香山昇龍大観音は原鶴温泉泰泉閣の創業者であり、杷木町長を4期務めた林一二三翁が霊夢により観音菩薩を感得し、創建されたものです。観音像の高さは28mあり昇龍観音としては日本一の高さを誇ります。その他境内には多数の尊像が奉安されています。
「九州八十八ヶ所百八霊場」「篠栗新四国八十八ヶ所霊場」「九州西国霊場」「九州二十四地蔵尊」「九州三十六不動尊」「九州四十九院薬師霊場」「九州三十三観音霊場」の札所のご紹介やその他の霊場の御朱印をご紹介しています。
鶴林寺のご本尊は薬師如来・子安弘法大師を安置し、安産、子育ての加持祈祷の寺として信者に知られ、境内は不動明王、十三仏を配置し、地元では「子安さん」として知られている寺です。山号は寄進した土地所有者の吉原氏の功徳を称しています。
善福寺の歴史は古く、創建は1335年(建武2年)に松浦氏の始祖を祀る今宮神社の別当寺(神職が祀りを兼ねる寺)及び今福松浦家の祈願所として寺上の地に創建。その後、幾度か移転・再建を繰り返した後、1909年(明治42年)現在地に建立されました。
ここは札所として「開元寺」となっていますが、寺院があるわけではなく『弘法大師入唐解纜之地』と刻された一基の石碑と拝所があるだけです。寺号の由来は弘法大師が12月の終わりに唐に上陸後、一ヵ月間とどまった福州の寺院が開元寺でその寺号を称したもの
最教寺は、大同元年(806年)弘法大師が唐から帰朝した時、初めて護摩を焚いたところといわれています。現在奥の院には大師の護摩石と坐禅石があり住時をしのぶことができます。慶長12年(1607年)1真言教学の学問所である談義所を合併し復興しました。
西福寺のある地は昔から、山伏がこの巨大な岩屋のなかに庵を結んで修行した行場だったと伝えられています。江戸時代に平戸藩主の命により5体の石仏を安置しました。明治に入り、この地に住む吉井クラの霊夢に出た観音菩薩のお告げの逸話が残っています。
1240年前に行基菩薩が海底で光を放つ大木から三体の観音像を敬刻し、開眼供養して東の海に流されたその内の1体が御橋観音寺となり現在まで信仰の霊地として栄えています。また二条の大石橋をはじめ春は桜、秋は紅葉と平戸八景の景勝地としても有名です。
タイトル:九州八十八ヶ所百八霊場 七十四番札所 岩問山 東漸寺
東漸寺は和銅年間(708年~15年)現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を自刻し安置したのが始まりと伝えられています。その薬師如来様はいつでも拝観できます。ご本尊の前には「魔鏡」と言われる一枚の鏡が置かれています。
西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として現在の地に建立されたお寺です。ご本尊・虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺にいらっしゃいましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから移座されました。
明治33年(1900年)、有森清隆和尚がこの地にお堂を創建。明治45年(1912年)高野山の山内塔頭の一寺院の寺号を移し、光輪院としました。建っている丘には昔、櫨(はぜ)の木が立っていたことから「櫨山(はじやま)大師」と呼ばれています。
九州八十八ヶ所百八霊場 第七十一番札所 医王山 浄漸寺 鎮西薬師
奈良時代の養老2年(718年)行基菩薩は、東大寺勧進のため全国を巡錫し、速木(現在の早岐)を訪れた折、楠木の霊木で薬師如来を刻み、堂宇を建立したのが浄漸寺の起源とされています。以来、霊験あらたかな薬師如来として隆盛をきわめていました。
宝光院は御本尊は十一面観世音(秘仏)で、参拝者の願いや苦しみを取り除いて頂いています。開山は修験者達がお参りされる人の願い事や、五穀豊穣を祈願したと言い伝えが有って、現在も引き継いで御本尊に祈念しているそうです。
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香山昇龍大観音は原鶴温泉泰泉閣の創業者であり、杷木町長を4期務めた林一二三翁が霊夢により観音菩薩を感得し、創建されたものです。観音像の高さは28mあり昇龍観音としては日本一の高さを誇ります。その他境内には多数の尊像が奉安されています。
明石寺は霊場の結願寺で、目の前には多目的ダムもあります。弘法大師空海が唐から帰国した際に訪れ、人々を救済した土地でもあり、その後、江戸初期に留錫した旅僧の霊夢にマタジイの木の根元から大日如来の石仏が出てきたので、大日屋敷と呼ばれていました。
大宝元年(701年)に行基菩薩が開山したという歴史ある寺院。堂内には「雲仙大仏」とよばれ、高さ5mの金色に輝く純金箔のお釈迦様が温泉街を見守るように鎮座しています。境内にはぼけ封じ観音や不動尊があり、30分くらいでひとまわりできます。
芳證寺は、細川忠興の二男・細川興秋が創建したキリシタン寺であった長興寺薬師堂が寺の始まりと伝わっています。天草の乱後、天草が天領となり赴任した初代代官の鈴木三郎九郎重成が戦乱により疲弊した天草の平和と再建を願い自らの城を寄付し出来ました。
