FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
オールドタウン周辺 その2(マラッカ、マレーシア)Jul’2019
<05Jul'2019、マラッカ> 以下同左 チェン・フーン・テン(青雲亭)寺院。 ハーモニー・ストリート(トコン通り/トゥカン・エマス通り)& その周辺です。 中国寺院、モスク、ヒンドゥー寺院と、さまざまな信仰の場が仲良く並んでいます。 チェン・フーン・テ
オールドタウン周辺 その1(マラッカ、マレーシア)Jul’2019
<05Jul'2019、マラッカ> 以下同左 ジョンカー通り(Jalan Hang Jebat)。 今日は、マラッカ川対岸にあるオールドタウンの中でもジョンカー通り(Jalan Hang Jebat)スナップです。 ジョンカー通り(Jalan Hang Jebat)の様子です。 マラッカ名物のチキン
セントポールの丘周辺(マラッカ、マレーシア)Jul’2019
<05Jul'2019、マラッカ> 以下同左 セントポール教会跡。 今日は、マラッカの記事二日目。 セントポールの丘周辺です。 オランダ広場から階段で丘に上ると、1521年にポルトガルによって建てられたセントポール教会跡があります。 マラッカの街や海が一望できま
<05Jul'2019、マラッカ> 以下同左 マラッカキリスト教会とオランダ広場。 マレーシアの世界文化遺産「マラッカ海峡の歴史的都市群:マラッカとジョージタウン(2008年登録)」の写真を続けます。 今日からはマラッカ市内の世界遺産地区です。 今日はまず、「
<04Jul'2019、ジョージタウン> 以下同左 クー・コンシ(龍山堂邱公司) 今日は、昨日のストリートアートたちにごく近い、クー・コンシ(龍山堂邱公司)です。 邱(クー)家の霊廟。外壁や内装はすべて中国から招聘された職人が手がけたもの(1906建立、1950改装)
ストリートアート(ジョージタウン、ペナン島)Jul’2019
<03、04Jul'2019、ジョージタウン> 以下同左 今日は、ジョージタウンのアルメニア・ストリート周辺のストリートアートです。 ここ以外にもジョージタウン市内ではストリートアートを見かけました。
ハーモニーストリート周辺、ジョージタウン(ペナン島)Mar’2019
<03、04Jul'2019、ジョージタウン> 以下同左 ハーモニー通り。 今日は、「カピタン・クリン・モスク」などがあるマスジット・カピタン・クリン通り周辺です。 マスジット・カピタン・クリン通りは、モスク、中国寺院、インド人街が数メートル置きに並んでいるため
チョン・ファッ・ツィー・マンション(ジョージタウン、ペナン島)Jul’2019
<03Jul'2019、ジョージタウン> 以下同左 今日は、ジョージタウンのチョン・ファッ・ツィー・マンション。 古い家並みが風情あるジョージタウンの街中電特に目を引き、別名「ザ・ブルー・マンション」と呼ばれ、かつて中国人実業家の大富豪が住んだ屋敷です。 遠
コーンウォリス要塞周辺、ジョージタウン(ペナン島、マレーシア)Jul’2019
<03Jul'2019、ジョージタウン> 以下同左 ペナン・シティホール(旧植民地政府庁舎)。 今日から、マレーシアの世界文化遺産「マラッカ海峡の歴史的都市群:マラッカとジョージタウン(2008年登録)」の写真です。 まずは、ペナン島のジョージタウンのコーンウォ
<15Jul’2015、岳沢湿原> 以下同左 六百山(標高2,450m)と湧水池の立ち枯れの木。 今日は、上高地シリーズの最後、岳沢湿原の絶景とまだ紹介していなかった上高地の7月の花です。 岳沢湿原は岳沢からの清流が 急峻な谷から 極端な平地である梓川にぶつかること
<15Jul’2015、上高地自然探勝路> 以下同左 明神近くの遊歩道。 今日は、梓川左岸(河童橋→明神)、右岸(奥宮→岳沢湿原)の自然探勝路の景色とヒョッコリ出て来た日本ザルです。 梓川左岸(河童橋→明神)の森。・ヤマキマダラヒカゲ (Neope niphonica,
<15Jul’2015、明神池> 以下同左 明神池一之池のマガモ。 今日は、明神池一之池のマガモです。 明神池にはカルガモもいるようですが、この日は会えませんでした。 水草を食べています。
<15Jul’2015、明神池> 以下同左 明神池一之池、鏡池と呼ばれる理由が分かります。 今日は上高地の穂高神社奥宮境内の神域にあり、古くは「鏡池」とも呼ばれていた「明神池」です。 もともとは、明神岳の土砂崩れにより梓川支流の沢がふさがれてできた池です。
<15Jul’2015、明神、明神橋からの眺め> 以下同左 明神橋と明神岳です。 今日は、河童橋から梓川左岸の登山道を上がった「明神」とそこに架かる「明神橋」からの眺め、橋を渡った北側の穂高神社奥宮です。 朝5時に大正池から始めた上高地ウォーキング、ここまで4
