香山昇龍大観音は原鶴温泉泰泉閣の創業者であり、杷木町長を4期務めた林一二三翁が霊夢により観音菩薩を感得し、創建されたものです。観音像の高さは28mあり昇龍観音としては日本一の高さを誇ります。その他境内には多数の尊像が奉安されています。
「九州八十八ヶ所百八霊場」「篠栗新四国八十八ヶ所霊場」「九州西国霊場」「九州二十四地蔵尊」「九州三十六不動尊」「九州四十九院薬師霊場」「九州三十三観音霊場」の札所のご紹介やその他の霊場の御朱印をご紹介しています。
恵光院は、筥崎八幡宮の「結縁寺」として、歴代座主の墓所があり菩提を弔っております。そのため廃仏毀釈の難を逃れ、数多くの仏像・仏画等の什物が移され今日に残され、神仏習合の時代における筥崎宮社坊の歴史を知る上で貴重なものとされています。
福岡市のベットタウンとして高層マンションが立ち並ぶ西区姪ノ浜ではありますが、一歩旧道に入ると昔ながらの町並みも残り、その一郭に法蔵院は佇んでいます。昭和初期、瑞光尼より火伏の願いをこめて筑後八女飛形山より十一面観音菩薩を勧請し建立されました。
隆善寺のご本尊将軍地蔵菩薩は諸々の禍や様々な魔に対して、打ち勝たせてくれる地蔵尊です。その他、境内には修行大師を始め、十三仏・文殊菩薩わらべ地蔵などを安置しております。またお腹をくぐりご縁を願うカエルもいます。
宝積寺は久安年間、松浦党・松浦源四郎大夫直が国家の隆昌、住民の安泰、仏道の興隆、一門の繁栄を祈念し祈願寺として開基したお寺です。また佐賀県無形文化財として「脇野の大念仏」が伝承されているお寺でもあります。
西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として建立されたお寺です。ご本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺に安置されていましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移つされました。
西福寺は千年以上の昔から山伏が巨大な岩屋のなかに庵を結んで修行したと伝えられています。山号は平戸城主、松浦道可隆信がこの地で弓に弦を掛けて戦ったことにより「弦掛」という地名が起きたことに由来しています。
寿福寺は天正11年(1582年)の開基ですが、創建当初は「長福寺」と号していました。その後、8代将軍吉宗の嫡男の名前が長福丸であったため、幕府に敬意を払うため「寿福寺」と改称しました。新緑や紅葉の季節の景観は見事だそうです。
展海山 六大寺は松尾山青蓮寺(佐世保市白岳町)の庵浦別院として建立されたのが始まりです。ご本尊は地蔵菩薩で、この庵浦の地に鎮座されて以来、多くの人々の信仰を集め、その慈悲のみ光は檀信徒をはじめ信仰する者に普くそそがれています。
東前寺は、長崎県東彼杵郡波佐見町にある高野山真言宗の寺院です。ご本尊は薬師如来座像で、九州八十八所百八霊場第六十六番札所ともなっていますが、今回は先行して地蔵霊場にスポットを当てて書かせていただきます。本堂裏の自然の石庭は心洗われる景観です。
成就山本願院は、高野山金剛峯寺の塔頭寺院、鍋島本願院の別院として明治初期に建立された寺院です。本堂再興の際に描かれた弘法大師一代記の70枚を含む、数百枚ほどの天井絵で彩られた格天井は素晴らしく、参拝者を唸らせます。
鎮国寺は、弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺です。本堂と見紛うばかりの大きな護摩堂には、護摩堂に霊場ご本尊の不動明王立像(身代り不動)が安置されています。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、境内、文殊堂と地蔵堂の間に霊場ご本尊である聖観音がお祀りされています。
宗像観音寺を創建した全海、光染両僧は観音菩薩が霊夢により地蔵尊の建立を指示され「一言地蔵」の建立となりました。その聖観音様は地蔵堂より先の高台に建っている入母屋造の大きな本堂に秘仏として安置されています。
浄心院は、現在では希少な神仏混合、神仏不二を受け継ぎぐお寺で、浄心法尼が当地において不動明王を感得し、その霊験により創建したと伝わっています。さらに、九州八十八所百八霊場の第九十番札所でもあります。
甘木高野山高野寺は、老後、下の世話をして貰わなくても良いとの御利益がある地蔵尊で、別称「嫁いらず地蔵」とも呼ばれ篤い信仰を集めています。