向陽寺は享保年間に大矢野偏照院の別庵として開かれた寺院でかつては向陽軒と称していたそうです。霊場ご本尊の観音様は「松島慈光観音」と呼ばれていて、その他にも境内には33体の観音様を祀り、寺宝として「雨乞いの鐘」とよばれる梵鐘が保管されています。
氷川ダムの畔、西の高野山とも称された一大霊場の大行(だいぎょう)寺山(釈迦岳)の頂上近くに所在しする大徳寺は正式には西高野山普門院大徳寺と号し霊場感満載の寺院です。現在は廃寺になっていますが、境内にはぼけ封じの観音様がしっかりとおられました。
興福寺は日蓮宗のお寺です。文明年間(1469年~87年)隈部氏一族が観音菩薩を勧請し、堂宇を建立しましたが、その後、寛文6年に再建し興福寺と改めたそうです。黄金色の釈迦如来像がが列をなし、進学や出産祈願などの拝観者も多いそうです。
含蔵寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、元は十一面観音・不動尊・毘沙門天の観音三尊を奉じた天台宗で高森城主代々の菩提寺でした。天正年間、高森落城の際、兵火にあって、その後禅刹に改められました。三尊は現在の観音堂に安置されています。
満願寺は文永11年(1274年)の元寇の役の際、北条時定が国土安泰を祈願して醍醐三宝院門跡の経杲大僧正を迎えて建てた寺です。この寺には本尊の毘沙門天王の仏像等、多くの貴重な宝物や小文書が収められ、南小国町の歴史・文化の中心となっています。
興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
大光院は、血の池地獄から鉄輪に向かう途中の道路沿いにあり、金峯山修験本宗の寺院です。大光院の御本尊は不動明王で、身代わり不動尊と呼ばれます。 また九州三十三観音霊場第十四番札所ともなっています。
九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所である椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師が修行された霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂 遍照院」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹です。
弘法寺は耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場第1番札所(本尊:十一面観世音菩薩)・同第32番札所(本尊:十一面千手観世音菩薩)・九州三十三観音霊場第10番札所(本尊:大悲観音)となっています。なお、耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場では総本部になっています。
仏生寺は、大分県と福岡県の県境、日田市にある浄土宗のお寺です。元々は浄土宗の教会所として開かれ、以来150年余りを経て、今日に至っています。なお、近くにある「高塚地蔵尊」の受け持ち寺ともなっています。
宝積寺は中世に宝積禅寺としてこの地に祀られていました。明治の廃仏毀釈により一時は廃寺となっていましたが、昭和に入り復興されました。 ご本尊の大日如来坐像は柿材を用いた寄木作りで、脇侍の造毘沙門天立像とともに日田市有形文化財となっています。
筑紫の小京都ともいわれる秋月の東にそびえる古処山(862m)は仏教大師最澄が唐より帰朝した折、この山の霊木をもって薬師如来七体を彫まれたと伝えられる霊山です。本覚寺は山田智祥上人により再興され、昭和50年より約10年を経て現状に至っています
大興善寺は養老元年(717年)行基菩薩がこの地で草庵を結び十一面観世音菩薩を刻み安置なされたことが寺の由来として伝承されています。現在は、花寺「つつじ寺」の愛称で親しまれ茅葺屋根の本堂は春夏は鮮やかに晩秋は艶やかに「もみじの葉」に彩られます
大同元年(806年)に唐より帰朝した弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げを受け、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号しました。
眞光院は大正年間、福岡県篠栗に開創後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元年、糸島に移転しました。移築に際し「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎えし、鎮守として清瀧大権現をお祀りしています。また伝説のお綱大明神も奉安しています。
金剛寺はJR唐津線の岩屋駅からほど近くの田園地帯にあり、上松浦の要であった獅子ヶ城の守り本尊として伝えられていた別名を厄除け千躰大師と称する尊像を城主鶴田氏衰退後、明治30年3月縁あって大師堂を建立し安置されたのが始めと伝わっています。
願成寺はおよそ770年前、四条天皇天福元年(1233)人吉城主初代相良三郎藤原長頼公の創建で、開山弘秀上人は建久9年遠州常福寺より来られました。金堂は鎌倉の長勝寿院の大御堂を模造し、1345畳敷と伝わっています。ご本尊は阿弥陀如来です。