<15Jul’2015、河童橋からの眺め> 以下同左 今日は、上高地観光の中心地、梓川に架かる木製の吊橋『河童橋』からの穂高連峰と梓川の眺めです。 中央右の岩稜が「ジャンダルム」「ロバの耳」そして奥穂高岳。その稜線の先が前穂高岳。 中央左の稜線には西穂高
<15Jul’2015、田代池から河童橋> 以下同左 梓川左岸から望む焼岳。 今日は、田代池を後にして(6:32)、梓川左岸→田代橋→穂高橋→梓川右岸→ウェストン碑(7:08)→梓川右岸→河童橋(7:46)と歩いた主に梓川の写真です。 左岸から望む梓川上流と奥穂高、西
<15Jul’2015、田代池、田代湿原> 以下同左 田代池。非常に透明度が高い浅い池。 今日は大正池の北側に広がる田代湿原と田代池です。 田代池は南の梓川本流にある大正池とともに、大正時代の焼岳の噴火により梓川の支流である千丈沢がせき止められてできた浅い池
<15Jul’2015、大正池上流部> 以下同左 焼岳と立ち枯れ。午前6:06。 今日は昨日の続き。 昨日の撮影位置から上流部に移動しました。 大正池上流部は湿地帯で、木道が整備されていました。 このあたりも立ち枯れが残っていましたが、倒れているものが大半
<15Jul’2015、大正池> 以下同左 西穂高、奥穂高と大正池。 今日から上高地最初は早朝の大正池です。やや古い写真ですが、5年間闘病していたのでご容赦ください。 大正池は活火山である焼岳が大正4年(1915年)に噴火し、泥流によって梓川が堰き止められて形成さ
<02Mar’2015、東大寺> 正倉院(国宝)。 今日は、東大寺大仏殿の北北西に位置する正倉院です。 正倉院は聖武天皇の遺品や、東大寺の年中行事用の仏具等、東大寺にまつわる重要物品を納めていた高床式校倉造りの宝庫。奈良時代に創建されて以来、当時と変わらぬ姿
<02Mar’2015、東大寺> 東大寺法華堂(三月堂、国宝)。 今日は東大寺境内東方の丘陵部、上院エリアに位置する法華堂(三月堂)、二月堂などです。 東大寺法華堂(国宝)です。 東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つ。 若草山。野焼き済みですね。 上
<02Mar’2015、東大寺> 以下同左 東大寺南大門(国宝)、北側(金堂側)から。 今日は、国宝の東大寺南大門と南大門の左右に立つ国宝の金剛力士像(仁王像)です。 南都焼討の兵火で罹災した南大門が復興された(1195年)祭、大仏の両脇侍像、大仏殿の四隅に安置
<02Mar’2015、東大寺金堂> 銅造盧舎那仏坐像(大仏、国宝) 今日は、東大寺大仏殿(金堂)の銅造盧舎那仏坐像(大仏、国宝)を中心に、脇侍の如意輪観音坐像 (重文)虚空蔵菩薩坐像(重文)、その他の仏像です。 治承4年(1181年)の平重衡による南都焼討の兵火
<02Mar’2015、東大寺> 東大寺大仏殿(金堂)(国宝)。 今日は、ユネスコ世界遺産古都奈良の文化財の中核、東大寺大仏殿と中門、南大門の写真です。 大仏殿の大仏その他の仏像は明日。 東大寺も本尊の大仏も奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺と仏像
<02Mar’2015、春日大社> 春日荷茶屋(かすがにないぢゃや)。 今日は、春日荷茶屋(かすがにないぢゃや)です。 春日大社に奉納された塩や酒を使用した料理などを提供する、参道沿いにある春日大社直営の茶屋です。 万葉粥と柿の葉ずしを頂きました。 「荷
<02Mar’2015、春日大社> 若宮神社本殿(重文) 今日は、春日大社の摂社、「若宮神社」です。 若宮神社周辺の末社14社も併せて、「若宮十五社めぐり」が勧められていました。 御間道(おあいみち)。 御本社(大宮)と若宮との間にある道なので、「おあい
<02Mar’2015、春日大社> 春日大社南門(外側)。 ユネスコ世界遺産古都奈良の文化財の写真、まだ続きます。 今日は、春日大社です。 社伝では、神護景雲2年(768年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現
直箆温泉神社、大田原市余瀬白旗山南端。 今日は、那須与一が源平合戦の後、矢竹を奉賽するために創建したと伝えられる直箆温泉神社です。 最初、鎮座の地は現大田原市北金丸地内の直箆でしたが、享保年間(江戸幕府8代将軍徳川吉宗の頃)に現在の余瀬白旗山南端に
駒込の池、黒羽(現大田原市大輪字長谷田) 今日の写真は、那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の生まれ故郷の地、「駒込の池」です。 鵜黒の駒誕生の伝説は「歴史的風土のなかの黒羽の民話(黒羽町編1993/12)」の要約によると、『長谷田の溜池に、毛は鳥の羽根のようで