九州西国観音霊場結願の寺は、菅原道真公ゆかりの太宰府にある観世音寺です。「日本書紀」によれば、天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために発願され、天平18年(746年)80有余年を費やして完成されたと伝わります。
龍宮寺の開創年代は詳らかではありませんが、本尊の聖観音は慈覚大師・円仁の作と伝わり、太閤秀吉が博多の町割りをした頃より「博多七観音」の一つとして、広く人々の信仰を集めていたといわれています。寺名の通り「人魚」にまつわる伝説があるお寺です。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、霊場ご本尊である如意輪観音のが安置されています。
油山観音として親しまれている正覚寺は、敏達天皇の代(572年)に天竺から渡来した清賀上人が、白椿の大樹に千手観音を刻み安置したのにはじまると伝えています。その清賀上人が日本ではじめて椿の実から油をしぼり精製した事が、「油山」と呼ばれる名前の由来になったとの事です。
雷山観音の通称で親しまれている千如寺は、天竺から渡来した清賀上人の開創と伝えられています。ご本尊の十一面千手観音は清賀上人の敬刻といわれ、国の重文指定を受けています。また、本堂前庭には大きな楓の木は、大悲王院建立記念に植樹されたものといわれています。
常安時の東南に岸岳という山があり、その北壁の「笹の手」と称ばれる岸壁の下に自然の洞窟「垂玉」がありますが、弘法大師が唐よりの帰途、霊夢により垂玉に導かれ止錫されたのが、常安禅寺のはじまりとされています。
福石観音の通称で親しまれている清岩寺は、和銅3年(710年)、この地に巡錫された行基菩薩が、自刻の「七観音」の一つである十一面観音を岩窟に安置したことにはじまると伝えられています。
伝えるところでは、円通山観音寺は和銅2年(709年)、「行基七観音」の内の一つ、千手観音を安置したことにはじまるとされています。観音堂は天明年間(1781年~89年)建立の総欅造りで、たくさんの彫刻が施されています。
長崎山清水寺のご本尊の十一面観音は、京都の清水寺にあったもので、清水寺光乗院の慶順が、この尊像を護持して長崎を訪ねた時、白い光を放つ瑞光石のあるのを見つけ、ここを霊地と定めて堂宇を建て尊像を安置したのが、清水寺のはじまりと伝えられています。
神亀年間(724年-729年)、行基菩薩により開基されたと伝わります。 本尊「聖観音」も「行基七観音」のなかの一体です。癌封じの観音様といった信仰も生まれ、目が失っても救ってくださると熱心な信者も多いそうです。
和銅元年(708年)元明天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝える和銅寺。ご本尊は「行基七観音」の内の一体であり、県文化財に指定されています。
竹崎山観世音寺は和銅2年(709年)、行基菩薩による開基と伝えられ、本尊千手観音は、札所14番雲巖寺の本尊などと一木同作といわれる「行基七観音」の内の一体です。
清水観音の通称で親しまれている寳地院は、延暦22年(803年)、桓武天皇の勅願により、伝教大師最澄の名代として来山した比叡山黒谷、聖命上人により開創されたと伝えられています。
地蔵院は天平元年(729)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基した護国寺三十六坊の一つであり、明治時代の神仏分離令でも残された寺院で、仁比山神社のすぐ隣にあります。
白鳳2年(673年)、天武天皇の勅願寺として創建されたと伝えられ、和銅元年(708年)行基菩薩が寄錫され、その翌年七堂伽藍が造営されました。元明天皇より「観音寺」の勅号を賜ったとされています。河童と「牛鬼の手」の伝説でも有名で、のミイラも秘蔵されています。
草野太郎常門は榧の霊木に千手観音を刻し、白雉元年(650年)堂宇を建立して「普光院」と名づけたのが観興寺の始まりと伝わります。その後、時の天智天皇より観興寺の勅号が下賜されるとともに「普光院」の勅額を賜りました。
人里離れた閑雅な地に建つ永興寺は、かっては叡興寺と号していたとされ、創建は、永観2年(984年)とも貞観2年(860年)ともいわれ、比叡山の僧による開山というだけで、それが誰なのかは特定できていません。虎御前建立の曽我兄弟供養塔があります。
