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鑑三翁に学ぶ[死への準備教育] https://blog.goo.ne.jp/tsuguchan4497

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

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2020/12/12

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  • [Ⅳ228] 日本人とか日本社会とか(8) / 野暮天ばかり

    鑑三翁は薩長政府の中核をなす薩摩人(鹿児島)と長州人(山口)、これを支える肥後人(熊本)、福澤諭吉の佐賀人ら「九州人」を毛嫌いしている。一見これは鑑三翁の”差別意識”のようにも受け取れるが、そうではない。鑑三翁はごく普通の生活をしている九州の市井の人々を嫌ったのではない。悪政の限りを尽す明治政府とこれを取巻き利得をお互いに分かち合う権力側の政治家や経済人を嫌悪していたのである。そして鑑三翁は、オレは九州人は嫌いだと言って薩長政府を批難しながら、九州人からの反撃の言葉を誘導しているかのようだ。それも鑑三翁の狙いであった。反撃がくればそれに対して正面から堂々と反駁しながら、実は‥と言って真意を吐露するわけだ。これは言ってみれば弁論の技法の一であり、聴衆を驚かせたり反撃させたり大笑させたりすることで、弁士である...[Ⅳ228]日本人とか日本社会とか(8)/野暮天ばかり

  • [Ⅳ227] 日本人とか日本社会とか(7) / 田中正造翁の侠気やよし

    明治政府は欧米列強と肩を並べようとして、富国強兵のスローガンを掲げて様々な産業振興策を展開した。その一つに足尾銅山の開発がある。1877(明治10)年には、実業家・古河市兵衛が渋沢栄一の出資が後押しとなり足尾銅山の再開発に乗り出した。その結果足尾の産銅量は1893(明治26)年には年間5000tを超え全国一の銅山に成長した。銅は導電率に優れ世界の電気産業を牽引する必須の金属であった。ところが足尾銅山の開発と隆盛は、一方で深刻な環境被害を生み出した。木材需要の急増で周辺の山林は伐採され精錬所の煙害で酸性雨による立ち枯れを起こした。また銅の生産過程で生じる鉱滓から大量の鉱毒が発生し周辺の土壌や渡良瀬川に流出し、鉱毒による魚類の死滅や米・耕作物の立ち枯れが深刻となり、近隣住民の生活を脅かし続けたのである。これに...[Ⅳ227]日本人とか日本社会とか(7)/田中正造翁の侠気やよし

  • [Ⅳ226] 日本人とか日本社会とか(6) / 拝金宗宗祖・福澤諭吉

    明治維新直後の明治政府の財政は、歳入を不安定な年貢や御用金、紙幣発行などに頼り財政基盤はぜい弱であった。そこで維新政府は1873(明治6)年には地租改正に着手して税源を確保、引き続きそれ以外の税制改革に着手し、安定した国家財政基盤を確保するようになって行った。その際には各国の収税法等財政制度を紹介していた福澤諭吉の『西洋事情』(1866~70年にかけて刊行)が明治政府の基本資料の一つとして重用されたと言われている。福澤も財政制度改革に顧問格で関与した。福澤諭吉は今の我々日本人にとっては一万円札を飾ったりして馴染みのある人物だ。彼はどのような人物なのか。「福沢諭吉:〈1835-1901〉、幕末-明治時代の思想家。豊前中津藩(大分県)藩士。大坂の適塾で学び江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開く。英語を独学して幕...[Ⅳ226]日本人とか日本社会とか(6)/拝金宗宗祖・福澤諭吉