稲積稲荷神社(福原)、玄性寺 今日の写真は、玄性寺境内の那須与一の墓の南隣に鎮座する那須一族の守護神稲積稲荷です。 お寺の中にある神社です。那須与一が屋島合戦で扇に向かって矢を放つ際に稲荷明神が白狐と化して守護したという霊験ある稲荷です。主催神は倉
玄性寺、大田原市福原 今日の写真は、那須与一公の墓所がある福原玄性寺です。 那須氏の菩提寺で、伝承によれば、3代那須資之が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆)の分骨を受けて福原(現大田原市福原)に建立した功照院が始まりといわれ
楼門(重文)、那須神社(大田原市南金丸)。 国指定名勝「おくのほそ道の風景地」 今日の写真は、金丸八幡宮として仁徳天皇の時代に建立されたと伝えられ、中世、近世を通じて那須氏、大関氏(江戸期黒羽城主)の氏神として信仰された「那須神社」です。 一
九尾稲荷神社、那須温泉神社内 今日の写真は、昨日少し説明した本殿の東側に鎮座する「九尾稲荷神社」とその北東奥にある「殺生石」です。 「九尾の狐」(玉藻前)の平安時代の退治については近いうちに、源頼朝の那須の篠原での巻狩り(1193年)か松尾芭蕉の所縁の
那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)、本殿、(那須町湯本) 今日の記事は、「平家物語」の中で那須与一が源平合戦屋島の戦い(1185年)で扇を射る際に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ
高館城址、大田原市大輪、川田 今日の記事は、那須与一の生い立ちと高館城址の写真です。 那須余一の出生から成人するまでに関しては、今なお不明な点が多く、むしろ謎に包まれてます。 私が源義経、那須与一、松尾芭蕉の下野での足跡を調べるのに最も信頼して利
大田原市余瀬の白旗山南東端にあたる、旧東山道沿いの「余瀬の道標」近くの「白旗城跡の説明看板」 今日の写真と記事は、東山道の関東最北の黒川駅家(うまや)の次の駅家である粟野駅家があった、現大田原市余瀬の白旗山です。 余瀬は元は旧東山道(関街道)粟野駅
弁慶下駄掛石、那須町睦家。 今日の写真は、那須町睦家にある「弁慶下駄掛石」です。 弁慶下駄掛石の伝説は、治承4年(1180年)、義経一行が旧東山道黒川駅家(現伊王野付近と推定される)から、かつて祖先源頼義が軍兵を募った粟野駅家(現大田原市余瀬)に向かう
伊王野城山公園。伊王野山城(霞ヶ城、伊王野城)跡。 今日の写真は、伊王野山城跡を公園にした「伊王野城山公園」です。 伊王野城は室町時代の長享元年(1487)に当時の領主である伊王野資清によって築かれた城郭で、これまで居城として利用した伊王野氏居館
伊王野氏居館跡(手間広場)と伊王野氏山城跡、那須町伊王野 今日の写真は、昨日の馬頭観音堂があった、伊王野氏の山城跡その1とそれ以前に約300年間平城として使われた伊王野氏の居館跡です。 1180年に義経一行が鎌倉へ向かう途中で、弁慶が昨日の馬頭観音堂で
馬頭観音堂、那須町伊王野伊王野氏山城址 今日の写真は、那須町伊王野の「馬頭観音堂」とその境内に湧き出る「判官清水」です。 馬頭観音堂は、那須町伊王野の伊王野山城跡に上る途中にありました。 那須町の義経伝説には、「東山道伊王野を義経一行が進んでいる
沓石。那須町大畑沓石地区 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、大畑地区の「沓石」と「大畑」、伊王野地区の「御幣石(おんべし)」です。 まずは、「沓石」(那須町大畑沓石地区)です。 旧東山道(義経街道)をさらに伊王野方面に向かうと、街道
「月夜見山」伝説地(那須町簑沢) 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、簑沢地区の 「月夜見山」、「具足岩・五両沢」、「矢の根石」です。 まずは「月夜見山」。 「陸奥と下野の国境の追分明神に着いたころは、もう夕もやが境内の杉木立に深くたち
追分の明神(住吉玉津島神社)、那須町簑沢追分地区。 今日の写真は、那須町の義経伝説No.1「追分明神」です。 治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で平家追討の旗を挙げたことを源義経が奥州平泉で聞き、鎌倉へ駆けつける際に古代の街道である東山道を通ったといわれ、
キクザキイチゲ、白河神社(白河市旗宿)Apr’2017 今日の写真は、白河の関跡、白河神社の巨木と山草の花です。 今から50年以上前に初めて訪れた時、子供だったこともあり私の白河の関の思い出に残ったのは、大木に絡みついたり、絡みついた大木を枯らして地面から
白河神社拝殿、拝殿、白河市白河市旗宿関の森 今日の写真は、白河神社です。 昨日は、源義経に関わる事跡と白河の関跡の関の森砦跡などの写真を紹介しましたが、今日はそれらを除いた写真です。 白河神社は福島県白河市大字旗宿字関の森に鎮座している神社で、創