清水寺は、大同元年(806年)、中国留学の帰途寄錫された伝教大師最澄が、一羽の雉に導かれ入山。合歓の大木に丈六(4.8m)の千手観音を敬刻され安置したのにはじまると伝えられています。本坊庭園・鐘楼・三重塔など見どころ満載のお寺です。
普光寺は、弘仁14年(823年)、三毛中納言 源師親(みなもとのもろちか)が千手観音の霊示により一宇を建立したのにはじまると伝えられ、三院七坊の末寺を擁する、大寺として発展したとされています。
岩戸観音の通称で親しまれている雲巖寺は、九州西国霊場のなかで唯一馬頭観音を本尊にお祀りしていますが、行基菩薩自ら敬刻の「行基七観音」と称される中の一体とされる馬頭観音を安置したのにはじまると伝えられています。
インドより来朝された最栄が、聖武天皇の勅願により自ら十一面観音を刻み、これを本尊として開基されたと伝えています。西巌殿寺はもともと単独の寺院の呼び名ではなく、最栄が最初に建立した寺院を本堂として、37の僧侶の坊舎がつくられ、これらの総称が西巌殿寺です。
タイトル:九州四十九院薬師霊場 第十一番札所 桧原山 正平寺
寺記によれば、崇竣天皇御即位元年(587年)百済の国僧・正覚上人が来朝し、初め犬(院)ヶ岳に大窟山長福寺を開基し、その後に桧原山に移し一寺を建立したのが正平寺の開創だそうです。
西福寺は田川市の住宅街の中に伽藍を構えています。曹洞宗 栄西和尚の弟子 明全師の創立として開山しました。兵火から難を免れた釈迦如来、阿弥陀如来、観世音菩薩の三尊仏像が安置されています。
享保二年(西暦1717年)に江戸に大火災の時に小倉藩の江戸藩邸への類焼を防いだ僧の逸話が残る十輪院。以来、地元の人から火難守護の鎮火地蔵尊として信仰されています。
宗像観音寺は宗像大社の包括に有り、閑静な住宅地でにあります。開基の因は昭和28年に全海僧が外国航海中に度々夢の中に聖観音像が現れ当地に祀ることにしたそうです。境内地蔵堂には九州二十四地蔵第三番札所の一言地蔵尊がお祀りされています。
養老3年(719年)に仁聞菩薩にんもんぼさつの開創と伝えられる。 全盛時には、山6坊、里6坊の12坊を有し、六郷満山の中でも民衆教化・布教の地として重要な地位にあったといわれています。
豊前国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇が天下泰平と鎮護国家の祈願を込め建立を命じた寺院で、全国68箇所(66国と2島)に建立された「国分寺」の一つであり、境内地は、昭和51年(1976年)に国指定史跡に指定されています。
相円寺の御本尊の薬師如来は、行基作と伝えられている高さ272cmの木造坐像です。山の上の鍾乳洞の中の本堂に安置されています。本堂までは殿川ダム脇の参道を歩き、250余段の石段を登らなければならず、九州四十九院薬師霊場の中で最も難所だと言われています。
第六番札所の広寿山福聚寺は北九州市小倉北区足立の自然豊かな場所にある黄檗宗(おうばくしゅう)という宗派の古刹です。秋には紅葉を見に観光客で溢れます。御本尊は「釈迦牟尼仏坐像」で、薬師霊場のご本尊が「薬師瑠璃光如来坐像」です。
薬師院は鞍手の町が一望できる荒五郎山の中腹にあります。創建は山口県の豊浦の里に願成院と称していたそうで、その後、安土桃山時代に当地に移転してきたと伝わっています。しかし、資料がないため、確かな縁起は定かではありません。
弘仁元年(810年)伝教大師最澄の開基。ご本尊に薬師如来を安置し、伝教大師が謹刻した七仏薬師の一つであると伝わっています。種因寺の薬師如来は厨子入り秘仏で5年の一度の御開帳です。
暦応2年(1339年)足利尊氏が夢窓国師の勧めにより、南北朝の戦いに殉じた戦歿者の霊を弔うため、全国に建立した安国寺・利生塔(一国一寺一塔)の一つです。当初は、七堂伽藍を構えたが、文安元年(1444年)兵火により焼失。文明2年(1470年)再建。
九州四十九院薬師霊場 第一番札所 龍頭光(りゅうとうこう)山 筑前 国分寺
奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、当寺も、筑前の国の国分寺として創立されました。当初は絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる大きな柱の礎石にうかがい知ることができます。
永禄年間、堂塔寺のあるこの地は薬師山(現堂塔山)とも呼ばれ、おそらくは薬師如来を本尊として、一堂をなす寺でしたが、その昔、大友宗麟の兵火により廃絶されしも、弘法大師のお告げを受け、住職、川端亮貞尼により、昭和38年8月に弘法大師を本尊に中興され、現在に至っています。
