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2020/01/29

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  • 心学校 十三の五

    また反対に呼ぶ側においては、好きな人の名前を呼ぶ時の心には、疑心や不信があるわけがありません。気持ちは定まっているわけです。誠心誠意、真心をもってその方の名前を呼びます。胸がワクワクする、動悸が起こるほど嬉しい気持ちがこみ上げてきませんか?いやそれだけではない、呼ぶことは恥ずかしくて出来なくても、その相手の名前を思うことだけでも、自分の心が充実したり豊かになったり、安らぎをおぼえるのではないでしょうか。心学校十三の五

  • 心学校 十三の四

    私の三人の子には、それぞれに様々な思い出があります。皆さんもそうでしょう。しかしすべての子に共通した、同じものがあります。それは私も母親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんな自分の名前(ママというような)を呼ばせようと一生懸命になったことです。このことはどの子にも同じで、一番上の子だけで終わったわけではなく、次も、その次も同じことを繰り返していました。そしてパパとかママとか言おうものなら喜色満面、小さな幸せを感じたものです。何故でしょう?おそらく自分の名前を呼ばれるということは、自分が相手に認識されたという証だからと考えるからではないでしょうか。名を呼ばれたそのときから、通じ合うものがしっかりと実感されてくる。心学校十三の四

  • 心学校 十三の三

    西田先生の「絶対矛盾的自己同一」が相対の自分が絶対の阿弥陀如来の働きに矛盾的に同位置されるということなのです。それは「さとり」を得ることができなくて生死の相対世界にもがいている者が、必ず救い取られるさとりの境地に生まれ変わらせられるのです。それも私が行うことは如来の名を呼ぶという、念仏申すといだけで如来の側で完成させるのです。私が阿弥陀如来と同じ存在になるということになります。それを教えるためにお釈迦さまはこの世に現れてくださったのです。心学校十三の三

  • 心学校 十三の二

    ところが永遠を普遍が存在する状況という価値の世界と見れば、永遠とは身近なものとなってくるのではないでしょうか。永遠に私が生きるというのではなくて、「私が生きている」という事実は永遠に存在するのだという受け止め方です。親鸞聖人は九十歳のご生涯を生きられた、というのは永遠に真理として有るわけですね。生きる死ぬという人生の中に考えを置くと、永遠の存在が遠く対比されてしまうのですが、先のような価値観によると永遠に包み込まれている自分という存在が、もう一つ考えられてきませんでしょうか。生死という相対そのままが、永遠という絶対と共にある、しかもそれは離れてあるのではなく、相対的に存在しているそのままが絶対の世界として存在しているということなのです。心学校十三の二

  • 心学校 十三の一

    私の母は大正九年生まれ、母方の祖母は明治二十三年生まれでした。母の生まれた寺は島根県と広島県の県境に近く、三益愛子さんが「荷車のうた」という貧しいながらも心豊かに生きる女性の映画に主演した、そのロケ地のあたりです(といっても、ある年代からはチンプンカンプンの話でしょうが)。祖母の里まで五里(約二十キロ)、その道を母たち親子で歩いて泊まりにいったのです。幼い頃のことだそうで、歩いても歩いても目的地に着かないもどかしさに、母は何度も「あと何里?」と聞くのですが、答えは決まって「あと四里、四里」というものだったといいます。「百里の道を行くものは九十九里をもって半ばとす」という言葉がありました。実際の道はやがて目的地に至り着きますが、「永遠」には永遠に到着しないのでしょう。だからいつまでも「半ば」なのです。永遠というこ...心学校十三の一

  • 心学校 十二の四

    その頃です。「念仏は行動である」という言葉が使われ始めました。考えてみると、「さとりの境地」を得るとは自己満足ではないのか、「さとりの境地」とは全員で進む行き先ではないのか、みんなで行動することこそが、自己を後にして、先に他に善いことを差し上げるという仏教の利他なのだと思い始めたのでした。念仏の世界では今生きているイノチにおいて「さとり」を得られるのではなく、さとりに向かって進んでいる今日と言えるのです。心学校十二の四

