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毎日(朝・晩)坐禅を自宅でして、師事した西嶋先生の「中論」を紹介しています。

悠村隆道
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2021/05/22

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  • 中論・2-14頌 追憶、認識、想像と行くという現実の行い

    第十四頌 追憶、認識、想像と行くという現実の行い西嶋先生の訳「行った」(という追憶)も、「行きつつある」(という認識)も、「まだ行っていない」(という想像)も、何か別のものと入れ替えることのできない(独自の)存在である。(そのような追憶や認識や想像が)途絶え始めた段階で、一切のものが行くという現実の行いの中に存在するという状態がある。中論を勉強しています「行った」と言う追憶、「行きつつある」と言う...

  • 中論・2-13頌 行くという現実の行いと認識、追憶、想像

    第十三頌 行くという現実の行いと認識、追憶、想像西嶋先生の訳行くという現実の行いが実行される以前で、まだ何もない場合には、「行きつつある」(という認識)もないし、「行った」(という追憶)もない。そのような状況の中で、行くという現実の行いが始まるのであって、行くという現実の行いが、「まだ行っていない」(という想像)の中にあるということも絶対にあり得ない。中論を勉強しています[行く]という行いが未だ実行...

  • 中論・2-12頌 行くという現実の行いの始期

    第十二頌 行くという現実の行いの始期西嶋先生の訳行くという現実の行いは「行った」という追憶の中に生まれる筈がないし、行くという現実の行いは「まだ行っていない」という想像の中にも生まれる筈がない。行くという現実の行いは「行きつつある」という認識の中にも生まれる筈がないのであるから、行くという現実の行いの始期を特定することはできない。中論を勉強しています今まさに「行く」と言う行いは「行った」と言う過去...

  • 中論・2-11頌 行くという現実の行いの実在

    第十一頌 行くという現実の行いの実在西嶋先生の訳行く人と行くという動きの両方が、行くという現実の行いにおける二つの要素としてしがみ付いているとしても、現に行くという現実の行いが実在している。行く人と行くという動き(という概念的な理解)が両方とも生まれていない場合には、行く人と行くという動きとが分裂する以前の現実的な実体として、行くという行いが事実として現実の世界の中に実在している。中論を勉強してい...

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