chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
みつばさ
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2020/07/12

arrow_drop_down
  • 神に倣う者

    ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ5:1) 「神に倣う者となれ」と、パウロは書いた。 わたしたちは、倣うべき神をどのような方と捉えているだろうか。 わたしたちの信仰のあり方は、その現れといえる。 また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。(2) 神は愛であり、ご自身を惜しみなく与えるお方だ。 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(25) わたしたちは、キリストをどのような方と捉えているだろうか。…

  • 召しにふさわしく歩みなさい

    さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4:1) 3章までキリストの救いの奥義、神の永遠のご計画について語られたあと、4章から日常的な歩みにおける指針が語られる。 聖書の順序はいつもそうで、このエペソ書も例外ではない。 素晴らしい救いが成し遂げられた、祝福はすでにあふれるほどに注がれている、だから元気を出しなさい、それにふさわしく聖く歩みなさい、ということだ。 召しにふさわしく歩むその力は、「召し」の素晴らしさを知るほど強くなる。 したがって大切なことは、信仰によってまず聞き、受けることであって、決して人間の行いや人間発の努力…

  • 永遠のご計画

    これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。(エペソ3:10-11) 1節でパウロは、自らを「キリスト・イエスの囚人」と呼んだ。 こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。(1) この手紙はローマの獄中で書かれたので、文字どおり彼は囚人であったのだが、「キリストによって捉えられた者」という意味も同時に込めているのだろう。 監禁された日々の中で、パウロの霊的洞察はより深くなり、ますます教会のために祈る者となった。 3章を読…

  • 神の家族なのです

    こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、生徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:19) 2章には、「あなたがたは、○○です(でした)」という表現がたくさん出てくる。 まとめてみよう。 【かつては・・・】 自分の背きと罪の中に死んでいた者(1) 生まれながら御怒りを受けるべき子(3) 異邦人(11) 無割礼の者(11) 約束の契約については他国人(12) 望みもなく、神もない者たち(12) 寄留者(19) 【今では・・・】 神の作品(10) 聖徒たちと同じ国の民(19) 神の家族(19) 神の御住まい(22) キリスト者として、いま、どちらの自己認識に立っ…

  • 天上にあるすべての霊的祝福

    私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天井にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3) 今回から、『エペソ人への手紙』に入る。 いつものように、最初から最後まで"ザッと読み"してみた。 数節ごとに区切って読む“精読”も良いが、通して読む“ザッと読み”も良い。 執筆事情や、もっとも伝えたい要点が見えてきやすいのだ。 エペソ書は、手紙というよりも論文的な色彩が強い。 パウロが伝えている「みこころの奥義」(9)について、網羅的にまとめている。 そんな中、手紙らしい、当時の事情を伺わせる箇所もわずかだがある。 たとえば…

  • 大事なのは新しい創造です

    しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:14-15) パウロの手紙には、「誇り」に関する警告が頻繁に出てくる。 それほど「誇り」は罪の本質につながるものであり、わたしたちにまとわりついて離れない厄介な性質ということだろう。 だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけ…

  • 御霊によって歩みなさい

    私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16) 律法によって義と認められようとする生き方は、不真面目ではないかもしれない。 しかしパウロは、こう断言した。 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4) さらに、次のように書いた。 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6) 兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(13…

  • あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか

    それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ4:15) パウロは、かつてガラテヤの人たちに、熱烈な愛をもって受け入れられたという。 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。(14) しかし、いま、こう言わなければいけなくなった。 あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。(15) ガラテヤの人たちは…

  • 信仰によって生きる人々

    ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。(9) 3章でもパウロは、「信仰による義」について論を進めていく。 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(2) 律法の中心は「行い」であり、信仰の中心は「聞く」ことだ。 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ10:17) 信仰生活で喜びを失い、疲れをおぼえる、そんなときはたいてい「行い」中心になっている。 幼子のように小さくなって、「聞く」ことに徹し…

  • 神に生きるために

    しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。(ガラテヤ2:19) 1章に続いてパウロは、自分が「使徒」として召された者であることを強調する。 エルサレムに上った際、教会の「おもだった人たち」(6)「柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネ」(9)からも認められたのだ、と。 そして、おもだった人たちからは――彼らがどれほどの者であっても、私にとって問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません――そのおもだった人たちは、私に対して何もつけ加えはしませんでした。(6) このあたりの言い回しは、いかにもパウロらしい。 「神は人を分け…

  • ほかの福音

    私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。(ガラテヤ1:6-7) 今回から、『ガラテヤ人への手紙』に入る。 新約聖書にはパウロの書簡が全部で13通おさめられているが、『ガラテヤ人への手紙』はその中で最も早い段階で書かれたそうだ。 パウロは、何度か大きな伝道旅行をした。 そして各地に、キリストのからだなる教会を起こしていった。 各教会は、いわば出来立てほや…

  • 信仰に生きているかどうか

    あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。(2コリント13:5) 手紙の終わりに、パウロはこれまでにも増して厳しい口調で、次のように言った。 以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2) 前にパウロは、コリントの教会に宛てて厳しい手紙を書いた。 教会はそれによって悔い改めたが…