  • 心学校 十二の三

    大学四年の夏、幼稚園から中学卒業まで全く同じクラスだった親友が、猟銃で自殺してしまったのです。彼は人間ドックで検診を受け、どこも異常がないと誇っていました。危険物取扱者乙種試験にも合格し、中卒でもここまでやれるんだと誇らしげに言っていたのですが、その彼が突然去っていったのでした。この出来事は、「さとりの境地」という難しい宗教情操に決別した人生を歩むことが出来ると思っていた幼少年期を送った私にとっては、全く逆の、「さとりの境地」とは何かということを問いつめられた転換点であった気がします。お葬式が済んでも、秋になっても心の霧が晴れないのです。龍谷大学で仏教を学ぼうと思ったのは、このような心の激動からの帰結でした。でも学問で「さとりの境地」を得ることが出来るものでもなさそうですし、難解な用語に頭を悩ますことになってし...心学校十二の三

  • 心学校 十二の二

    「さとり」・・・高尚な響きを持ちながら、その実、受け取る人によってさまざまな解釈が出来るのがこの言葉ではないでしょうか。私も中学から高校時代に同じような考えを持ちました。私は十一上の姉と、九つ上の兄との三人兄弟です。途中に戦争をはさむので、大きく年が開いています。私は二男だからお寺の跡を継がなくても良いとの思いでしたし、周囲もそのように言ってくれていました。私の心の中にも「さとりの境地」などというものは、あるとしても現実にそこに定住することなど出来ない自分だという思いが強く、むしろ現実の社会にどのように対応して行くかということの方が重要で、当時世界が注目していたシュバイツァーの事業に憧れ、医者を目指したものです。私の姉もご縁あって医家に嫁いでいましたので、必然的にこの流れは強くなりました。心学校十二の二

  • 心学校 十二の一

    この連載に対してお手紙をいただきました。その中に次のように書かれていました。【私はこの近年迷いが生じてきて、時折痛切に「さとりの境地」と言ったものを妄想していることに気づきます。「さとりの境地」といったものは確か中学生か高校生のころに妄想し、そしてある時期にきっぱり捨てたはずだったのですが。つまり私は「さとりの境地」とは妄想だ、と言おうとしているのではなく、「さとりの境地」とは妄想するものだ、と言ってみたい気がしているらしいのです。】心学校十二の一

  • 心学校 十一の五

    宗教では絶対者の存在を用いるのですが、絶対は相対とは違うのです。面倒な言い方ですが、「絶対」という表現をする場合は相対をのり超えた表現と、「絶対~出来ない」という相対的なだめ押しの表現とがあるのです。絶対ダメは力の押し付けで後者の用法です。宗教で言う絶対者とは、自分では何もできない赤ん坊に、滋養を与え、排便の世話を焼き、見捨てることの出来ない母のような力なのです。心学校十一の五

  • 心学校 十一の四

    一九〇九年、学習院教授となって上京し、その翌年京都帝国大学文科助教授(倫理学担当)に招かれ、一九一一年に有名な『善の研究』が出版されたのです。一九一三(大正二)年教授昇官、一九二八(昭和三)年京大を定年退官、一九三三年、鎌倉稲村ヶ崎に移住して研究に没頭されたのです。一九四五年、長女を四月に亡くした後六月七日、七五歳で鎌倉七里ヶ浜姥が谷の別荘において逝去されたのです。遺族は相談の結果遺骨を三分割して、一つは故郷の宇ノ気村長楽寺境内(現在は共同墓地へ移転)、もう一つは旧友の鈴木大拙氏とともに鎌倉山内東慶寺へ、さらに今ひとつは京都妙心寺山内霊雲院前庭へと納めたのでした。心学校十一の四