青龍寺は阿蘇神社の神宮寺として創建されました。現在は阿蘇一の宮門前街中の「阿蘇神社」の北方400メートルほどのところに田中家の家屋の2階に小堂をつくり法灯を護持されています。ご参拝の際は必ず電話で予約してください。
九州西国霊場 第十番札所 九六位(くろくい)山 圓通(えんつう)寺
百済の僧、日羅により開山されたと伝えられ、険しい山道に難渋する日羅を、九頭の鹿と猪が霊地に案内したことから「九鹿猪山」と名づけられたとされています。 九六位山(452メートル)の山頂近くに圓通(えんつう)寺からは、大分市や別府湾、臼杵市、臼杵湾が遠望できる。
通称「高城観音」あるいは「子安観音」とも称ばれる観音院・吉祥院は、諸国巡錫中の行基菩薩が、衆生教化のため自ら一刀三礼して如意輪観音を敬刻、安置したことに始まるとされています。当初は、「生まれてくるのを慶ぶ」との意味で「生慶寺」と呼ばれていました。
霊山(標高610m)の中腹に霊山寺が建っています。山麓の稙田荘の豪族祐世がこの山中で十一面観音を感得し、草庵を建てたのが始まりで、その後、来朝した那伽法師がインドの霊鷲山にそっくりなのに驚き、「飛来山」の山号をつけたと伝えられています。
宝満寺は、眼下に別府の温泉街が広がる別府で一番古い寺です。六郷満山ゆかりの仁聞菩薩の開基で、本尊の十一面千手観世音菩薩立像は聖徳太子の御作と伝えられています。
應暦寺は山号を大岩屋山といい、国東六郷満山中山本寺の名刹で、養老2年(718年)仁聞菩薩によって開かれたと伝えられています。所蔵されている石仏・石造品は量・質ともにまとまり国東半島中、特殊な石造品を見ることが出来るため、石仏の寺として有名です。
九州三十六不動尊霊場 第六番札所 小岩屋山 威王山(いおうざん) 無動寺
黒土耶馬を背景に仁聞菩薩により開基された六郷満山中山本寺の一つです。修行・祈祷の道場、満山の記録所として栄えていました。最盛期には末寺12坊を擁したと言われています。ご本尊の不動明王は「黒土不動」と呼ばれ、慈悲相のお不動様です。
霊仙寺と六所神社に挟まれるように佇む実相院。境内には「耳地蔵さん」があり、病気平癒を願って多くの参拝者が訪れます。本尊の不動明王は「夷(えびす)不動」として多くの信者に親しまれています。
「三人寄れば文殊の知恵」の発祥の地とされている日本三文殊のひとつです。大化4年(648年)役行者(えんのぎょうじゃ)による開基とされ、国東半島六郷満山随一の古刹です。 本尊の文殊菩薩は秘仏で、卯年の守り本尊に因んで12年に一度、御開帳されます。
九州三十六不動尊霊場 第三番札所 龍下(りゅうげ)山 成佛寺
成佛寺は六郷山末山本寺で、天台宗のお寺です。天念寺・岩戸寺とならび、修正鬼会の寺としても有名です。 国東半島では、山門の石段の両脇に二対の仁王像が立っているのは、この成佛寺だけです。
九州三十六不動尊霊場 第二番札所 大獄(おおたけ)山 神宮寺
神宮寺は両子山の東側にそびえる標高560mの大嶽山の中腹に位置します。宇佐神宮関係の別当格として建立されました。神宮寺は神と仏を合わせ持った神仏習合で、六郷満山のほとんどが神仏習合となっており、寺々の境内には鳥居があります。
九州西国霊場 第六番札所 足曳(あしびき)山 両子(ふたご)寺
国東半島六郷の天台宗寺院を統括する総持院となり、杵築藩最高の祈願所として栄えました。霊場ご本尊の千手観音は奥之院に奉安されています。その観音像の左右の男女両天童子が、両子寺の寺号の由来となったと伝わっています。
天念寺はその中山として、六郷座主の役職をもっていたといわれています。天念寺では旧正月七日に「修正鬼会」が開かれる。これは国の重要無形民族文化財に指定されているもので、前の年の悪を正し、その年の吉祥を祈るためのものだと伝わっています。
長安寺は、養老2年(718年)に仁聞菩薩(にんもんぼさつ)により開かれたと伝えられる天台宗のお寺です。昔の繁栄を偲ばせる「太郎天像」や「二童子立像」、「銅板法華経」など国の重要文化財が保管されています。
九州西国霊場 第三番札所 補陀落(ふだらく)山 清水(せいすい)寺
開創は養老元年(717)、仁聞菩薩によると伝わっています。その後、京都清水寺の本尊を勧請して七堂伽藍を復興されました。ご本尊は十一面千手観音で、平素は秘仏となっていて、毎年1月10日と8月10日の2回だけご開帳されます。
