芭蕉の館」、句碑などが野外展示してある芭蕉の広場な
本丸跡と本丸廓を囲む城塁とその上に建つ後に物見櫓を模して作られた展望台。大田原市前田黒羽城址。 今日の写真は、元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)に芭蕉が訪れた門弟の浄法寺桃雪が城代家老をしていた黒羽藩の黒羽城と藩主大関家の菩提寺大雄(だいおう)寺で
旧浄法寺邸、大田原市前田芭蕉公園 黒羽藩城代家老で芭蕉の弟子だった浄法寺高勝(たかかつ/俳号・桃雪〈とうせつ〉)の屋敷跡に改修整備した建物。余瀬の鹿子畑翠桃は浄法寺桃雪の弟。 元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)、余瀬(大田原市)に宿泊後、翌4日に黒
蛇尾川、遅沢橋(那須塩原市東遅沢)付近。東北新幹線「那須塩原」駅から西に3㎞ 今日の写真は、昨日の記事で松尾芭蕉が日光北街道から奥州街道に入り、大田原宿を過ぎて大田原城(龍城)を右に見ながら渡った蛇尾川です。 記事では、冒頭の水の無い蛇尾川が、どうし
日光北街道標柱、大田原市末広1丁目 今日から1か月近くは、那須野が原(旧大田原、湯津上、黒羽、那須町)、白河、須賀川、二本松の松尾芭蕉の「奥の細道」所縁の地の写真です。 「奥の細道」の日程と道程に従って、芭蕉所縁の地の記事をアップしていきます。
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現