FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
奥の院参道沿いの供養塔その1、(高野山奥の院) May’2017
<03May’2017、高野山> 以下同左 豊臣家墓所、高野山奥の院。 今日の写真は、高野山奥の院の戦国武将たちの供養塔その1です。 奥の院の弘法大師の御廟への参道沿いには、20万基にのぼる供養塔が立ち並んでいます。 中には有名な戦国武将や江戸期の藩主一
奥の院3、水向け地蔵、御廟橋周辺(高野山奥の院)May’2017
<03May’2017、高野山奥の院> 以下同左 水向け地蔵、高野山奥の院。 今日の写真は、奥の院の最奥弘法大師御廟へ続く最後の橋、「御廟橋」とその周辺です。 御廟橋から先は撮影禁止となっていました。 奥の奥の弘法大師御廟、御廟の前の「燈籠堂」とその地下ま
奥の院2、その他パワースポット(高野山奥の院)May’2017
<03May’2017、高野山奥の院> 以下同左 大師の腰かけ石、高野山奥の院。 今日の写真は、昨日の続き奥の院のその他パワースポットです。7.大師の腰掛石 弘法大師空海が、ちょっと休憩にと、腰を掛けた石であるとの言い伝えが残されています。 かつては、
奥の院1、各種地蔵、その他パワースポット(高野山奥の院)May’2017
<03May’2017、高野山奥の院> 以下同左 奥の院入口、高野山奥の院中の橋駐車場前参道入口。 今日の写真は、高野山奥の院のお地蔵さんや不思議スポット、パワースポットなどです。 金剛峯寺からバスで「奥の院前」バス停まで行き、奥の院に入りました。 ですか
<03May’2017、高野山> 以下同左 二重釜、金剛峯寺主殿厨房。 今日の写真は、金剛峯寺の最後です。 寺側で示される参拝路に従うと主殿内の最後が「厨房」、その後の伽藍からの出口が「絵下門」です。 まずは厨房。江戸期以降、実際に使用され大勢の僧侶の食
<03May’2017、高野山> 以下同左 蟠龍庭と奥殿、金剛峯寺。 今日の写真は、金剛峯寺の別殿のさらに奥、奥殿を囲むように広がる蟠龍庭です。 蟠龍庭は1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会記念事業として造園された日本最大級の2,340平方メート
<03May’2017、高野山> 以下同左 枯山水小庭、金剛峯寺。 今日は、金剛峯寺の主殿から別殿へ行くときの渡り廊下から観られる「枯山水小庭」、「四季の中庭」です。 奥の院の霊木、高野杉、金剛峯寺主殿。直径は2.87mです。 金剛峯寺主殿と大玄関内部と主
<03May’2017、高野山> 以下同左 主殿、金剛峯寺。 今日に写真は、金剛峯寺正門を入った広場にある、主殿、鐘楼、経蔵です。 主殿、金剛峯寺。 正面は主殿、右の紫の幕がついて前に突き出しているのが大玄関。左の白壁の廊下は別殿への渡り廊下。 文久3年
<03May’2017、高野山> 以下同左 正門、金剛峯寺。 今日の写真は、金剛峯寺の正門に和歌山県道53号線(高野天川線)から入る橋の周辺の春(五月初旬)の花と正門です。 シダレザクラ。 金剛峯寺の南を走る高野天川線(県道53号)と正門に登る緩やかな階段参
東塔から六時の鐘(檀上伽藍)、二つの町石道 May’2017
<03May’2017、高野山> 以下同左 東塔、高野山檀上伽藍。 今日の写真は、檀上伽藍最後の(一番東)の「東塔」とそこから金剛峯寺に続く蛇腹道の先にある「六時の鐘」、それと二つの町石道の一番石です。 左から、根本大塔、愛染堂の端っこ、大きな大講堂、小
不動堂、蓮池、善女竜王社、愛染堂、大会堂、三昧堂(檀上伽藍) May’2017
<03May’2017、高野山壇上伽藍> 以下同左 愛染堂、高野山檀上伽藍。 今日の写真は、根本大塔のさらに東、階段を十段弱下りて金堂や根本大塔がある段より低いところにある、「不動堂(国宝)」、「蓮池と善女竜王社」、「愛染堂」、「大会堂」、「三昧堂」、「不動
<03May’2017、高野山壇上伽藍> 以下同左 根本大塔、檀上伽藍。 今日に写真は、檀上伽藍に真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立された大塔である「根本大塔」とその真南に位置する珍しい白い鐘楼「高野四郎(大塔の鐘、白鐘楼)」です。 空海、真然
山王院、登天の松、孔雀堂、准胝堂、御影堂(檀上伽藍) May'2017
<03May’2017、高野山壇上伽藍> 以下同左 金堂(総本堂)西側、「山王院」、檀上伽藍。 今日の写真は、檀上伽藍の金堂の西側と北西にある、「山王院」、「登天の松・杓子の芝」、「鐘楼」、「孔雀堂」、「准胝堂(じゅんていどう)」、「御影堂(みえどう)」です。