九州西国霊場 第二番札所 大久(だいきゅう)山(だいきゅう) 長谷寺
英彦山から山国川の流れに沿って下ると、奇岩名勝で知られる耶馬渓があります。その耶馬渓の先、八面山の東麓の三光西秣にある長谷寺は、慶雲元年(704)、仁聞菩薩が十一面観音を敬刻し奉安したのに始まるとされています。
英彦山(1200メートル)は福岡県と大分県の県境にある山。霊泉寺はその麓で天台宗英彦山修験道の法灯を守ってきた霊場です。
九州八十八ヶ所百八霊場 第三十七番札所 圓山(まるやま)高野山 香泉寺
国道10号線から少し入ったところに香泉寺はあります。宮崎市街の賑わいを感じつつも、その喧騒を忘れてしまうような野鳥のさえずりも耳に出来ます。
第三十六番貫川寺の本尊は十一面観世音菩薩。その昔、九州連山の尾鈴山に祀られておりましたが、昭和の初期に貫川寺のご本尊としてお迎えした仏像です。
大正十三年に行真和上によって開山されました。現在の本堂は平成10年に完成。先代住職順教和上の設計をもとに現住職が建立。宝塔をイメージした八角形をしています。南東方位を正面とし。朝日が本尊に当るようになっています。
はまぐり碁石の里あたりから赤岩川に沿って右岸をさかのぼり寺標を左へ、急な坂を上った所に中野寺はあります。山門を入り境内には不動明王・地蔵菩薩・慈母観音などたくさんの仏様をお参りいただけます。御本尊は阿弥陀如来です。
創建は、平安時代にさかのぼり、嘉祥元年(848)に江田城主草野大膳弘利が四海安徳を祈願して、能円了孝和尚によって開山しました。 御本尊「薬師如来像」は奈良時代の高・行基の作とも伝えられています。
養和元年(1181)豊前国宇佐郡から智賢法印を招き、延岡で最初の土持氏の城となる井上城の鬼門除けとして光明寺を創建しました。境内には西国三十三ヶ所の観音像や淡島大明神がお祀りされています。
今から約400年前、大和国より訪れた谷山覚衛門により、修験の道場として開かれました。現在でも修験の教えは着々と受け継がれ法螺貝の心地よい音色が、森林に響き渡っていす。
慶長十三年(1608)四国土佐の長曾我部元親公の血を引く秀乗律師が、佐伯藩初代藩主毛利高政公の願を受け、藩内の武運長久、五穀豊穣、万民豊楽を祈願する寺院として開創しました。
静かなお寺で、大師堂には九州で有数の大きなお大師様が迎えてくれます。醍醐の教えである「実修実証」を守り、厄除や交通安全、水子供養等の各種の祈願を修す山伏の寺です。
興山寺の歴史は真言宗総本山高野山から始まっています。木喰応其上人は、青厳寺と興山寺を創建し、その後、二寺は併合され真言宗の総本山の金剛峰寺となり、由緒ある興山寺の名前が消えることを惜しんだ山縣玄浄僧正が、臼杵の地で再興されたのが現在の興山寺です。
九州八十八ヶ所百八霊場 第二十七番札所 有智(うち)山 蓮城寺
三重町から宮崎県北川町に通じる国道326号(日向街道)沿いの三国峠に入る山すその静かな内山地区に蓮城寺(れんじょうじ)はあります。本尊千手観音にちなみ通称「内山観音」と言われています。
タイトル:九州八十八ヶ所百八霊場 第二十六番札所 摩尼(まに)山 福寿院
豊後府内藩が成立したのは文禄3年(1594年)将軍徳川家綱の命を受け松平忠昭が万治元年(1658年)6代目府内城主として転封したため、松平家の祈願所であった福寿院も城内三の丸に移されました。府内藩築城工事については「人柱伝説」があります。
別府北浜の温泉街の程近くにある寺院で、元高野山管長の津田実雄和尚のもとで修行した松本覚陞和尚が四国八十八ヶ所霊場を遍路した後、大正年間にこの地に創建されました。 別府西国三十三ヵ所観音霊場も覚陞和尚の開創で、当寺が一番札所となっております。
蓮華寺の由緒、歴史は古く、旧日出藩主の祈祷寺として栄えたお寺です。 本尊「千手観音」及び「涅槃図」は県の文化財に指定されています。 また庫裡には、樹齢400年と言われるサツキの庭園があり5月初旬が見頃だそうです。
光明院は、松平英親がこの地の領主となった時代に、杵築城の「裏鬼門除け」として建立されました。護摩堂は、普通の木造ではなく、巨大な岩山の下に開いた洞窟の中に、不動明王をはじめとする五大明王が祀られています。
宮中と呼ばれる宇佐の小盆地南宇佐に位置する大楽寺は、宇佐市内では宇佐八幡宮に次いで貴重な史跡であり、数多くの文化財が護持されています。
神護寺境内は山岳寺院の雰囲気があり、二滝の心地よい音が響いております。また数多くの石仏が点在しておりますが、そのなかでも特に大きな石造は釈迦涅槃像です。
