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2020/07/12

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  • 何の妨げにもならないように

    ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。(1コリント9:12) コリントの教会には、パウロを「さばく人たち」がいた。 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。(3) 「パウロは自由だと言いながら、肉を食べないじゃないか」 私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。(4) 「パウロは妻を持とうとしないが、結婚しないほうがいいということか」 私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケ…

  • つまずきとならないように

    ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。(1コリント8:9) パウロは、「次に、偶像に献げた肉についてですが、」(1)と書き始めた。 「結婚」に関する質問と同様に、この件についてもコリントの人たちからの手紙に書いてあったのだろう。 「偶像など存在しないものだし、キリスト者は自由なのだから、食べたって何の問題もない」と言う人たちと、「いや、やはり良くないのではないか」と言う人たちがいた。 この問題は、ローマ人への手紙にも出てくる。 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人…

  • 妻のいる人は妻のいない人のように

    兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。(1コリント7:29) コリントの人たちは、パウロに事前に手紙を書き、「結婚」に関する諸問題について質問していた。 それに対する回答が、7章だ。 結婚したほうがいいのか、しないほうがいいのか。 離婚はしてもよいものか。 夫か妻の片側だけが信者である場合は、どうすればいいか。 これらひとつひとつに答えながらも、パウロは結論的にこう書いた。 ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じていま…

  • 神から受けた聖霊の宮

    あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。(1コリント6:20) とある王家の秘宝展に出掛けた。 絵画や衣服、きらびやかな食器などがまばゆいばかりだった。 あのコーヒーカップは、いったいいくらするのだろうか。 数百から数千万円は下らないだろう。 仮にあのカップを所有したら、ことのほか大切に使うに違いない。 いつもピカピカに磨き、最高級のコーヒーを注ぎ、最新の注意を払って取り扱うだろう。 間違っても、野良猫のエサやりに使ったりはしない。 さて、わたしは、このからだをどう扱っているのか…

  • 取り除きなさい

    新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種無しパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。(1コリント5:7) 4章までパウロは、おもに「分派」の問題に焦点をあてて書いてきた。 5章では、「不品行」について書き始める。 注意したいのは、パウロはここで「不品行」を責めているのではなく、「不品行な者を除かない」ことを責めているということだ。 不品行が責められるのは当然だ。 私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。(3) 問題は、そのような者を受け…

  • 私に倣う者となってください

    ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。(1コリント4:16) パウロはここまでコリントの人たちに対し、分裂の根本原因が彼らの「高ぶり」にあると指摘してきた。 兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して思い上がることのないようにするためです。(6) そしてひとつの結論として、「私に倣う者となってください」(16)と書いた。 パウロに倣うとは、どういうことだろうか? 「キリスト・イエスにある私の生き方」(17)と…

  • 人間を誇ってはいけません

    ですから、だれも人間を誇ってはいけません。(1コリント3:21) パウロは、コリントの人たちに対し、あなたがたは「御霊に属する人」ではなく「肉に属する人」になっていると、厳しい口調で書いた。 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。(3-4) アポロについては、『使徒の働き』につぎのようにある。 さて、アレクサンドリア生まれでアポロという名の、雄弁なユダ…

  • 隠された神の知恵を語る

    私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。(1コリント2:7) 1章に引き続き、パウロは、自らの宣教が人間的な知恵によるのではないことを強調する。 兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。(1) なぜ、そうしたか? それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。(5) 「人間の知恵」に支えられたものは簡単に崩れるが、「神の力」に支えられるなら崩れることはない。 そして、6節…

  • 宣教のことばの愚かさを通して

    神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(1コリント1:21) はじめて新約聖書を読んだとき、(聖書とはなんと変わった書物だろう)と感じた。 福音書のような「伝記」もあれば、使徒行伝のような「ルポルタージュ」もあり、さらには「手紙」が多く納められている。 「人の手紙をありがたがって読んでいるのか!?」という程度にしか思わなかったのだ。 そして、「福音書はキリストの"いい言葉"がたくさんあってわかりやすいが、手紙は何のことやらさっぱりわからん」というのが正直な感想だった。 それから三十…

  • 善にはさとく、悪にはうとく

    あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。(ローマ16:19) 欧米人は著書のあとがきに、サポートしてくれた人たちの名前を記す。 それはもしかすると、パウロの手紙が影響しているのかもしれない。 『ローマ人への手紙』を書き終えるにあたり、パウロは兄弟姉妹たちの名をあげて挨拶をした。 16章だけで、実に35人の名前が出てくる。 ローマにいる人が27人、パウロといっしょにいる人が8人だ。 いかに彼が、一人ひとりを思っていたかが伝わってくる。 ひと通り名前をあげたあとで、パウロは注意喚起…

