chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
koyorin55
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/08/28

arrow_drop_down
  • 末盛千枝子さんのこと再び

    病院を退院した翌々日だったか、千葉県市原の「湖畔美術館」に行った。➡『末盛千枝子と舟越家の人々』その末盛千枝子さんが、先週月曜日・朝刊の半面記事「あの人に迫る」で近況が特集されていた。10年間続けた「3.11絵本プロジェクトいわて」はいちおう区切りをつけたものの、すべての人に絵本を読んで欲しいという思いは、いまだに尽きることのないご様子だった。御年82歳ながらお元気そうでうらやましい。大震災の1年前に岩手八幡平市に引っ越してから、現地の人々との交流を深めている。そのなかのエピソードが印象に残ったので、覚書として記す。陸前高田の友達の話が忘れられません。信号のある交差点を車で運転していたら、信号が青になったのに前の車が止まったまま動かない。後ろで待っている人たちが「もう青になっているよ」と言うと、前の車の人...末盛千枝子さんのこと再び

  • 夢二式美人に「可愛い」の源泉をみる

    以下の文章はいわば能書きにあたるので、タイトルにある「夢二式美人に『可愛い』の源泉をみる」の結論をはやく読まれたい方はどうぞジャンプされたし「侘び、寂び」と同じように、世界にむけて現代の日本人の精神性あるいは心性を表わす言葉とは何か?議論はあろうが、いちばんの候補といえるのは「可愛い」だ、と思ったのはいつの頃だったか。竹内整一が考察した「やさしさ」に関する一連の著作を読んだときか。それとも、経済学者森嶋通夫の『なぜ日本は没落するのか』を読んだ時か。いずれにしても2000年前後で、「失われた時代」に入ってたと自覚したときと重なる。その頃には、村上隆、奈良美智らの作品が、ジャパンアートとして世界のアートシーンで脚光を浴びていたと思う。彼らが表象したいコンセプトには、たぶん通奏低音として「可愛い」があり、西洋美...夢二式美人に「可愛い」の源泉をみる

  • 竹久夢二が求めた美とは何か

    前回記事の続き竹下夢二(1884~1934年)は、画家としてだけではない、様々な才能に秀でたマルチタレントだった。ウィキをちょいと引用する。・・数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。夢二について知っていることは、ほぼ以上のことに限られていた。現代でいえば、画家、イラストレーター、装丁家、グラフィックデザイナー、詩人、作詞家、童話作家...竹久夢二が求めた美とは何か

  • 本郷弥生あたりの散策

    週に1回訪問してくれる看護師さんは、歩くだけでも筋力がつきますから、といって爽やかに笑う。分かってますよとは言わない。ご心配無用、歩きは好きですからなんて、以前だったら自信たっぷりに返事していたかな。今はもう目で笑いながら、そうですね明日にでも行こうかな、と自然に言える爺さんになった。今回は行き先を本郷方面に向けて、なるべく杖を使わずに歩こうと思い立った。そのかわり本郷へは登り坂なのでタクシーに乗り、東大農学部の中にあるレストランを起点にしたコースに決定。一般開放されたレストラン・アブルボアは、何回か来たことがあり、ランチの小鉢風九種類の惣菜は美味であった。アフリカンテイストの民芸調インテリアも、独特の雰囲気をかもしだして好印象。3年ぶりの再訪であるが・・。それから農学部の裏から異人坂をぬけて、工学部(?...本郷弥生あたりの散策

  • 迷惑かけてもいいんだ

    抗がん剤の影響かとおもうが、手と足の筋力がみるみる失くなった。何かに掴まっていないと安定した姿勢が保てない。杖を使えば、辛(かろ)うじて歩ける。だから入院中には、X線検査やコンビニの買い物に行くときなど、介助してもらって車椅子を利用するように提案された。実際に利用して実感したのは、その便利さ、快適さはもちろん、介助していただく方への感謝である。そして、他人の憐み、同情の視線なぞはあまり感じない(ゼロではなかった)、むしろ優しさを含んだ無視であった。退院したばかりの頃は、自分用の車椅子をよく利用して外食なぞに行ったものだ。千葉の美術館に出かけたのも忘れがたい思い出になった(この辺りのことは当ブログに記している)。その他にも、車椅子や障碍者のことを考え、断片的ではあるが二、三のエピソードを備忘録として残してお...迷惑かけてもいいんだ

  • 三味線の音

    ふたたび永井荷風の話から。いまは亡きアヴァンギャルド詩人・俳人加藤郁乎の『俳人荷風』を読んでいて、江戸文化の素養を磨いた青年荷風について、こんな件があった。長唄や琴を能くした母親ゆずりとはいえ堅気の家庭に育った荷風が三味線の独稽古をはじめたのは遅く、中学校を卒業した明治三十年十九歳のころ、中学二、三年のころ琴古流の二代荒木古童門下の可童に弟子入りして尺八を学んだ。尺八の技術を完成するためには一通り三味線の道をも心得て置く必要があろう、というので三味線を手にした。家族に気付かれぬよう忍び駒をかけあたりを気遣う独稽古であった、と小品文「楽器」に明かしている。荷風の顔は面長で、痩せて背も高そうだ。着流しの、いかにも風流人の出立ちならば、浅草を歩くのも似合ったであろう。若いころからの写真をみても、文豪然とした超然...三味線の音

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、koyorin55さんをフォローしませんか?

ハンドル名
koyorin55さん
ブログタイトル
小寄道
フォロー
小寄道

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用