弘法大師ご入定1150年を契機として仏門に帰依した現住職の古梶英明和尚が開山。境内は四千坪の敷地があり、そこには師の祈りを彷彿させる堂宇が幾つか建立されています。ひたすら弘法大師の教えを実践する寺風が感じられるお寺です。
町の中の寺院には珍しく緑の中に鎮まった寺院で、樹木に囲まれた中に本堂がありす。この本堂は江戸時代の建築で、とても趣のある本堂です。ご本尊は如意輪観世音菩薩で、私たちの願いを「意の如く」かなえて頂ける御本尊様で、秘仏となっています。
大正8年、「佐伯心海」師が、その師「慈航和尚」の命により「延命地蔵菩薩」を本尊として、北九州に「大光坊」を開いたのに始まります。「戸畑のお地蔵さん」と地元の人に親しまれ、朝な夕なお香の煙が絶えないお寺です。
阿弥陀院は、今より百年前の明治二十八年十二月十日、京都市伏見区の総本山醍醐寺から、北九州の小倉へ移転してきました。もとは承久元年(1239)醍醐寺山内に建立された塔頭寺院です。
九州八十八ヶ所百八霊場 第十六番札所 龍青山 善覚(ぜんかく)寺
JR筑前植木駅からあまり遠くない高台に善覚寺はあります。御本尊は 福徳無量の功徳を授けて下さり、如何なる業病も癒してくださる霊場の中では唯一の石鎚大権現です。
西教院の創建は平安時代の中期、天暦4年(950年)に願成法印が村の疫病を鎮める為に、当地に草庵を結び十一面観音を安置した事に始まります。又、内陣左側に鎮座する福智延命地蔵尊は九州二十四地蔵尊霊場第四番札所に認定されています。
直方の市街地に入り、公共施設が集まる一角の小高いところに東蓮寺はあります。東蓮寺は黒田長政の四男、隆政が福岡藩の分藩として東蓮寺藩を置いたことから、黒田家と東蓮寺との親密な関係を窺うことができます。
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香山昇龍大観音は原鶴温泉泰泉閣の創業者であり、杷木町長を4期務めた林一二三翁が霊夢により観音菩薩を感得し、創建されたものです。観音像の高さは28mあり昇龍観音としては日本一の高さを誇ります。その他境内には多数の尊像が奉安されています。
明石寺は霊場の結願寺で、目の前には多目的ダムもあります。弘法大師空海が唐から帰国した際に訪れ、人々を救済した土地でもあり、その後、江戸初期に留錫した旅僧の霊夢にマタジイの木の根元から大日如来の石仏が出てきたので、大日屋敷と呼ばれていました。
大宝元年(701年)に行基菩薩が開山したという歴史ある寺院。堂内には「雲仙大仏」とよばれ、高さ5mの金色に輝く純金箔のお釈迦様が温泉街を見守るように鎮座しています。境内にはぼけ封じ観音や不動尊があり、30分くらいでひとまわりできます。
芳證寺は、細川忠興の二男・細川興秋が創建したキリシタン寺であった長興寺薬師堂が寺の始まりと伝わっています。天草の乱後、天草が天領となり赴任した初代代官の鈴木三郎九郎重成が戦乱により疲弊した天草の平和と再建を願い自らの城を寄付し出来ました。
向陽寺は享保年間に大矢野偏照院の別庵として開かれた寺院でかつては向陽軒と称していたそうです。霊場ご本尊の観音様は「松島慈光観音」と呼ばれていて、その他にも境内には33体の観音様を祀り、寺宝として「雨乞いの鐘」とよばれる梵鐘が保管されています。
氷川ダムの畔、西の高野山とも称された一大霊場の大行(だいぎょう)寺山(釈迦岳)の頂上近くに所在しする大徳寺は正式には西高野山普門院大徳寺と号し霊場感満載の寺院です。現在は廃寺になっていますが、境内にはぼけ封じの観音様がしっかりとおられました。
興福寺は日蓮宗のお寺です。文明年間(1469年~87年)隈部氏一族が観音菩薩を勧請し、堂宇を建立しましたが、その後、寛文6年に再建し興福寺と改めたそうです。黄金色の釈迦如来像がが列をなし、進学や出産祈願などの拝観者も多いそうです。
含蔵寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、元は十一面観音・不動尊・毘沙門天の観音三尊を奉じた天台宗で高森城主代々の菩提寺でした。天正年間、高森落城の際、兵火にあって、その後禅刹に改められました。三尊は現在の観音堂に安置されています。
満願寺は文永11年(1274年)の元寇の役の際、北条時定が国土安泰を祈願して醍醐三宝院門跡の経杲大僧正を迎えて建てた寺です。この寺には本尊の毘沙門天王の仏像等、多くの貴重な宝物や小文書が収められ、南小国町の歴史・文化の中心となっています。