  • 互いに受け入れ合いなさい

    ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7) 15章でパウロは、手紙の"締め"に入っていく。 そこで、もう一度言いたかったことを確認する。 信仰の強い人、弱い人、ユダヤ人、異邦人、そのような違いを認めつつ、「互いに受け入れ合いなさい」と。 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。(1-2) 「自分を喜ばせる」ために生きるのか、「隣人を喜ばせる」ために生きるのか。 両者は…

  • 信仰から出ていないことは、みな罪

    しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14:23) 子どもの頃、同級生たちには、先生から怒られるようなことを悪びれもせず楽しそうに行う者たちがいた。 わたしは横目で見ながら、「そんなことしたら怒られるんじゃないか」と、ドキドキしているような子だった。 怒られてもケロッとして、実際、先生からも可愛がられていた彼らが、内心うらやましくもあった。 このように人の良心は、子どものときからすでに“人それぞれ”だ。 パウロは、14章をこう書き始める。 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはい…

  • 昼らしい、品位のある生き方を

    夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(ローマ13:12-13) ゴルフ場の宣伝に、こんなコピーがあるとしよう。 「当ゴルフ場のコースは、美しい芝が印象的で、終始最高の気分でまわっていただくことができます」 ところが行ってみると、穴ぼこだらけだったしたら・・・。 客はがっかりして、だまされたと思うだろう。 この場合、管理者は宣伝の前にすべきことがある。 穴ぼこをきれいに埋めることだ。 パウロは、キリスト者たちに向かって…

  • 聖なる生きたささげ物として

    ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1) 11章までパウロは、「救いとは何か」という救いの奥義について語ってきた。 12章からは、救われた者としての具体的な歩みについて語っていく。 その最初にあるのが、上の聖句だ。 この言葉から、つぎのことがわかる。 すなわち、キリスト者にとっては日々の歩みそのものが礼拝である。 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何…

  • 自分を知恵のある者と考えないように

    兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。(ローマ11:25-26) 優れた教師は、質問を効果的に使う。 それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。(1) それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。(11) いずれもパウロは、「決してそんなことはありません」と付け加えている。 そして、イスラエルは退けられたわけでも、倒れて終わるわけでもなく、「みな救われる」との結論に導く。 優れ…

  • みことばは、あなたの近くに

    では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:8-9) 10章は、一読してわかるように、聖書(旧約聖書)からの引用が多い。 実に12回もみことばを引用しており、引用元もレビ記、申命記、イザヤ書、ヨエル書、詩篇と幅広い。 パウロが、キリストの福音を聖書全体から解き明かそうとしていることが、見てとれる。 ここでの主題は、つぎのみことばにある。 律…

  • 人の願いや努力によるのではなく

    ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:16) 『ローマ人への手紙』も、ちょうど半分まできた。 ここで、ひとつクイズをやってみよう。 即答できた人は、そうとうな“マニア”だ。 Q;「テルティオ」(またはテルテオ)という人物は、何をした人か? 「だれ、それ?」という人がほとんどかもしれない。 かく言うわたしも、さきほど知ったばかりだ。 A;正解は、「『ローマ人への手紙』を筆記した人」だ。 この手紙を筆記した私テルティオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。(ローマ16:22) おそらくパウロは、一言ずつ、思慮深く、静かに語ったこと…

  • 圧倒的な勝利者

    しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ8:37) 前章の終わりに、「私は本当にみじめな人間です」(7:24)と悲痛な叫びをあげたその人が、本章では「私たちは圧倒的な勝利者です」と歓喜の歌を歌っている。 ここにこそ、福音の奥義があるにちがいない。 鍵になる言葉は「御霊」だ。 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(4) 「肉」という概念が、登場してくる。 「生まれながらの自我」とでもいおうか。 リビングバイブルでは、「古い罪の性質」となっている。 肉に従う者は肉に属することを考えます…

  • 自分のしていることが分かりません

    私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(ローマ7:15-17) 今回、この箇所を読みながら、30年前の記憶がよみがえった。 まだわたしが、イエス・キリストを受け入れていなかった頃の話だ。 当時わたしは、聖書に惹かれ、とある教会に少しずつ足を運んでいた。 その日、平日夜の祈り会があり、わたしは参加した。(なんと真面目な!) 全部で5~…

  • 新しいいのちに歩む

    私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ6:4) 6章は、前半(1~14節)と後半(15~23節)に分けることができる。 とはいえ、問いかけは同じだ。 恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(1) 私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15) 恵みにあずかったのだから罪を犯しても大丈夫だ、罪を犯すのは仕方ないんだ、と論じる者たちがいた。 それに対しパウロは、こ…

  • 私たちは神を喜んでいます

    それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(ローマ5:11) この5章から、パウロはアクセルを踏んで加速するかのように、どんどん福音の奥義へと入っていく。 神との平和、神の愛、神の恵み、永遠のいのちといった本書の主題を、つぎつぎに提示している。 9~11節には、興味深い“三段階”が示されている。 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。(9) 第一は、「神の怒りからの救い」だ。 敵であった私たちが、御子の死によっ…

