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  • 依田信蕃⑬「佐久郡平定まであと一歩」

    家康の願いが通じたかは定かではないが…『依田記』いわく【(北条)氏直へ関東よりの運送の兵糧・人馬を、依田信蕃が討捕し、氏直への陣は続難なり候】とあるように、信蕃は北条本隊へ送られるはずの兵糧・人馬を襲い、ことごとく奪い取った。やがて真田昌幸を味方につけ碓氷峠も占領。北条軍の兵糧補給路を、完全封鎖することに成功したのだった。こうして徳川VS北条の対陣は、小競り合いこそ徳川が勝利しつつも、大軍を擁する北...

  • 依田信蕃⑫「信濃勢力図の信蕃の孤軍奮闘が凄すぎる」

    家康「信濃の諏訪頼忠は、せっかく徳川方になびいていたというのに…忠次が『信濃を殿より賜った私に、貴殿も早く手をつくがよい』と、居丈高に迫ったものだから、『誰が貴様になど頭を下げるか!ならばいっそ、私は北条に付こう』と、態度を硬化させてしまったではないか!!」酒井忠次「………😰」家康「さらに、徳川の支援によって、旧領を回復させてやった小笠原貞慶までもが離反したのだぞ!それもこれも、忠次がよく相談せずに小...

  • 依田信蕃⑪「真田昌幸を味方にせよ!謀将陥落」

    こうして2度に渡り使者を遣わせた後。3度目には、ついに真田昌幸が自ら信蕃の元に赴いた。真田昌幸「貴殿の申し出、大いに検討させて頂こう。北条氏政は、真田が従属しているにも関わらず、岩櫃城と沼田城を手中に収めると公言している。これらは、亡き武田勝頼公より、真田が引き継いだものだ。決して手放すわけにはいかぬ!我らは徳川に味方することに異存はない。だが、見返りとして信濃で一郡を真田に下さるというが…家康殿...

  • 依田信蕃⑩「みんなが北条についても俺は流されない!」

    依田信幸「兄上。佐久郡周辺の諸将は、すべて北条方につきました。我々も、身の振り方を考えねばならぬ事態ですが…」信蕃「考えることなど何もない。徳川の御恩を受けた以上、我らが取るべき道は一つ。ひたすらに、徳川への忠義を尽くすのみだ!」信幸「ですよね、兄上ならそう言うと思ってました。死出の旅までお供します」信蕃「案ずるな。地の利は我らにある。大軍相手といえども、寡兵ならではの戦い方というものがあるではな...

  • 依田信蕃⑨「天正壬午の乱とは?」

    大久保忠世「まずは、読者にもわかりやすいよう、一般的にあまり知られていない『天正壬午の乱』を簡単に説明いたそう」1582年3月。武田家を滅亡に追いこみ、その領土を手にした織田信長だが、わずか3ヵ月後に『本能寺の変』で討たれた。旧武田領は、主不在の空白地帯となる。その領有をめぐり、近隣の大国『徳川・北条・上杉』が三つ巴の争奪戦を繰り広げたのだ。大久保忠世「当初この戦は…北条家が、兵力・状勢とも全てに...

  • 依田信蕃⑧「武田家滅亡!徳川の家臣になる」

    こうして、田中城を明け渡した信蕃は、勝頼の元へ向かったが…―――時すでに遅し。勝頼は新府城を落ち延び、逃避行を始めて消息不明となっていた。(天正10年3月11日 自刃 武田家滅亡)信蕃は、人質として捕らわれた息子たちを救うため、やむなく織田軍へ降る決意をする。しかし、信長は『最後まで抵抗した武将』には容赦しない。信蕃は武田家臣処刑リストの筆頭に挙げられていた。それを知った家康は慌てて「信蕃を匿え!」と...

