これは私の感想です! 宗教2世の問題で これから創価学会も若い世代で脱会者が増えるでしょう。 私は宗教2世ですが、 親に連れられて会合に行くのはとても面倒でした。 私は運が良いことに 年少の頃から、池田先生の本を読むのが大好きで、 自分が求めて題目を上げる時がありました。 自分に動機があったことがとても幸運でした。 私は家庭訪問が大好きで 中等部時代から会員さん宅に訪問していましたし 今は会社で重要な地位にいますから なかなか会合に出られないのですが、 中等部、高等部、学生部、男子部と 家庭訪問した人数はきっと、 全国でも有数の活動家なのではないでしょうか。 私のような知性派は、地方では出世し…
この世界には さまざまな生命が干渉して ひとりひとりの生命は 様々な姿として 様々な境涯として、 顕れる可能性があり ゆえに人の生命には無限の可能性がある。 人が自らの生命の一面を実相と見た時、 生命の他の面はあらゆる姿を消し去り まるで確率が収束するかのように それは実相となる。 量子力学が示す世界が 生命のふるまいを示したものなら 我が生命は無限に広がり あらゆる可能性を秘め、 どんな障害も乗り越えて 自在だということに他ならない。 すべては己自身が己の生命を いかに観るかで決まる。 大聖人様がすでに示し、 創価の3代が現代に蘇らせた哲理は 何の矛盾もなく、 この宇宙を統べる法則であった。
統一教会の問題があり 宗教2世が話題になっておりました。 創価学会の中にも 学会2世、学会3世という言葉があります。 学会1世(とは言わないのですが) 草創期には自ら発心して入会した人が多く 皆さん信仰の為の「動機」がありました。 しかし2世はどうでしょう。 信仰に熱心は両親は 自分を放置して活動に励み わずかに顔を合わせれば 勤行しなさいとか 池田先生のお役に立てる人材になりなさいとか それで素直に信仰する人がいますか? ということで 学会2世で頑張っている人は どこまでも素直な人か 自ら信仰の意味をつかんだ人 しかいないわけです。 しかし本質は違います。 信仰1世と信仰2世では 生きている…
池田先生が表に出られなくなって 池田先生のカリスマ性がいかに大きかったか 思い知った学会員も多いでしょう。 先生が出てこられなくなるや否や 学会の方針に対しての不満を ぶちまけやすくなったようです。 学会員でありながら 創価学会、公明党にたてつく方は 池田先生に心酔して 「純粋な信心」を貫いてこられた方でしょう。 池田先生が出てこられなくなって それでも残っている部分の求心力は何でしょう。 それが学会の本質なのかもしれません。 創価学会は 外から思われているほど閉鎖的な団体ではなく みんなが平等な立場で自由に討論できる団体です。 しかし凡夫であるがゆえに それを受け止めきれない幹部もいます。 …
学会活動も 最近はコロナウイルスの影響で 最小限にするように工夫されています。 現場では 青年部の部長、地区リーダー 壮婦の支部長、地区部長、地区婦人部長は もっとも活動がたいへんな役職だと思います。 本当に極限まで追い込んで 毎日「戦う」ことを求められます。 コロナ禍において 活動自体はかなり自粛していますから これが平常に戻ったら、 本当にたいへんなことです。 もう戻れないかもしれません。 アフターコロナの 新しい生活様式ならぬ 「新しい活動様式」で 大幅に活動を制限する流れでしょうか。 現在、月間480時間労働を もう10年近く続けている私が言うので間違いありません。 こんな長時間労働よ…
小説人間革命を読んだか読まないかで 人間革命の仕方が違うと 若いときに指導を受けたことがあります。 私の全巻を何度も読み、 新人間革命の連載も切り抜いて 常に活動に持ち歩いていたものです。 小説人間革命を読むと 創価学会のために 人生を賭け、生命を賭けて「戦う」という 大情熱が湧いてきます。 宗門問題が起こった頃のリーダーたちは 宗門と学会の違いについて 常に高い関心を持っており、 愛する創価のために 人生を賭けて「戦って」きました。 何の見返りもなくとも 周りよりも損をして 人一倍苦労しても それを使命としてむしろ 喜んで「戦って」いたのです。 しかし、「人知れず」は いつか寂しさに変わり、…