  • アブラハムの信仰に倣う人々

    そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ4:16) パウロは、3章で次のように述べた。 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。(ローマ3:28) そして4章では、その例証としてアブラハムを取り上げる。 「私たちの父はアブラハム」(ヨハネ8:39)と公言するユダヤ人たちを説得するのに、これ以上の人物はいない。 「あなたがたが父と尊ぶアブラハ…

  • 信じるすべての人に与えられる神の義

    しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。(ローマ3:21-22) 「自己肯定感」という言葉を、昨今よく目にする。 自分は自分でいいのだ、自分という存在はそれだけで価値があるのだ、という安心感のようなものだろうか。 植物が良い土壌にあってこそ良く育つように、たしかに「自己肯定感」は人が生きる上での大切な土台といえるだろう。 ただし、その「自己肯定感」が十分に満たされている人というのは、どれくらいいるのだろうか。 これだけあちこちで語…

  • 神にはえこひいきがない

    悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(ローマ2:9-11) 2章の冒頭から、突然パウロは刀を抜き、読者に向けて突きつける。 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。(1) ここからパウロは、すべてを見通される神が、すべての人を、何のえこひいきもなく、公平にさばくのだと主張する。 そこには、ユダヤ人たちの、ユ…

  • 負い目のある者

    私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のある者です。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ1:14-15) 『四福音書』と『使徒の働き』を終えて、次にどこに進むか、少々迷った。 順番でいえば、『ローマ人への手紙』である。 しかし、その名を聞いただけで何か巨大な絶壁が眼前に現れるような、そんな気がして気持ちが萎えそうになる。 もちろん聖書を読む上で軽いも重いもなく、どの書も心して祈りつつ読むべきである。 ただ、中でも『ローマ人への手紙』は、襟を正されるような、正座したくなるような、ある種の緊張感を伴うのだ。 ちょうど…

  • 朝から晩まで

    そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。(使徒28:23) 四週間にわたって読んできた『使徒の働き』も、きょうで最終章となる。 ここまで使徒たちといっしょに、あちこち巡った気分になっている。 『使徒の働き』を、これほど面白いと思いながら読んだのは初めてだ。 聖書は、いつも新しい。 大変な苦労を乗り越えて、パウロはやっとローマに辿り着いた。 さっそく彼は、ユダヤ人たちに対し、主イエスを証しした。 「朝から晩まで」語ったとある。 どんな順番で、どんな話をし…

  • 元気を出しなさい

    「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」(使徒27:25) この章も、『使徒の働き』の中でもきわだって印象的な章だ。 イタリアに向かって出航した267人を乗せた船が、大嵐に遭い、二週間もの間漂流したのだ。 地中海の危険性をよく知るパウロは当初、警告した。 しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。(11) 無理もない。 パウロは囚われの身の「天幕職人兼伝道者」にすぎない。 船長たちのほうが、プロなのだ。 さて、穏やかな南風が吹いて来たので、人々は思いどおりになったと考え、錨を上げて、クレタの海岸に沿っ…

  • 真実で理にかなったことば

    パウロは言った。「フェストゥス閣下、私は頭がおかしくはありません。私は、真実で理にかなったことばを話しています。」(使徒26:25) アグリッパ王とその妹ベルニケ、総督フェストゥス、千人隊長、町の有力者たちが謁見室に集まった。(使徒25:23) そこに呼び出されたパウロが、彼らに弁明するのが26章だ。 パウロはこのときも、自分がかつてイエスの名に強硬に反対して信者たちを迫害したこと、そのさなかでイエスと出合い、この道の伝道者となったことを証しした。 ただ、これまでと異なるのは、イエスと出合ったときの様子について、より詳細に語っていることだ。 「・・・主はこう言われました。『・・・わたしは、あな…

  • そのイエスが生きていると

    「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(使徒25:19) カイサリアに拘留されたパウロは、実に二年間も放置された。(使徒24:27) 新しく州総督として着任したフェストゥスは、パウロの裁判を再開する。 上の言葉は、彼がアグリッパ王にパウロの件を持ち出したときのものだ。 ところで、いまこうして『使徒の働き』を呼んでいるわけだが、あらためて面白いと思うと同時に、特殊な書という思いを強くする。 時系列的に出来事を並べながら、本章のように一見省いてもよさそうないきさつまで事細かに書いて…

  • 責められることのない良心

    「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」(使徒24:16) 法廷で、パウロは上のように述べた。 「神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ」とはさすがパウロと感心するが、よく読むと彼は「保っている」ではなく、「保つよう最善を尽くしている」と言っている。 完璧にできているのではないが、そうあるよう努めているということだ。 このときパウロはまさに「さばき」の座にあったわけだが、聖書においても「良心」という言葉はしばしば「さばき」と関連して使われる。 たとえばパウロはローマ人への手紙の中で、律法を持つユダヤ人も律法を持たな…

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