  • [Ⅳ225] 日本人とか日本社会とか(5) / 悪銭潔しとせず

    金銭は尊いものである。これが無ければ生活が成り立たない。それは人間・社会に恩恵を与えるものである。しかし金銭の使い方を間違えると、それは”魔物”となってしまう。鑑三翁の忠告である。「錢魔(ぜんま)を斥くるの辞(ことば)」として次のように記す。(ここでは現代語訳しない。)【錢魔よ、錢魔よ、汝に金銀あり、土地あり、家屋あり、銀行あり、政党あり、教会あり、宣教師あり、伝道会社あり、而してまた幸福なる家庭も、子女の教育も汝の手に存すると称す、‥然れども錢魔よ、爾は確かに悪魔の族なり、時には慈善の名を籍りて天使の形を装ふと雖も爾は爾の真性に於て純然たる地獄の子たるなり、‥願くは我が主イエスよ、爾の能(ちから)に由り我をして此『二十世紀の悪魔』に勝つを得しめ給へ、‥】(全集13、p.162)労せずして不当に得た金を「...[Ⅳ225]日本人とか日本社会とか(5)/悪銭潔しとせず

  • [Ⅳ224] 日本人とか日本社会とか(4) / 人の遺せる最大遺物とは

    薩長政府のいわば「金銭万能主義」に対する鑑三翁の言論による指弾は痛烈なものであった。しかし鑑三翁は「金銭の大切さ」を否定していたわけではない。むしろ「金銭」の重要性を鑑三翁は十分に認識していた。1891(明治24)年30歳の時に、病の床にありながらいわゆる「教育勅語奉読式の不敬事件」にて職を追われ、その直後に妻かずを喪った鑑三翁はその後困窮していった。その悲嘆と困窮の只中で執筆されたのが『基督信徒の慰め』、『求安録』(共に1893年刊行)である。これら著作は生活費捻出のために出版されたと考えられる。しかしキリスト教系の出版物には売り部数に限界があった。その当時は貸本屋から毎月借金をし、住居も貸本屋の離れを借りていた。『万朝報』で薩長政府に対する痛烈な批判を展開したのはその後のことである。鑑三翁はその後も『...[Ⅳ224]日本人とか日本社会とか(4)/人の遺せる最大遺物とは

  • [Ⅳ223] 日本人とか日本社会とか(3) / 薩長政府は非なり

    鑑三翁は幕末に生まれた高崎藩の武士の子である。これと関係があるのかどうかはともかくとして、鑑三翁はいわゆる”薩長人”を嫌っている。それはなぜか。明治政府の体制が薩摩及び長州の役人たちの専横的/独善的策謀により仕上がりつつあったからである。日本が江戸幕藩体制から明治新政府へと外国勢力の影響を強く意識して体制の変革を遂げていく過程では、価値観の変容と醸成の必要に迫られた。そのための政治的/経済的/社会的/教育的な混乱が必然であったとは言え、薩長政府の人事の独断と恣意性(猟官制)、及び政府が育成した産業経済界の傍若無人、強欲と破廉恥と腐敗と無能ぶりは目に余るものがあり、それが鑑三翁の言論人としての誇りに火をつけたのだろう。鑑三翁は薩長人を嫌ったのではなく薩長政府の要人及びこれに連なる者たちを批判/指弾したのだ。...[Ⅳ223]日本人とか日本社会とか(3)/薩長政府は非なり

  • [Ⅳ222] 日本人とか日本社会とか(2) / “心の寺”をみる者たち

    鑑三翁が1898(明治31)年に創刊した『東京独立雑誌』(注:『聖書之研究』の前身の月刊誌で1900(明治33)年に創刊され72号まで続いた)第15号に鑑三翁の論文「社会の征服」が掲載されている。この論文に触れて石牟礼道子氏は次のように記している(内村鑑三選集6、「内村鑑三を読む」、p.279)。『社会とは何かと問うて、「社会学者てふ冷的人間の定義を離れて常識的に其真相を究むれば、是れ『俗人の集合体なる俗世界』たるに外ならず」といい、「之に社会てふ学的名称を附すればこそ、何となく奥ゆかしく」見えるが、実は「頼むべき、敬すべき者」にあらずして、八頭八尾のやまたの大蛇のごときものであると鑑三はいう。』石牟礼氏は、詮ずるところ社会学者なる者の言う社会などというものは俗物の集まりにすぎない、これに”社会”などとい...[Ⅳ222]日本人とか日本社会とか(2)/“心の寺”をみる者たち

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