箱根駅伝での創価大学の活躍は 学会員だけでなく たくさんの人に感動を与えました。 最近の創価大生は 創価学会員であっても 会員である意識が高くない為 創価大学=創価学会という認識は 甚だ迷惑だと感じているでしょう。 創価大生は 創価学会員からは「学会員としての自覚無し」と責められ 一般人からは「創価学会員だというレッテル」を貼られ あまり得をすることはないように感じます。 学会員が創価大学を応援するのは当然です。 名誉会長が仏法を基調として建学の精神のもと 歴代会長の悲願として設立したものですし その創価大学が活躍するのが うれしくないわけはありません。 沿道での応援が可能なら 空前の人出でご…
学会チックな物言いや振る舞いを 「創価脳」と揶揄する人がいます。 周りからはとても違和感があるのは 「創価脳」の持ち主である私でもよくわかります。 「創価脳」の被害者も きっと多いのでしょうね。 特に「確信ある人」が 自分の考えを確信をもって しかも反論を一切ゆるさず または反論に耳を貸さず 一方的に押し付けるので そういう行動に 不快な思いをさせられる人が 世の中にはたくさんいるのです。 私は関西出身ではありませんが 学生時代に 信心バリバリの関西人と たくさん関わりがありました。 私の知っている関西人は 断定型で話す方が多かったので 正直なところ、 いくら確信をもって語られても そうとは限…
何でもないようなことが 幸せだったと思う。 まさに仏法です。 願いは必ず叶う。 これはまさに 「秘妙方便」だと思います。 願いが叶ったように見えて それが堕落のきっかけとなったり 叶わなかったように見えて 実は所願満足であったり 仏だけは知っている。 信心でぶつかっていけば 全てが境涯革命へとつながっていることを。 ただ、そうやって 「こんな願いは叶わないだろうな」 と思っていたことが そんな疑いもすっきり晴れたころに 何たる奇跡か 叶ってしまったということが しばしばあるもので、 功徳は何なのか 本当に不思議です。 だから、 やはり私は 願いは必ず叶うと信じているわけです。 しかし、 叶えた…
創価学会の信仰を 熱心に誠実に行っている人は 人間革命している人が多い。 誰かを妬んだり、恨んだししない。 そして、 よく周りの会員の愚痴を聞いてくれる。 あえてたいへんな仕事を しかも快く引き受け こちらが感謝したい気持ちなのに 逆に「ありがとう」と言われる。 この愚直さ、誠実さが 「THE創価学会員」であったはずです。 そんな「創価な人」は 確実に創価学会員に多い。 だから、それを知っている 外部の人からうまく利用される。 でも利用されても決して恨まない。 相手が学会員でなければ! 創価学会の人間革命運動とは裏腹に 世間は極悪メディアの 情報操作、印象操作に操られ、 消費者心理をうまく利用…
強情な信心と言うけれど、 創価学会強信者の 世間やアンチからのイメージは 独善、強引、自己満足 といったものでしょうか。 信心強情な人っぽい方は どこか厨二病のような 弱者たる自覚があるが故か 強者を叩いて 己の精神の安定を図ろうといているかのような から元気の人たちが多いようです。 強信は立派なのですが、 虚勢を張らなくてもいいと思うのです。 強者を叩いて男気とか ちょっと違和感を覚えます。 真に信心強情で 人間革命が進んだ方は、 逆に穏やかな方が多く、 一方で 人間革命途上にあって、 幹部のお役目をいただいて 修行させてもらっている人は 虚勢が目立つのです。 信心強情なふりがしたいのでしょ…
仏法の指導はいつも玉虫色です。 人の生き方は 方法論ではないので 悩みの相談に対して こんなふうに考えたらどうかと コーチングすることしかできないはずです。 しかし、言葉自体にこだわったり 押し付けたりすると 誤解や失望を生んでしまいます。 「願いは絶対に叶う」 確信ある指導をされれば 頑張ろうと思うはずです。 実際に願いはほとんど叶うでしょう。 しかし、中には叶わない願いもあります。 祈っているときに 願いが変わる場合もあります。 そのことを あらかじめあれこれ想定して指導しても 分かりにくい指導となり 力ある指導にはなりません。 願いは必ず叶うと言われてこそ 元気が湧いてくるものです。 し…
創価学会を永遠たらしめるために 唯一しなければならないことがあるとすれば それは、 子どもたちの話を聞いてあげる この一点だと思います。 活動は素晴らしいのですが、 創価の子は 熱心な家庭ほどほったらかしにされ、 学力が低く、人材が育っていません。 くだらない打ち合わせとか、根回しとか、 立派な幹部さんたちは そういうくだらないことで時間を取られ、 それでいて 「お母さんは他人のために尽くしているのよ」 (だからあなたも人の役に立てるように立派になりなさい) なんて、 子どもたちに通じるはずがありません。 会合が行われている後ろでは 子どもたちが走り回ったり、ゲームをしたり、 それでいて 「子…
