親鸞聖人は「証」という文字で「さとり」をあらわされるのです。主著『教行信証』にも「証」を解釈して~この上ないさとりの果~という意味で使われているのであって、浄土真宗でいう「さとり」とは「あきらかになる」という意味に理解される気がするのです。それは自らがもっているさとりも、自分が気づいたさとりも、いずれも現世においてのものですが、浄土教ではこの世は穢土、さとりは浄土において得るものと考えるからです。心学校十五の四
覚はお釈迦さまが六年間の難行苦行の末にその方法を捨て、スジャータという名の娘が供養した乳粥を口にして、苦行者ではなく通常の自分として瞑想に耽り、ついに十二月八日の暁に正覚を得られたのです。それ故にお釈迦さまは「自分が説こうが説くまいが仏教という真理は世界に普遍しているのだ」といわれるのです。それは仏教のさとりという世界に「気づかれた」さとりであったと言えるでしょう。心学校十五の三
悟の主体は自分、覚の主体は自分に働き続ける大きな力ではないでしょうか。もちろん両面が備わって「覚悟」という言葉があり、私たちは「他にどうしようもない状況の中で、自らもそれしかないとうなずいた状態」に使用しています。すなわち覚は周囲から示され、悟は自らが決めるというわけです。悟は大悟という仏語があるように、自分の力で、あるいは座禅のように厳しく自らを見つめる修行によって、翻然として自分の中に本来ほとけの力を持っていると見極めてゆくさとりです。心学校十五の二
お経には劫濁(社会のにごり)、見濁(思想のにごり)、煩悩濁(欲望によるにごり)、衆生濁(道徳のにごり)、命濁(時代による生命のにごり)と五濁が説かれます。このような状況の中で、さとりの境地を求めても、現在の人生の中で得ることは不可能なのだと仏教は教えるのです。そこには救いによるさとりの境地への到達しか道はないのだと、法蔵菩薩は救いの力を成就しあげた、その実の言葉を大切にする、それが念仏の心なのです。心学校十四の六
お釈迦さまの予言通り、私たちの社会や人は時代と共に濁ってきています。便利な世の中にはなりました。洗濯機の普及によって洗濯板という品物を知っている世代も少なくなってきたようです。ガスコンロや電気ヒーターなどエネルギーの変化で、火吹き竹という道具も必要なくなってしまいました。お米は農家の方の手が八十八回かかっている、菩薩さまが宿っていらっしゃるからと床に落ちたご飯粒も大切にしたのが、床に落ちた食べ物はばい菌が付着しているからという理由で捨てる豊かな時代になりました。でも今の時代に不安を感じていない人は少ないのです。地球環境も国家財政もどうなるのでしょう・・いや、その原因は実に我々個人の欲望を満足させようとする営みにあったのではなかったでしょうか。心学校十四の五
さらに仏教が各宗派を立てるのには教典の解釈によるのです。お釈迦さまの数多くのお経を八万四千の法門というのですが、実際には約二千五百の教典があり、その中でお釈迦さまの本意を端的に説いているとして取り上げるお経と、その解釈の違いによって宗派が出来るのです。親鸞聖人は浄土教典の中に「特に此のお経を百年留めおく」という文言に着目され、法が滅した後にこの経(仏説無量寿経)に説かれた教えが真実を発揮すると慶ばれたのです。心学校十四の四
https://drive.google.com/drive/folders/18ihxNP0Aq5eyBNguRvhIYAvLTS-_st2sThisisatest
仏教は末法の後、すなわちお釈迦さま入滅後一万一千五百年を過ぎるとどうなるかというと、「滅法」の時代がくるのです。この時には教義さえも無くなってしまうという終末思想のように聞こえる時代観なのですが、お釈迦さま入滅後五十六億七千万年経つと「弥勒菩薩」が如来となってこの世に現れ、第二の釈迦として人々を救済するのだという救済論を持っているのです。心学校十四の三
お釈迦さまの誕生は、現在では紀元前四百六十三年と考えられています。何分古い時代のことで、どのように考証するかというと、インドでお釈迦さまから約二百年後にアショーカ王という高徳な王朝があり、インドの各地にお釈迦さまの業績を讃える高い石碑を建て、それに讃嘆する字句を彫り込んだので、その碑文を分析するとお釈迦さまの入滅年などがわかるのです。ところが平安時代には源信僧都が比叡山横川で『往生要集』を著された頃、すでに末法の時代に入ったと計算されていました。それからの日本はまさに戦乱の世になっていくわけで、末法思想は広く民衆にも実感できる仏教の時代観であったのです。心学校十四の二
お釈迦さまの予言がいくつかあります。その中で正像末というものは、仏教の時代観、社会観ひいては人間観です。お釈迦さまは自分が入滅した後、最初の五百年間は仏教の教義もありそれを修行する人もありさらにさとりを得る人もある、その五百年の時代を「正法」の時代といいます。次の千年間は仏教の教義もありそれを修行する人もあるが、さとりを得る人はいなくなるといわれる「像法」の時代となります。そして次の一万年間は教義はあるが、修行してさとりを得る人はなくなってしまう「末法」の時代が続きます。心学校十四の一
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