剣山寺は、鹿児島県の南にあり、東支那海の見える静かな町のお寺です。ご本尊の不動明王様は参拝のみなさまのお話しをいつも“ニコニコ”して聞いて下さり、「あわてるな、急ぐな、あなたはあなたのままでよい」といつも話かけてくださる様な気がします。
薩摩薬師寺は新寺建立したまだ新しい寺ですが、のどかな環境に囲まれ、故郷に里帰りしたような気軽さでお参りができます。ご本尊薬師如来立像は、御身の丈十三センチと小さいながらも、高野山よりお迎えした大変霊験あらたかな仏さまです。
全国に知られる指宿温泉に程近く、池田湖や開聞岳にも近い地に光明寺はあります。堂内にご本尊の地蔵菩薩、その側に寺宝で大師ゆかりの密教法具の一つ香炉と如意棒が奉納されています。また病の種を取ってくれると言われている「癪取吸障」もあります。
境内に足を踏み入れると、「念ずれば花ひらく」の真言碑と大きな修行大師さまが優しく出迎えてくれます。本堂奥には緑の散策路が広がり、八十八ヶ所の札所、十二支えと地蔵、水子地蔵、弁財天堂、紺髪観音、子安観音などあり、お参りが絶えない峰浄寺です。
大歓寺は、昭和45年に建立されたお寺です。御本尊様はお不動さまで、病気平癒、災害除け福徳や煩悩を滅ぼしたり、大変霊験あらたかな仏さまで、これまでもたくさんの信者さんからお不動さまのおかげを授かっておられます。
不動寺のある場所は、かつて真言宗大乗院というお寺が存在した地でありました。不動寺は西大寺の鮫島弘明住職が薩摩の地に祈祷道場を求めて行脚していた時、夢に不動明王の霊示を受けたという仏縁の深い場所に築かれています。
錦江湾を望む美しい景色に囲まれた加治木町に法城院はあります。街中の国道沿いということもあり小さなお寺ですが、御参拝者のお線香の煙が絶えることなくたなびいています。御本尊は、参拝者の願いを叶え、苦しみを取り除いてくださる不動明王(秘仏)です。
霧島山麓を臨む八幡山の頂上に大正12年(1923年)高野山恵光院近藤本玄師の表敬開山を機に玄融和尚により飯野布教所として興りました。 また本尊の大日如来さまは牛の上に座すという非常に珍しいお姿でお祀りされております。
天長寺は天文7年(1538年)、都城島津家第8代領主・島津忠相公により島津家の祈願道場として創建されました。創建以来、都城随一の寺院として隆盛を誇っていましたが、明治元年の廃仏毀釈によって破壊され、堂舎と共に多くの法物を失ってしまいました。
遠洋漁業の基地の港町、目井津の西の山腹に西明寺はあります。ご本尊は勝軍地蔵菩薩をお奉りしています。このご本尊、廃仏毀釈以前は南郷町内榎原神社にお奉りされていた仏様で、信仰深い方のおかげで難を逃れた仏様です。
潮満寺は日南市を一望する津ノ峰の麓、油津港が眼下に見える高台にあります。かつては、長満寺と称し願成就寺第6世重翁法印が1636年に再興し願成就寺の隠居寺とされました。ご本尊は波切不動は身代わりの仏として日夜に済度の働きをされています。
長久寺は室町時代、伊満福寺の珏融僧正により創建されました。ご本尊は全国的にも珍しい「木造六観音座像」をお祀りしていて、「弘法大師像」と共に、宮崎市有形文化財の指定を受けています。また、大師像は霊場会の中でも最古参級の像と言われています。
恵光院は、筥崎八幡宮の「結縁寺」として、歴代座主の墓所があり菩提を弔っております。そのため廃仏毀釈の難を逃れ、数多くの仏像・仏画等の什物が移され今日に残され、神仏習合の時代における筥崎宮社坊の歴史を知る上で貴重なものとされています。
恵光院は、筥崎八幡宮の「結縁寺」として、歴代座主の墓所があり菩提を弔っております。そのため廃仏毀釈の難を逃れ、数多くの仏像・仏画等の什物が移され今日に残され、神仏習合の時代における筥崎宮社坊の歴史を知る上で貴重なものとされています。
福岡市のベットタウンとして高層マンションが立ち並ぶ西区姪ノ浜ではありますが、一歩旧道に入ると昔ながらの町並みも残り、その一郭に法蔵院は佇んでいます。昭和初期、瑞光尼より火伏の願いをこめて筑後八女飛形山より十一面観音菩薩を勧請し建立されました。
隆善寺のご本尊将軍地蔵菩薩は諸々の禍や様々な魔に対して、打ち勝たせてくれる地蔵尊です。その他、境内には修行大師を始め、十三仏・文殊菩薩わらべ地蔵などを安置しております。またお腹をくぐりご縁を願うカエルもいます。
宝積寺は久安年間、松浦党・松浦源四郎大夫直が国家の隆昌、住民の安泰、仏道の興隆、一門の繁栄を祈念し祈願寺として開基したお寺です。また佐賀県無形文化財として「脇野の大念仏」が伝承されているお寺でもあります。
西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として建立されたお寺です。ご本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺に安置されていましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移つされました。
西福寺は千年以上の昔から山伏が巨大な岩屋のなかに庵を結んで修行したと伝えられています。山号は平戸城主、松浦道可隆信がこの地で弓に弦を掛けて戦ったことにより「弦掛」という地名が起きたことに由来しています。