興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
大光院は、血の池地獄から鉄輪に向かう途中の道路沿いにあり、金峯山修験本宗の寺院です。大光院の御本尊は不動明王で、身代わり不動尊と呼ばれます。 また九州三十三観音霊場第十四番札所ともなっています。
九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所である椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師が修行された霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂 遍照院」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹です。
弘法寺は耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場第1番札所(本尊:十一面観世音菩薩)・同第32番札所(本尊:十一面千手観世音菩薩)・九州三十三観音霊場第10番札所(本尊:大悲観音)となっています。なお、耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場では総本部になっています。
仏生寺は、大分県と福岡県の県境、日田市にある浄土宗のお寺です。元々は浄土宗の教会所として開かれ、以来150年余りを経て、今日に至っています。なお、近くにある「高塚地蔵尊」の受け持ち寺ともなっています。
宝積寺は中世に宝積禅寺としてこの地に祀られていました。明治の廃仏毀釈により一時は廃寺となっていましたが、昭和に入り復興されました。 ご本尊の大日如来坐像は柿材を用いた寄木作りで、脇侍の造毘沙門天立像とともに日田市有形文化財となっています。
筑紫の小京都ともいわれる秋月の東にそびえる古処山(862m)は仏教大師最澄が唐より帰朝した折、この山の霊木をもって薬師如来七体を彫まれたと伝えられる霊山です。本覚寺は山田智祥上人により再興され、昭和50年より約10年を経て現状に至っています
大興善寺は養老元年(717年)行基菩薩がこの地で草庵を結び十一面観世音菩薩を刻み安置なされたことが寺の由来として伝承されています。現在は、花寺「つつじ寺」の愛称で親しまれ茅葺屋根の本堂は春夏は鮮やかに晩秋は艶やかに「もみじの葉」に彩られます
大同元年(806年)に唐より帰朝した弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げを受け、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号しました。
眞光院は大正年間、福岡県篠栗に開創後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元年、糸島に移転しました。移築に際し「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎えし、鎮守として清瀧大権現をお祀りしています。また伝説のお綱大明神も奉安しています。
金剛寺はJR唐津線の岩屋駅からほど近くの田園地帯にあり、上松浦の要であった獅子ヶ城の守り本尊として伝えられていた別名を厄除け千躰大師と称する尊像を城主鶴田氏衰退後、明治30年3月縁あって大師堂を建立し安置されたのが始めと伝わっています。
恵光院は、筥崎八幡宮の「結縁寺」として、歴代座主の墓所があり菩提を弔っております。そのため廃仏毀釈の難を逃れ、数多くの仏像・仏画等の什物が移され今日に残され、神仏習合の時代における筥崎宮社坊の歴史を知る上で貴重なものとされています。
福岡市のベットタウンとして高層マンションが立ち並ぶ西区姪ノ浜ではありますが、一歩旧道に入ると昔ながらの町並みも残り、その一郭に法蔵院は佇んでいます。昭和初期、瑞光尼より火伏の願いをこめて筑後八女飛形山より十一面観音菩薩を勧請し建立されました。
隆善寺のご本尊将軍地蔵菩薩は諸々の禍や様々な魔に対して、打ち勝たせてくれる地蔵尊です。その他、境内には修行大師を始め、十三仏・文殊菩薩わらべ地蔵などを安置しております。またお腹をくぐりご縁を願うカエルもいます。
