台湾生活の中で見たこと、学んだこと、考えたことを記録していきます。
バシー海峡戦没者慰霊祭・廣枝音右衛門氏慰霊祭事務局長。一般財団法人自由アジア協会理事。 「日本統治時代の台湾」や「戦争体験」など歴史に関心があります。 Youtube「ゴンタケChannel」(https://bit.ly/2pr262h)をはじめました。
日本郵船歴史博物館企画展「就航90周年記念 客船浅間丸〜サンフランシスコ航路を行く〜」を見学。忘れてはならない海没した戦没者の存在
横浜市内にある日本郵船歴史博物館では、1885(明治18)年に誕生し、日本を世界第3位の海運大国へと導いた「日本郵船」の歩みを紹介しており、日本の海運がいかに発展してきたかを学ぶことができます。 日本郵船歴史博物館 戦時中に日本郵船が果たした役割についても紹介されています。 戦時中は、軍艦にとどまらず、輸送船の不足を補うため多くの民間船舶が徴用されました。日本郵船の多くの船舶も徴用されています。日本の海運業を担い、その発展に大いに貢献してきた船舶が戦争に借り出されていたわけです。 大戦末期、日本は比島決戦を企図し、兵員や物資などをフィリピンに集中させることを試みました。そのため、台湾とフィリピ…
インパール作戦の惨劇を知る趙中秋さんが選んだ利他的に生き抜くということ
11月24日、高雄市内にて、先の大戦末期に軍属としてインパール作戦に参加した経験を持つ趙中秋(ちょう・ちゅうしゅう)さんにお話をうかがいました。 インパール作戦に参加した趙中秋さん 台湾・高雄で生まれた趙さんは、90歳を超えた今も日台関係のイベントに足を運んだり、訪ねてくる日本人や台湾人に自身の戦争体験を語ったりするなど、精力的に活動されています。 台湾で英軍捕虜を連れて歩く日本軍人の姿を見て憧れを抱き、軍属に志願した趙さんは、ビルマ方面軍司令部の経理部に配属され、インパール作戦に参加しました。 「無謀」の作戦とも評されるインパール作戦ですが、趙さんは「無謀とわかっていたらやらない」と語ります…
11月23日、日本軍艦を御神体として祀る台湾南部・高雄に建つ紅毛港保安堂で、日台交流を目的とする式典が執り行われました。 2013年に神像などが遷座された現在の保安堂 同日15時には沖縄県護国神社の加治順人・宮司による神式の慰霊供養が行われ、同廟に祀られている日本軍人の御霊の里帰りが参列者によって祈られました。 神式の慰霊供養が行われた 日本軍人の御霊が故郷に帰ることができるよう祈る参列者 保安堂建立の起源は終戦翌年の1946年に遡ります。その年、かつて紅毛港と呼ばれた村の漁民が漁に出ていた際、頭蓋骨が漁網にかかりました。そして、その頭蓋骨を弔い祀ったところ大漁が続くようになりました。人々はそ…
11月17日、台湾南端のバシー海峡を望む潮音寺にて、バシー海峡戦没者慰霊祭が斎行されました。 戦後70周年の2015年より一年に一度行なわれている本慰霊祭は、今年で5回目を数えます。 2019年バシー海峡戦没者慰霊祭に参列された皆様 慰霊祭前日の16日、高雄国賓大飯店にて事前懇親会が行われ、ご遺族を中心に60名が参加しました。慰霊祭に参列する理由や思いなど自己紹介もしていただき、参加者同士の交流を深め、終始和やかな雰囲気でした。 本慰霊祭の共催団体である一般財団法人台湾協会の根井冽・前理事長より乾杯のご発声 物心両面で潮音寺の維持管理をサポートしている三普旅遊集団の謝憲治・董事長 バシー海峡で…
芝山巌事件で犠牲になった教育者・関口長太郎先生の慰霊顕彰祭に参加して
11月3日に愛知県西尾市で執り行われた関口長太郎先生慰霊顕彰祭に参加させていただきました。 関口長太郎顕彰碑前にて 関口長太郎(せきぐち・ちょうたろう)は、愛知県西尾市出身で、西尾小学校の初代校長を務めた教育者です。 日本統治時代初期に台湾へ渡り、現地で日本語教育に従事しました。そして、1896(明治29)年元旦に日本人教育者6名と用務員1名が土匪によって惨殺された芝山巌事件の犠牲者の一人でもあります。 関口長太郎(1859-1896)。一人娘を残し単身台湾へ渡り、37歳の若さで逝去。 命を惜しまず、最後まで教育者として土匪の説得にあたった関口ら「六士先生」の犠牲的精神は、事件後、台湾で称えら…
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