  • 山川浩・健次郎③「会津の汚名を晴らせ!京都守護職始末の出版」

    浩は晩年… 貧しい旧会津子弟らを、書生として迎えるだけでは足りないと考えました。 地元の教育制度そのものを整えようと尽力します。 明治政府から冷遇される会津には、明治17年の時点でも、1つの中学校もなかったからです。かつて会津藩には『日新館』という、他藩が視察にくるほどの優れた藩校をもち、全国トップクラスの教育水準だったというのに…故郷の現状に憤る浩と健次郎は、会津学校会という組織を作り、ついに私...

  • 山川浩・健次郎②「極貧でも会津子弟を養う」

    明治政府より与えられた新たな領地は、青森にある極寒の不毛の大地。 豊かな会津23万石(実高は60万石以上だったとも)から、飢えと寒さが厳しい斗南3万石(実高は7000石)へ移住します。 これは実質的には挙藩流刑という過酷な処罰でした。 藩のトップである浩も、昼には政務、夕には自ら鍬を握り糞尿を担いで田畑を開墾しますが、会津藩士すべてを養うのは到底不可能だったのです。 こうして戦に敗れ、開墾の夢...

  • 依田信蕃⑦「武田勝頼がいるうちは絶対に裏切らない!」

    信蕃「だが、この身は長い間 包囲の中にあって、外のことの虚実は全くわからぬ。 武田重臣のお墨付きの書状もないまま、この城を棄てたとあらば、人は何というであろうか? 俺の力量を認めているという家康殿も、落胆されるであろう。 家康殿の厚意に背くことになろうとも、俺はこの城を引くことは出来ない。 もし、国破れて主君である勝頼公が死ねことあらば………… 俺もこの城とともに滅びる道を選ぼう」 成瀬は、信蕃のま...

  • 木村喜毅㉓「明治34年ともに逝く」

    晩年、諭吉は多忙な身ながも、木村との交流は欠かさない。だがある日、突然の脳溢血を発症する。その時はなんとか奇跡的な復活を遂げるも、諭吉の体は弱っていく一方だった。明治(1901)34年1月25日。木村は福沢邸を訪れていた。諭吉が脳溢血を発症して以来、病後の身を心配して、木村のほうから訪ねることが多くなっていた。かつて木村が大病を患った時。諭吉自らひいた精米を粥にして看病に努め、入院費一切の面倒をみ...

  • 依田信蕃⑥「甲州征伐・田中城の戦い」

    織田・徳川連合軍がなだれ込み、武田滅亡のカウントダウンが迫る。 甲州征伐は、木曽義昌の謀叛により始まっている。 その後も、武田一族重臣らの寝返り・逃亡が相次ぎ、戦わずに自落する城が続出したのだ。 そんな中、信蕃は降伏も開城もせず、徹底抗戦の構えをみせていた。 武田一門衆さえ裏切る中、これは凄まじい気概と忠誠である。 1582年、2月20日。 駿河国に侵入した徳川軍は、ついに依田信蕃が籠る田中...

  • 依田信蕃⑤「二俣城の明け渡し」

    真田昌幸「ならば… 『敵に城を明け渡し、甲斐に撤退せよ』 と命令書を送るのが、信蕃殿を救う唯一の策でしょう。 かつて信玄公が、徳川より二俣城を奪った際も、武田と徳川の間で人質を取り交わして、人命を損なうことなく城明け渡しが行われました。 勝頼様の申される通り、今は有能な人材こそ、武田家にとって何よりの宝と存じます」 こうして『城明け渡し』の命令書は、二俣城へ届けられることになる。 が。 信...

  • https://rekisi0000.blog.fc2.com/blog-entry-69.html

    今回の主人公は、山川浩・健次郎(やまかわ ひろし・けんじろう)兄弟! 会津藩の家老だった山川家。 幕末の会津戦争を戦い、明治の世で会津復権のため尽力します。 具体的に会津のため何をしたのか? ①会津戦争で主席家老は皆切腹!新領地の斗南で藩政を担った ②藩が消滅!極貧生活の中でも行き場のない旧会津子弟を養い教育した ③京都守護職始末を出版!会津の無実を公表して朝敵の汚名を晴らした という、山川兄弟の奮...