<03May’2017、高野山壇上伽藍> 以下同左 金堂(総本堂)南面、高野山檀上伽藍。 今日の写真は、高野山檀上伽藍の金堂、「金堂(総本堂)」のすぐ北側の「三鈷の松」、西側の「六角経蔵」です。 金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわま
<03May’2017、高野山壇上伽藍> 以下同左 中門、高野山檀上伽藍。 今日の写真は、ユネスコ世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成遺産、「高野山檀上伽藍」の中門と四天王像です。 中門は、木造2階建て、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を持つ入り母屋造りの楼門
金剛峯寺大門(高野山大門)、和歌山県高野町 May ’2017
<03May’2017、高野町> 以下同左 金剛峯寺大門(重文)。 今日の写真は、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成遺産の一つ金剛峯寺大門(高野山大門、重文)です。 まず大門まで行き、その後壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院と回りました。 今週から、約三週間こ
世界遺産:長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 Dec’2019
<10Dec'2019、新上五島町> 頭ヶ島天主堂(重文)。 今日の写真は、ユネスコ世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(登録2018年)のうち、この時の旅行で訪れた長崎県の、・長崎市・新上五島町・南島原市の遺産です。 長崎と天草地方の潜伏キリシ
<09Dec'2019、長崎市> 竜馬通り(長崎市)。 今日の写真は、長崎県内の坂本龍馬ゆかりの地です。・長崎市 <09Dec'2019、長崎市>・新上五島町<10Dec'2019、新上五島町> ・島原市 <12Dec'2019、島原市>のゆかりの地を社お買いします。 竜馬通り(
<12Dec'2019、島原市> 以下同左 島原「鯉の泳ぐまち」、島原市新町。 今日の写真は、島原市新町地区の「鯉の泳ぐまち」です。 島原市内には至る所に湧水があり、昭和60年1月環境庁から「島原湧水群」として日本名水百選に指定されています。 島原市新町一帯は特
<12Dec'2019、島原市> 以下同左 島原武衛屋敷街。 今日の写真は、島原武家屋敷街です。 島原武家屋敷街は、江戸時代に島原藩徒士が居住していた島原城外郭の西側の当時鉄砲町(鉄砲丁)と呼ばれていた地区の一部で町並み保存地区に指定される「下の丁」中心とした
<12Dec'2019、島原市> 以下同左 島原城、復元天主。 今日の写真は、1616年に大和五条から島原に移封した松倉豊後守重政が、1618年から7年余の歳月を費やして築いた島原城です。 本丸や天守、櫓、長塀は昭和30年代以降の復元ですが、安土・桃山様式の壮麗な面影を
<11Dec'2019、南島原市> 天草四郎像、原城跡。 今日の写真は、天草四郎を総大将として数万人のキリシタンや農民が立て篭った「島原・天草一揆」の舞台となった原城跡ともともとは南島原地区の本白として作られた日野江城跡です。 2018年6月30日に世界遺産登録が決
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現
直箆温泉神社、大田原市余瀬白旗山南端。 今日は、那須与一が源平合戦の後、矢竹を奉賽するために創建したと伝えられる直箆温泉神社です。 最初、鎮座の地は現大田原市北金丸地内の直箆でしたが、享保年間(江戸幕府8代将軍徳川吉宗の頃)に現在の余瀬白旗山南端に
駒込の池、黒羽(現大田原市大輪字長谷田) 今日の写真は、那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の生まれ故郷の地、「駒込の池」です。 鵜黒の駒誕生の伝説は「歴史的風土のなかの黒羽の民話(黒羽町編1993/12)」の要約によると、『長谷田の溜池に、毛は鳥の羽根のようで
稲積稲荷神社(福原)、玄性寺 今日の写真は、玄性寺境内の那須与一の墓の南隣に鎮座する那須一族の守護神稲積稲荷です。 お寺の中にある神社です。那須与一が屋島合戦で扇に向かって矢を放つ際に稲荷明神が白狐と化して守護したという霊験ある稲荷です。主催神は倉