世間では引き寄せの法則とかいいますが、 人の考え方ひとつで世界を動かし、 満足の人生を歩むことができることは 創価学会でなくても 気が付き始めているところです。 しかし、現実社会の中では 日々の苦難に心を動かされ なかなか良い心の状態を維持できません。 どんなときでも 自分の気持ちをコントロールし 生きるエネルギーを引き出すのは 至難の業です。 社会でそこそこ活躍している私は やはり社会で活躍している 「充実した人」と話す機会が多いのですが、 人にエネルギーを与える人にも エネルギー源が必要なんだと思います。 私にとっては 創価の題目がエネルギー源です。 しかも、これ以上のものはないと思います…
創価学会伝統の教学運動は 普通の生活では触れることが出来ない仏法の智慧を 「無学」でも学んでいける点が 画期的だと思います。 部分観に過ぎないとはいえ 創価の十界論は、 どこか別の世界にあるような仏教哲学を 生活の中に生き生きと蘇らせ 生活の知恵として 日々の内省の手掛かりとして とても素晴らしいアイデアだと思います。 「論語読みの論語知らず」ならぬ 「御書読みの御書知らず」 人間革命をしない幹部の御書講義は、 人を斬るための指導 「ダメ出しの教学」です。 一方、 人の話を普段からよく聞いてくれる「対話名人」の指導は、 御書の言葉を使わなくても、 確かに御書の精神が宿ったアドバイスとなり、 そ…
こんなことを言うと 御書部分論とか言われそうですが、 そもそも日蓮大聖人の時代に その後の世界にあるものが すべて存在したわけでないので 例えば御本尊を写真に撮って印刷するとか そういうことが謗法かどうかなんて 御書には書いていないわけです。 しかし、それが謗法でないとも言えないわけです。 「秘すべし秘すべし」ですから、 法主にだけ伝わる秘密の相伝があっても 決しておかしくはないのです。 「相伝とは」云々とか 御真筆が存在しないものは信用できませんし、 秘密の相伝があったうえで、 信徒には相伝とは信心だと指導されることも 同時にあり得るわけです。 在家と出家ではその使命が違うのですから。 私は…
創価学会の活動とは 徹底した個人指導だったはずです。 しかし、 なんだか活動が忙しくて 題目も上がらず、 家庭訪問もできず、 それで何の活動でしょうか。 題目も上がらない人たちが 偉そうに指導しても アンチが増えるだけですよね。 真のバリ活は 家庭訪問を熱心にしたり 会合前後でも しっかりと対話をしてくれたり そして、 受容的な態度で仏法対話をしたり、 熱心に祈り、 対話に励んでいる人が 人の気持ちを踏みにじるようなことはしないものです。 ただ、 そもそも題目とは何なのか。 仏法の真理を理解できない凡夫が 仏道に至るための 「誰にでもできる修業」であるはずです。 つまり、学会活動も、 知性が必…
小さいころから、 親に勤行せよと言われ続けて 座談会に無理やり出席させられては へんてこな指揮を取らされて 学会をいやにならない理由など 私には考えられません。 大学受験のために 勉強にいそしんでいる高3のある日、 高校の先輩がやってきました。 その先輩は、 信心が楽しいというのです。 バリ活の気持ち悪いお兄さんでした。 しかし、私は思うのです。 ちょっとおもしろそうだな。 そして、親の目を盗み、 唱えてみたいと思って唱えた題目の 爽快なことと言ったら! 信仰は自ら求めて行うと 気持ちが良いもののようです。 それから題目の唱え方を研究しました。 いろいろな人の題目の唱え方をまねしました。 気持…
私は、地方から創価大学に進学した団塊ジュニア世代です。池田先生とは何度もお会いして、青年教学1級で弘教もいくつか実らせてている、学会2世の元バリ活です。 池田先生が姿をお見せにならなくなり、これからはネットでのコミュニケーションが主流となりそうな変化のなかでも、ネットでは学会に対する批判が優勢です。どの批判も、創価の価値の本質が理解できていないように感じます。宗門問題やSGIメンバーの活躍から見えてきたのは、外部から非難されるような活動の在り方が、創価の本質をゆがめているということです。もっと普遍的な価値を見つめれば、創価学会は素晴らしい信仰だと思います。 私はこのブログで「己義」を構えます。…
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