  • 依田信蕃④「兵糧がないなら奪え」

    依田信幸「兄上、兵糧がいささか少なくなってきました」(※依田信幸:信蕃の次弟。常に兄と行動を共にして戦った) 依田信蕃「この程度のことで、決して勝頼様に弱音を吐くでないぞ。 長篠の敗戦により、勝頼様は武田軍の再建に必死であろう。 今こそ、孤軍奮闘して主家をお支えせねばならぬ」 信幸「とはいえ、腹が減っては戦は出来ません」 信蕃「案ずるな。籠城戦も数か月が経ち、徳川軍もだいぶ緩んできている。 包...

  • 依田信蕃③「補給路封鎖!絶体絶命の二俣城籠城戦」

    大久保忠世「二俣城の戦いと言えば… ●3行でわかる二俣城の戦いの流れ ・元亀3(1572)年、武田信玄が徳川から二俣城を奪う ・天正3(1575)年、長篠の戦いで武田勝頼がボロ負け ・その直後→ボロボロな武田に、徳川が二俣城を奪い返しにきた 上洛を決意した武田信玄公が、徳川の領地であった遠江に侵攻。 二俣城は、家康様の居城・浜松城に睨みをきかせる重要拠点であったが、信玄の猛攻の前に、わずか2か月で...

  • 出羽重遠②「バルチック艦隊撃滅!海軍大将への道」

    藩の上層部は、「会津の復権は次世代の委ねるしかない、そのためには学問しか道はない」と考えました。房吉のような見込みある少年を、書生として勉強できる環境に預けてくれたのです。 房吉は静岡の知人の元に居候することになり、静岡学問所という当時トップクラスの藩校で学ぶことができました。 父母や弟らと斗南で共に暮らせると思った房吉は、ただ一人家族と離れて辛かったのかもしれません。 まもなく病死する母とはこ...

  • 出羽重遠①「薩摩藩閥を破って海軍大将になった会津人」

    今回の主役は「出羽重遠」(でわ しげとお)です。■出羽重遠のすごい所3つ ①数え14歳で会津籠城戦!砲弾が降りそそぐ中で凧揚げするガキ大将②会津ハンディにも屈しない!薩摩が牛耳るアウェーな海軍で大奮闘③薩摩藩以外で初の海軍大将に!日露戦争でバルチック艦隊を撃滅する ■簡易年表 1856年 会津藩士・出羽佐太郎重信の子として誕生1868年 会津戦争 籠城戦を体験1870年 敗戦後、家族と離れて静岡で勉強1872年 海軍兵...

  • 長宗我部盛親③「立派な兄を支えて生きる」

    10万を超える秀吉の大軍が、阿波・讃岐・伊予の3方向から同時に攻め寄せてくる。 元親は、ただでさえ圧倒的劣勢の兵数を分散せざるを得ず、各地で敗北が相次いだ。 籠城していた将兵も城を捨てて逃げるしかなく、一族重臣は必死に降伏を訴える。 元親は、はじめこれを拒否し、徹底抗戦を主張した。 「このまま決戦もせず秀吉の軍門に降るというのか!?屍の上に恥を塗るようなものだ。 お前らのような未熟者に城を預け...

  • 長宗我部盛親②「長宗我部の四男坊」

    のちの長宗我部盛親こと幼名・千熊丸は、傳役の桑名弥次兵衛に槍の手ほどきを受けていた。 「千熊丸様!そんな槍さばきでは功をあげられませぬぞ!!」 弥次兵衛の稽古は、元服前の童相手といえど容赦がない。 『合戦の先陣は必ず桑名弥次兵衛』と言わしめる、歴戦の猛将ならではの鬼迫だ。 甘やかしては、いざ初陣となった際、瞬く間に首を取られてしまう。 厳しさは、千熊丸を立派な武将に育てようとする愛情の裏返しだった...