  • 心学校 十一の三

    一八九一年、帝国大学文科大学哲学科選科(東京大学)に入学したのですが、選科生は本科生と差別され「人生の落伍者」となったような気がしたそうです。さらにこの頃、父が事業に失敗して破産、一八九四年、帝国大学を卒業したのですが選科生は就職も難しく、ようやく石川県尋常中学校七尾分校の教諭となり、翌年には第四高等学校のドイツ語の講師となることが出来ました。一八九七年、山口高等学校へ、さらに一八九九年、第四高等学校教授となることが出来ましたが、日露戦争で弟が戦死、一九〇七年には次女と五女を相次いで亡くし、やがて妻も病死、長男も亡くなるという悲しみも続きました。心学校十一の三

  • 心学校 十一の二

    宇ノ気町に生まれた西田幾太郎先生が、「絶対矛盾的自己同一」と表現されたのは、まさに救われざるもの=自己、が如来の完全性によって必ず救われて行く対象となっていることへの解決であったと思われます。郷土の先輩・西田先生についてご生涯を概略しておきましょう。先生は一八七〇(明治三)年五月十九日石川県河北郡宇ノ気村森レ八十二番地において、父・得登(やすのり)三十六歳、母・寅三(とさ)二十八歳の長男として出生しました。代々大庄屋を勤める富裕な旧家で、母は浄土真宗の熱心な信者でした。一八八三(明治十六)年石川県師範学校予備科に入学し、まもなく姉とともにチフスにかかり姉は病死、「余は此時始めて人間の死がいかに悲しき者なるかを知り、人なき所に至りて独涙を垂れ幼き心にも若し余が姉に代わりて死し得るものならばと心から思ったこともあっ...心学校十一の二

  • 心学校 十一の一

    心の塵は欲望としてすべてに存在します。ほしいという欲求が経済を営ませ、より良いものを提供して欲しいという願いが知識を向上させ、技術を振興してゆきます。仏教では欲求は煩悩であり、知識はとらわれとして悟りの障碍となります。したがって現代社会生活を送りながら、自己清浄による悟りの道を求めることは理論的に不可能なのです。ところが法蔵菩薩の願いはすべての生命を救うという大きな願いであり、それ故に悟りを得ることが出来ない者こそを救わなければならない、という矛盾性をはらんでいるのです。心学校十一の一

  • 心学校 十の六

    光に対するものは何かというと「闇」なのです。闇の中を生きるのに、求めるものは何かというと光なのです。「闇を破るものは闇ではなく、光によってである」という言葉があります。私たちの生活は闇の中を彷徨(さまよ)うことに例えられ、それ故に「一筋の光明」という言葉が、何事においてもよく使われるのではありませんか?(光)輝く表情、(光で)明るい気持ちなど、私たちの日常生活でも人生の価値ある意味として光が重視されているのではないでしょうか。しかも発している光には、熱、あたたかみがこもっているのです。あたたかみは安心を生み出すのです。心学校十の六

  • 心学校 十の五

    清々しくなると喜びが出ます。それが歓喜光の働き、それは智慧の世界から働きかけているのだということが智慧光なのです。絶え間ない光が放たれていることが不断光、いろいろと解説しても本当はあらわし尽くせない、私たちの心で思うことも難しいほど高次元な光が難思光、口で言い表すことが難しい、称賛してもしてもつくせない光が無称光なのです。心学校十の五

  • 心学校 十の四

    自己を問う、生きていること(存在する)を考える、意味に気づくことから価値が発生し、ただ、本能のまま、うまく生きているあり方とは違った清浄な人生が明らかになると思います。しかもそれは自分が気づくのではなく、気づかされたのだという受けとめ方、そこに「己」が頭をもたげている世界とは違ったすがすがしさを感じるのではありませんか。身体はアルコールを含んだガーゼで消毒することによって清潔になります。しかし心とか自分の存在とかは物質では清浄になりません。したがって清浄も自分が作るのではなく、清浄光が届いているからこそ実現すると言えるのです。心学校十の四