  • 自分の弱さを誇りましょう

    しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(2コリント12:9) 『コリント人への第二の手紙』を読むと、パウロがさまざまな批判を受けていたことがわかる。 それに対しパウロは、自分がキリストのしもべとしていかに真実に歩んでいるか、いかに多くの苦難に耐えてきたか、いかに偽りのない愛で教会を愛しているかを、言葉を尽くして述べている。 特に、「神の御前で」という表現がくり返し出てくる。 あなたがたは、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしている…

  • キリストに対する真心と純潔

    私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。(2コリント11:2-3) 10章でパウロは、自分の限度をわきまえず、使徒であるかのように振舞う人たちを批判した。 11章では、よりはっきりと、強い口調で警告する。 実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異な…

  • 主に推薦される人こそ本物

    自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(2コリント10:18) この「本物です」の箇所は、以前の新改訳では「受け入れられる人です」となっていた。 他の訳では、 新共同訳/適格者として受け入れられるのです 口語訳/確かな人なのである などと訳されている。 パウロはここで、自らの使徒としての役割について述べている。 彼を「肉に従って歩んでいる」と批判する人たちがいたし(2)、「自分自身を推薦している人たち」もいた(12)。 次章でパウロは、彼らのことを「サタンのしもべども」と痛烈に批判するのだが、パウロが教会の健全な成長のためにいかに苦心しているかが伝わってくる。 パウロは、…

  • 喜んで与える人

    私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(2コリント9:6-7) 8章に引き続き、「献金」についてパウロが述べている。 「私が伝えたいことは、こうです」と、真意をずばり告げたのが上の言葉だ。 ある農夫は、収穫期になってもたいして収穫できなかった。 わずかしか蒔かなかったからだ。 別の農夫は、収穫期に豊かに収穫した。 豊かに蒔いたからだ。 当然といえば、当然のことだ。 ただ、ここでは単に“収穫の多寡”を問題にし…

  • 惜しみなく施す富

    彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。(2コリント8:2) 8章は、「献金」についてパウロが述べている箇所だ。 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。(10) ここで、くり返し出てくる言葉がある。 「熱意」「熱心」という言葉だ。 その「熱意」や「熱心」は、キリストとキリストのからだなる教会への「愛」の現れにほかならない。 私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。(4) パウロは、マケドニアの諸教会の…

  • みこころに添った悲しみ

    神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10) 7章でパウロは、コリントの人たちを二度も称賛した。 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4) 私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。(16) 4節は以前の訳では、「私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって」となっている。 あなたたちを信頼できることは、私の誇りであり、喜びだ、というわけだ。 問題の多いコリントの教会を、なぜ信頼できたのか? パウロは、こう言っている。 …

  • 神の恵みを無駄に受けないように

    私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。(2コリント6:1) 尊い宝があふれるほど注がれているのに、まるでザルで受けるように無駄にしてはいないか。 パウロは、コリントの教会にそう問うた。 3〜10節では、独特の表現で、自分が「神のしもべ」としていかに真実を尽くしているかを述べている。 むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。・・・また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られて…

  • 地上の住まいである幕屋が壊れても

    たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(2コリント5:1) 昔、信仰の師と仰いだ方が末期がんのご婦人に福音を語る場に、同席したことがある。 「死ぬことは大したことではないよ。一階から二階に上がるようなもんだよ。天国に行ったら、前にちょっと辛いことがあったかなと思うくらいだよ」 婦人は病で腫れあがった瞳から大粒の涙を流して、うなずきながら聞いておられた。 “自分史”というものを作るとすれば、いまの人生は「地上の幕屋時代」とでもいうようなものだろう。 それがすべてではない。 それどころか、「永…

  • 測り知れない力

    私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(2コリント4:7) この4章にタイトルをつけるとすれば、「落胆しない理由」とでもなろうか。 パウロは、二度、同じことを述べた。 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(1) ですから、私たちは落胆しません。(16) キリスト者は、落胆する必要がない。 なぜか? たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(16) パウロは、わたしたち自身を「土の器」にたとえた。 土は、金…

  • 新しい契約に仕える

    神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。(2コリント3:6) 3章のはじめで、パウロはこう言った。 私たちは、またもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。(1) パウロの使徒としての働きについて、「自薦しているだけだ」という批判があったことが伺える。 この『コリント人への第二の手紙』には、「推薦」とか「神の御前で」という言葉が何度も出てくる。 それほどにパウロは、自らが神によって立てられたことを伝えようとしているのだ。 そこからパウロは、神からの「資格」に話を展開する。 私たちはキリ…

  • 芳しいキリストの香り

    しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。(2コリント2:14-15) 「芳(かぐわ)しい」とはこう書くのかと、いま学んだ。 聖書は、漢字の勉強にもなる。 芳香剤とは、まさに芳しい香りを出すということか。 香りは人を元気づけ、また心和ませる。 パウロは、キリスト者は「芳しいキリストの香り」を放つ存在だと言った。 しかしこれは、芳香剤をふりかけるように、一朝一夕にはいかない。 多くの信仰の経…