  • 長宗我部盛親①「寺小屋師匠となった土佐国主」

    今回の主人公は「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)です。長宗我部といえば、四国統一を目指した『元親』が有名です。盛親はその跡継ぎにして、長宗我部本家を潰してしまった暗愚の2代目?!しかしそこには元親に負けず劣らずの波乱万丈人生が!●長宗我部盛親のここが見どころ①まさかの跡継ぎに抜擢長兄の戦死により気楽な四男坊が歴史の表舞台へ!②傍観の関ケ原戦うことなく敗走し土佐国主から牢人に転落!③大岩祐夢として...

  • 高松凌雲②「厄介叔父という運命に抗う」

    今から200年ほど前の幕末。高松権平(のちの凌雲)は、九州筑後の百姓の3男として生まれた。 当時、農家の家督財産は長男のみ継ぐ決まりがあり、次男以下は「厄介叔父」と呼ばれ、使用人同然の扱いだった。 権平は、妻を娶ることも家を構えることも許されず、百姓として最底辺の作男として一生を終える運命だったのだ。 「そんな人生、俺は嫌だ」 何としてもこの境遇から抜け出したい。 そう思い立った権平は、家を出奔し...

  • 高松凌雲①「病に敵味方なし!幕末のスーパードクター」

    今回の主人公は「高松凌雲(たかまつりょううん)です。●高松凌雲のここがすごい!①幕末一のスーパードクターパリに留学し最先端医療を習得した②病に敵味方なし箱館戦争で敵兵も治療した赤十字運動の先駆者④同愛社の創立者医は仁術なり!貧民治療に生涯を捧げるという凌雲の生涯を、史実を元にした創作小説でご覧頂けると幸いです。●あらすじ時は幕末。 百姓の3男として生まれた凌雲は、家督も継げず、家の厄介になるのに嫌気が...

  • 浅野長政④「義兄は未来の天下人?!」

    一般的な戦国大名は、多くの家臣団を生まれながらに備えている。 それは『一門衆』『譜代衆』『国衆』に分けられた。 『一門衆』は、兄弟や親戚など血縁関係にある家臣。 『譜代衆』は、何代にもわたり古くから仕える古参の家臣。 『国衆』は、勢力拡大に伴い、新たに仕え始めた在地領主たち。 「一門や譜代の者など、武家の生まれであれば、当たり前のように存在する者すら、わしにはおらぬ。 知っての通り、わしは百姓...

  • 浅野長政③「裸一貫の秀吉」

    「よし、わかった! おこひ殿が反対するというのなら、おねをわしの養女にして、浅野家の娘として藤吉郎殿に嫁がせよう」 「なんとありがたい!この御恩は決して忘れませぬ!!!」 と、浅野家の協力により、とんとん拍子に結婚話が進んでいった。 時は乱世。実力がものをいう時代である。 浅野長勝は、日ごろの藤吉郎の働きぶりから「これは」と光るものを感じていたのだろうか。 おこひの意に反して、浅野夫婦は結婚...

  • 浅野長政②「人生を激変させる男、現る!」

    むかし、むかし。尾張の国の、何の変哲もない武士の家に生まれた浅野長政。 (※晩年まで長吉と名乗りるが『長政』で統一) 我欲もなく真面目な彼は、何をやらしても人並み以上にこなす。だが天下を取れるような器もなく、そんな大望を抱いたこともない。 本来であれば、ごく平凡な武士としての一生を終えただろう。 そんな長政の運命が一変した! 「長政。浅野家が、跡継ぎとなる男子がいなくて難儀しているようだ。 おぬ...

  • 浅野長政「秀吉の天下統一を支えた義弟」

    今回の主役は浅野長政(あさのながまさ)です。●浅野長政のここが見どころ!①秀吉の義兄弟!数少ない一門衆として創業期から秀吉を支える ②五奉行筆頭!戦働きから取次までこなし家康・三成・政宗との濃い繋がり ③幕末まで大名だった浅野家の祖!なぜ豊臣一門なのに存続したか?昭和まで生きる最後の大名マイナーだけど豊臣政権の縁の下の力持ち。そんな浅野長政を、想像も交えた小説でご紹介します。あらすじ ごく普通の武将だ...