  • 心学校 十の三

    次に生+(存)=生存があります。これは生き延びて行こうという意志がはっきりします。たくましく生きるということであり、本能に基づく行動をとります。さらに生+(活)=生活となります。生き活きと過ごすと言えば聞こえは良いのですが、特に社会生活にはさまざまな制約や約束事があります。したがって生活には、うまく生きるということが求められ、適応の行動をとります。しかしここまでは人生の本当の価値を表すものではなく、もう一つ私の造語ですが、□+生があるのではないかということです。それは(受)+生=受生、いただいた命ということです。生きていると思っている私が、実は生かされているのだと気づくとき、そこには意味を考える行動が発生してきます。心学校十の三

  • 心学校 十の二

    私は金沢刑務所や湖南学院で被収容者(受刑者という言い方はしない)への新入時教育と希望教誨に出向いて行きました。初めての教育の時は強制教育なので、特定の宗教教育は出来ないのです。そこで二十七人の教誨師(施設長を経て法務省から委嘱されている)が統一して「人生について」という題で一時間をもらっています。私は生+□という□に入る文字をさがしながら、話を進めます。まず生+(命)=生命です。極限的にはただ生きている状態であり、反射の行動をとります。心学校十の二

  • 心学校 十の一

    世相はにぎやかです。そしていつの世も政界の浄化がさけばれます。法蔵菩薩の行く手も深刻です。何故なら救いの対象とするすべての生命、その全てを救うには一般論理では救われざるものをこそ救わなければ、一切衆生を救い取ることが成就しないからです。救われざるものを救うのはなぜでしょうか。それは善を行うことが出来ないからなのです。「善」とは正しい道理に従い、道徳にかなう良いことなのでしょうが、そのような人ばかりで世間が構成されていないことは十分ご承知のことでしょう。心学校十の一

  • 心学校 九の六

    私の強烈な思いでの一つに、第十八回東京オリンピックがあります。一九六四(昭和三十九)年十月十日、私は高校一年生でした。学校はその日、午前中で授業をうち切り、それぞれ家に帰ってオリンピックの開会式を見ました。私のお寺もこの時初めてテレビを入れました。「世界中の青空を集めてきたような・・・」という名文句で始まった中継、坂井良則君が点火して聖火は炎を上げて燃え続けました。しかし閉会式でその聖火は消され、一つのイベントが終わったという感が寂しく胸を打ちました。不思議なことに現実の光は消えたのですが、今でも私の心の中ではその光景が燃え続け、光り続けているのです。心学校九の六

  • 心学校 九の五

    光は通常、燃焼にともなって発光するものが身近に感ぜられます。しかも発光する時間が長い気がします。そこで炎の光、しかもいつまでも燃え盛っている炎のように、如来の光も衆生(私たち)を救済したいという願いが、最後の完結まで燃え続け光り続けているということを「炎王光(えんのうこう)」と言うのです。親鸞聖人は語調を整えるために「光炎王(こうえんのう)」と逆転して使用されていますが、意味は同じことです。心学校九の五

  • 心学校 九の四

    光にはいろいろとあります。先に述べた太陽光、X線、電灯の光、自然が起こす雷を伴う稲妻、蛍光灯の光、蛍の光、夜光虫の光などです。ところが如来の光はそのどれをもって例えようにも不可能な光であるため、対するものが無いという無対光と呼ばれるのです。生徒が先生に求めるものにやさしさとか、適度な厳しさ、あたたかさ、身近な存在感、気安く話せる雰囲気などがあるのでしょうが、もう一つ期待しているもの、それが優位性ということではないでしょうか。「うちの先生はこのことに関しては一番。他の追随を許さない」、対抗するものが無いというカリスマ的存在もあるのではないでしょうか。無対とは絶対の信頼をおける安らぎの源なのかもしれません。心学校九の四

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