宝積寺は久安年間、松浦党・松浦源四郎大夫直が国家の隆昌、住民の安泰、仏道の興隆、一門の繁栄を祈念し祈願寺として開基したお寺です。また佐賀県無形文化財として「脇野の大念仏」が伝承されているお寺でもあります。
西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として建立されたお寺です。ご本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺に安置されていましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移つされました。
西福寺は千年以上の昔から山伏が巨大な岩屋のなかに庵を結んで修行したと伝えられています。山号は平戸城主、松浦道可隆信がこの地で弓に弦を掛けて戦ったことにより「弦掛」という地名が起きたことに由来しています。
寿福寺は天正11年(1582年)の開基ですが、創建当初は「長福寺」と号していました。その後、8代将軍吉宗の嫡男の名前が長福丸であったため、幕府に敬意を払うため「寿福寺」と改称しました。新緑や紅葉の季節の景観は見事だそうです。
展海山 六大寺は松尾山青蓮寺(佐世保市白岳町)の庵浦別院として建立されたのが始まりです。ご本尊は地蔵菩薩で、この庵浦の地に鎮座されて以来、多くの人々の信仰を集め、その慈悲のみ光は檀信徒をはじめ信仰する者に普くそそがれています。
東前寺は、長崎県東彼杵郡波佐見町にある高野山真言宗の寺院です。ご本尊は薬師如来座像で、九州八十八所百八霊場第六十六番札所ともなっていますが、今回は先行して地蔵霊場にスポットを当てて書かせていただきます。本堂裏の自然の石庭は心洗われる景観です。
成就山本願院は、高野山金剛峯寺の塔頭寺院、鍋島本願院の別院として明治初期に建立された寺院です。本堂再興の際に描かれた弘法大師一代記の70枚を含む、数百枚ほどの天井絵で彩られた格天井は素晴らしく、参拝者を唸らせます。
鎮国寺は、弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺です。本堂と見紛うばかりの大きな護摩堂には、護摩堂に霊場ご本尊の不動明王立像(身代り不動)が安置されています。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、境内、文殊堂と地蔵堂の間に霊場ご本尊である聖観音がお祀りされています。
宗像観音寺を創建した全海、光染両僧は観音菩薩が霊夢により地蔵尊の建立を指示され「一言地蔵」の建立となりました。その聖観音様は地蔵堂より先の高台に建っている入母屋造の大きな本堂に秘仏として安置されています。
浄心院は、現在では希少な神仏混合、神仏不二を受け継ぎぐお寺で、浄心法尼が当地において不動明王を感得し、その霊験により創建したと伝わっています。さらに、九州八十八所百八霊場の第九十番札所でもあります。
甘木高野山高野寺は、老後、下の世話をして貰わなくても良いとの御利益がある地蔵尊で、別称「嫁いらず地蔵」とも呼ばれ篤い信仰を集めています。
九州西国観音霊場結願の寺は、菅原道真公ゆかりの太宰府にある観世音寺です。「日本書紀」によれば、天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために発願され、天平18年(746年)80有余年を費やして完成されたと伝わります。
龍宮寺の開創年代は詳らかではありませんが、本尊の聖観音は慈覚大師・円仁の作と伝わり、太閤秀吉が博多の町割りをした頃より「博多七観音」の一つとして、広く人々の信仰を集めていたといわれています。寺名の通り「人魚」にまつわる伝説があるお寺です。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、霊場ご本尊である如意輪観音のが安置されています。
油山観音として親しまれている正覚寺は、敏達天皇の代(572年)に天竺から渡来した清賀上人が、白椿の大樹に千手観音を刻み安置したのにはじまると伝えています。その清賀上人が日本ではじめて椿の実から油をしぼり精製した事が、「油山」と呼ばれる名前の由来になったとの事です。
雷山観音の通称で親しまれている千如寺は、天竺から渡来した清賀上人の開創と伝えられています。ご本尊の十一面千手観音は清賀上人の敬刻といわれ、国の重文指定を受けています。また、本堂前庭には大きな楓の木は、大悲王院建立記念に植樹されたものといわれています。