  • 木村喜毅②「門閥制度は親の仇でござる BY諭吉」

    福澤諭吉「門閥制度は親の仇である」福沢諭吉は幼い頃より、常々そう思ってきた。 門閥制度というのは、いわゆる『身分制』のことで、人は生まれた家で全てが決まってしまう。 福澤諭吉「家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、 先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まっている者も同様、何年経ってもちょいとも変化というものがない。 到底どんなことをしたって名を成すことはできな...

  • 木村喜毅①「福沢諭吉が惚れこんだ咸臨丸提督」

    今回ご紹介する偉人は木村 喜毅(きむら よしたけ)です。 出典:Wikipedia かの有名な『福沢諭吉』が、終生 慕い続けてやまぬ御人。 でも日本人なら誰もが知る諭吉に比べ、世に全く知られていませんね。 一体、何をした人なのか? ●木村喜毅のすごいポイント3つ①咸臨丸の提督! 日本初の太平洋横断を成しとげた ②海軍の父! 勝海舟の影に隠れた近代海軍建設の立役者 ③幕臣の節を全うする! 幕府滅亡と共に歴史の表舞...

  • 依田信蕃②「信蕃を保護せよ by家康」

    天正10(1582)年3月11日。 武田勝頼が自害し、武田家の歴史は幕を閉じた。 武田一門衆・旧臣で、勝頼を助けずに逃亡した者の多くは、 「出てくれば恩賞を与える」 という織田軍の言葉を信じて、のこのこと姿を現し、あっさり首を刎ねられた。 最後に及んで、勝頼を裏切った小山田信茂。 信茂も、恩賞を貰えると確信して、織田信忠の呼び出しに応じたところ 「ここに古今未曾有の不忠者がおる」と、容赦なく処...

  • 依田信蕃①「武田滅亡後も戦い続けた義将」

    今回、ご紹介する偉人は依田 信蕃(よだ のぶしげ)戦国時代の武田家臣で、数々の最強伝説をもつ武将です。 依田信蕃のすごい所4つ ①孤立無援の二俣城籠城戦!主君の許しがあるまで絶対に守り抜く ②武田滅亡後も籠城を続けた?!主君の死が判明するまで絶対に裏切らない ③信蕃の武人魂に家康も心打たれた!信長から匿ってまで家臣にスカウト ④謀将・真田昌幸すらも調略?!天正壬午の乱で孤軍奮闘の大活躍 という依田信...

  • 真田信之と石田三成「捨てられなかった手紙」

    「勝てば官軍、負ければ賊軍」 関ケ原敗戦後。 約260年間にわたる徳川政権下において、徹底して悪玉に仕立てあげられた石田三成。 そんな中でも、三成との友情を決して忘れなかった1人の武将… 誰だかご存知でしょうか? 三成の親友といえば、大谷吉継、直江兼続、佐竹義宣などなど。 けれども、意外に彼らと三成の親交を示す書状は残されていません。 はっきりと書状でプライベートな友情が伺える人物といえば? 何...

  • 明智光秀「戦国一の愛妻家」

    明智光秀といえば裏切者の代名詞。夫婦関係でもさぞや浮気を…と思いきや!? 一途に妻を愛する愛妻家だった! ●夫婦愛ポイント3つ ①顔ではなく心に惚れた! 疱瘡で美貌が失われても結婚する ②女性の命も惜しくない! 美しい黒髪を売ってでも夫に尽くす妻 ③死んでも離れない! 棺を埋めるまでずっと一緒にいた夫 そんな明智夫婦の物語をぜひご覧ください^^ むかしむかし。 謎に包まれた光秀の前半生の頃。 名門・土...

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