玄性寺、大田原市福原 今日の写真は、那須与一公の墓所がある福原玄性寺です。 那須氏の菩提寺で、伝承によれば、3代那須資之が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆)の分骨を受けて福原(現大田原市福原)に建立した功照院が始まりといわれ
楼門(重文)、那須神社(大田原市南金丸)。 国指定名勝「おくのほそ道の風景地」 今日の写真は、金丸八幡宮として仁徳天皇の時代に建立されたと伝えられ、中世、近世を通じて那須氏、大関氏(江戸期黒羽城主)の氏神として信仰された「那須神社」です。 一
九尾稲荷神社、那須温泉神社内 今日の写真は、昨日少し説明した本殿の東側に鎮座する「九尾稲荷神社」とその北東奥にある「殺生石」です。 「九尾の狐」(玉藻前)の平安時代の退治については近いうちに、源頼朝の那須の篠原での巻狩り(1193年)か松尾芭蕉の所縁の
那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)、本殿、(那須町湯本) 今日の記事は、「平家物語」の中で那須与一が源平合戦屋島の戦い(1185年)で扇を射る際に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ
高館城址、大田原市大輪、川田 今日の記事は、那須与一の生い立ちと高館城址の写真です。 那須余一の出生から成人するまでに関しては、今なお不明な点が多く、むしろ謎に包まれてます。 私が源義経、那須与一、松尾芭蕉の下野での足跡を調べるのに最も信頼して利
大田原市余瀬の白旗山南東端にあたる、旧東山道沿いの「余瀬の道標」近くの「白旗城跡の説明看板」 今日の写真と記事は、東山道の関東最北の黒川駅家(うまや)の次の駅家である粟野駅家があった、現大田原市余瀬の白旗山です。 余瀬は元は旧東山道(関街道)粟野駅
弁慶下駄掛石、那須町睦家。 今日の写真は、那須町睦家にある「弁慶下駄掛石」です。 弁慶下駄掛石の伝説は、治承4年(1180年)、義経一行が旧東山道黒川駅家(現伊王野付近と推定される)から、かつて祖先源頼義が軍兵を募った粟野駅家(現大田原市余瀬)に向かう
伊王野城山公園。伊王野山城(霞ヶ城、伊王野城)跡。 今日の写真は、伊王野山城跡を公園にした「伊王野城山公園」です。 伊王野城は室町時代の長享元年(1487)に当時の領主である伊王野資清によって築かれた城郭で、これまで居城として利用した伊王野氏居館
伊王野氏居館跡(手間広場)と伊王野氏山城跡、那須町伊王野 今日の写真は、昨日の馬頭観音堂があった、伊王野氏の山城跡その1とそれ以前に約300年間平城として使われた伊王野氏の居館跡です。 1180年に義経一行が鎌倉へ向かう途中で、弁慶が昨日の馬頭観音堂で
馬頭観音堂、那須町伊王野伊王野氏山城址 今日の写真は、那須町伊王野の「馬頭観音堂」とその境内に湧き出る「判官清水」です。 馬頭観音堂は、那須町伊王野の伊王野山城跡に上る途中にありました。 那須町の義経伝説には、「東山道伊王野を義経一行が進んでいる
沓石。那須町大畑沓石地区 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、大畑地区の「沓石」と「大畑」、伊王野地区の「御幣石(おんべし)」です。 まずは、「沓石」(那須町大畑沓石地区)です。 旧東山道(義経街道)をさらに伊王野方面に向かうと、街道
「月夜見山」伝説地(那須町簑沢) 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、簑沢地区の 「月夜見山」、「具足岩・五両沢」、「矢の根石」です。 まずは「月夜見山」。 「陸奥と下野の国境の追分明神に着いたころは、もう夕もやが境内の杉木立に深くたち
追分の明神(住吉玉津島神社)、那須町簑沢追分地区。 今日の写真は、那須町の義経伝説No.1「追分明神」です。 治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で平家追討の旗を挙げたことを源義経が奥州平泉で聞き、鎌倉へ駆けつける際に古代の街道である東山道を通ったといわれ、
キクザキイチゲ、白河神社(白河市旗宿)Apr’2017 今日の写真は、白河の関跡、白河神社の巨木と山草の花です。 今から50年以上前に初めて訪れた時、子供だったこともあり私の白河の関の思い出に残ったのは、大木に絡みついたり、絡みついた大木を枯らして地面から
白河神社拝殿、拝殿、白河市白河市旗宿関の森 今日の写真は、白河神社です。 昨日は、源義経に関わる事跡と白河の関跡の関の森砦跡などの写真を紹介しましたが、今日はそれらを除いた写真です。 白河神社は福島県白河市大字旗宿字関の森に鎮座している神社で、創