  • 肉的な知恵によらず

    私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(2コリント1:12) きょうから『コリント人への第二の手紙』に入る。 著者は第一の手紙と同じく、パウロだ。 ところで、『ローマ人への手紙』、『コリント人への第一の手紙』と読んできて、あらためて気づかされていることがある。 それは、これらは「論文」ではなく「手紙」であるということだ。 何を当たり前のことをと思われるかもしれないが、わたしにとっては新鮮な気づきだ。 「論文」であれば、義認論、律法…

  • 雄々しく、強くありなさい

    目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。(1コリント16:13) 手紙を終えるにあたり、パウロは思いを込めてこう書いた。 「雄々しく」という言葉は、以前の新改訳聖書では「男らしく」となっていた。 他の日本語訳をみても、どちらも使われている。 ちなみに英語では、「be courageous」や「be brave」などとなっている。 パウロは11章で、男と女のあり方について創造のみわざを根拠に論じた。 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。(1コリント11:7) 男は「神の栄光の現れ」として、…

  • 目を覚まして正しい生活を送り

    目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。(1コリント15:34) 13章が「愛の章」であるなら、15章は「復活の章」といえる。 パウロの復活論として、とても重要な箇所だ。 パウロがここで復活について詳細に語った目的は、二つある。 一つは、あらためて福音の要点を、特に復活に関する啓示を伝えること。 もう一つは、それによってコリントの人たちが罪から離れ、「正しい生活」に立ち返ることだ。 コリントの教会には、驚いたことに、主の復活を信じない人たちがいた。 ところで、キリストは死者の中からよみがえられ…

  • 神は混乱の神ではなく

    神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。(1コリント14:33) 14章は、「異言」について多くの言葉を割いている点で特徴的だ。 「異言」は、「かぶり物」以上に現代の教会でも議論のあるところだ。 私の手元にある聖書には、次のような解説がある。 <異言―多くの人は、ここにおける異言は、恍惚状態で語られる訳の分からないことばと理解しているが、おそらく使二468のように、何らかの外国語であったと思われる。> わたしも、このとおりだと考える。 パウロは、「預言」と「異言」を対比させながら語っている。 それぞれに属する用語(内容)を、まとめてみよう。 預言/教会、知性、大人、信じている者たちのため、悔い…

  • 愛は自慢せず

    愛は自慢せず、高慢になりません。(1コリント13:4) パウロは、12章で「御霊の賜物」について述べてから、最後にこう書いた。 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。(1コリント12:31) その「はるかにまさる道」とは、ひとことで言えば「愛」だ。 13章は「愛の章」として、よく知られる。 何度読んでも、あまりに崇高で、自分とかけ離れていて、ため息が洩れる。 特に今回は、冒頭の4節が刺さった。 愛は自慢せず・・・ 別に、「謙遜は自慢せず」でも良さそうなものだ。 しかし、それではたんにその人だけで完結するものになってしまう。 「愛は自慢せず」と…

  • キリストのからだ

    あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(1コリント12:27) “One for All,All for One.”(一人はみんなのために、みんなは一人のために) この言葉は、ラグビーのフレーズとして有名だ。 昨年、日本で開かれたラグビーワールドカップは大いに盛り上がり、わたしも夢中で見た。 あらためて思ったのは、ラグビーには一人ひとりの役割があり、それが調和したときに大きな力を発揮するということだ。 身体の大きな重量級、足の速い人、司令塔、キッカーなど、いろんな特長の選手が必要だ。 重い選手が速い選手を要らないとは言えないし、キッカーが重量級を邪魔とは言えない。 キ…

  • 頭に権威のしるしをかぶる

    それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。(1コリント11:10) 11章からパウロは、教会の営みにおける"各論"に入っていく。 前半では女性の「かぶり物」について、後半では「主の晩餐」の食事についてふれている。 ここでは、「かぶり物」について見てみたい。 「かぶり物」は、現代のキリスト教会でも、使用するところもあれば、しないところもあり、議論が分かれる。 パウロは、冒頭のように「かぶるべき」としながらも、同時に、命令することは避けている。 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。(13) 「偶像に献げられた肉」の…

  • 神の栄光を現す

    こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31) 今回、『コリント人への第一の手紙』を読みながら、パウロの主張が一貫していることに、あらためて気づかされている。 ことに、8章から10章にかけては、 隣人につまずきを与えない そのために、自由や権利をあえて用いず、愛に基づいて行動する ことが、くり返し語られている。 冒頭の句は、この手紙の主題ともされる言葉だ。 わたしはこれまで、このみことばを“なんとなく”読んでいた。 「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すために」を、正直に告白するとただ“品良く振る舞…

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、みつばささんをフォローしませんか?

ハンドル名
みつばささん
ブログタイトル
みつばさのかげ
フォロー
みつばさのかげ

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用