明石寺は霊場の結願寺で、目の前には多目的ダムもあります。弘法大師空海が唐から帰国した際に訪れ、人々を救済した土地でもあり、その後、江戸初期に留錫した旅僧の霊夢にマタジイの木の根元から大日如来の石仏が出てきたので、大日屋敷と呼ばれていました。
「九州八十八ヶ所百八霊場」「篠栗新四国八十八ヶ所霊場」「九州西国霊場」「九州二十四地蔵尊」「九州三十六不動尊」「九州四十九院薬師霊場」「九州三十三観音霊場」の札所のご紹介やその他の霊場の御朱印をご紹介しています。
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明石寺は霊場の結願寺で、目の前には多目的ダムもあります。弘法大師空海が唐から帰国した際に訪れ、人々を救済した土地でもあり、その後、江戸初期に留錫した旅僧の霊夢にマタジイの木の根元から大日如来の石仏が出てきたので、大日屋敷と呼ばれていました。
大宝元年(701年)に行基菩薩が開山したという歴史ある寺院。堂内には「雲仙大仏」とよばれ、高さ5mの金色に輝く純金箔のお釈迦様が温泉街を見守るように鎮座しています。境内にはぼけ封じ観音や不動尊があり、30分くらいでひとまわりできます。
芳證寺は、細川忠興の二男・細川興秋が創建したキリシタン寺であった長興寺薬師堂が寺の始まりと伝わっています。天草の乱後、天草が天領となり赴任した初代代官の鈴木三郎九郎重成が戦乱により疲弊した天草の平和と再建を願い自らの城を寄付し出来ました。
向陽寺は享保年間に大矢野偏照院の別庵として開かれた寺院でかつては向陽軒と称していたそうです。霊場ご本尊の観音様は「松島慈光観音」と呼ばれていて、その他にも境内には33体の観音様を祀り、寺宝として「雨乞いの鐘」とよばれる梵鐘が保管されています。
九州三十三観音霊場 第二十番札所 西高野山(白山) 普門院 大徳寺
氷川ダムの畔、西の高野山とも称された一大霊場の大行(だいぎょう)寺山(釈迦岳)の頂上近くに所在しする大徳寺は正式には西高野山普門院大徳寺と号し霊場感満載の寺院です。現在は廃寺になっていますが、境内にはぼけ封じの観音様がしっかりとおられました。
興福寺は日蓮宗のお寺です。文明年間(1469年~87年)隈部氏一族が観音菩薩を勧請し、堂宇を建立しましたが、その後、寛文6年に再建し興福寺と改めたそうです。黄金色の釈迦如来像がが列をなし、進学や出産祈願などの拝観者も多いそうです。
含蔵寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、元は十一面観音・不動尊・毘沙門天の観音三尊を奉じた天台宗で高森城主代々の菩提寺でした。天正年間、高森落城の際、兵火にあって、その後禅刹に改められました。三尊は現在の観音堂に安置されています。
満願寺は文永11年(1274年)の元寇の役の際、北条時定が国土安泰を祈願して醍醐三宝院門跡の経杲大僧正を迎えて建てた寺です。この寺には本尊の毘沙門天王の仏像等、多くの貴重な宝物や小文書が収められ、南小国町の歴史・文化の中心となっています。
興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
大光院は、血の池地獄から鉄輪に向かう途中の道路沿いにあり、金峯山修験本宗の寺院です。大光院の御本尊は不動明王で、身代わり不動尊と呼ばれます。 また九州三十三観音霊場第十四番札所ともなっています。
九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所である椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師が修行された霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂 遍照院」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹です。
弘法寺は耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場第1番札所(本尊:十一面観世音菩薩)・同第32番札所(本尊:十一面千手観世音菩薩)・九州三十三観音霊場第10番札所(本尊:大悲観音)となっています。なお、耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場では総本部になっています。
仏生寺は、大分県と福岡県の県境、日田市にある浄土宗のお寺です。元々は浄土宗の教会所として開かれ、以来150年余りを経て、今日に至っています。なお、近くにある「高塚地蔵尊」の受け持ち寺ともなっています。
宝積寺は中世に宝積禅寺としてこの地に祀られていました。明治の廃仏毀釈により一時は廃寺となっていましたが、昭和に入り復興されました。 ご本尊の大日如来坐像は柿材を用いた寄木作りで、脇侍の造毘沙門天立像とともに日田市有形文化財となっています。
筑紫の小京都ともいわれる秋月の東にそびえる古処山(862m)は仏教大師最澄が唐より帰朝した折、この山の霊木をもって薬師如来七体を彫まれたと伝えられる霊山です。本覚寺は山田智祥上人により再興され、昭和50年より約10年を経て現状に至っています
九州三十三観音霊場第四番札所並びに九州四十九院薬師霊場第四十九番札所 小松山 大興善寺
大興善寺は養老元年(717年)行基菩薩がこの地で草庵を結び十一面観世音菩薩を刻み安置なされたことが寺の由来として伝承されています。現在は、花寺「つつじ寺」の愛称で親しまれ茅葺屋根の本堂は春夏は鮮やかに晩秋は艶やかに「もみじの葉」に彩られます
九州八十八ヶ所百八霊場第八十八番番札所並びに第百八番札所 屏風山 鎮国寺並びに奥の院
大同元年(806年)に唐より帰朝した弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げを受け、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号しました。
眞光院は大正年間、福岡県篠栗に開創後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元年、糸島に移転しました。移築に際し「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎えし、鎮守として清瀧大権現をお祀りしています。また伝説のお綱大明神も奉安しています。
金剛寺はJR唐津線の岩屋駅からほど近くの田園地帯にあり、上松浦の要であった獅子ヶ城の守り本尊として伝えられていた別名を厄除け千躰大師と称する尊像を城主鶴田氏衰退後、明治30年3月縁あって大師堂を建立し安置されたのが始めと伝わっています。
黒髪山大智院は大同元年(806年)弘法大師により現在の武雄山内にそびえる霊峰黒髪山上に肥前地方としては最初に開創されました。明治11年に大火災により伽藍を消失してしまいましたが、法灯は護持され明治39年に佐世保の地に移転し復興が始まりました。
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明石寺は霊場の結願寺で、目の前には多目的ダムもあります。弘法大師空海が唐から帰国した際に訪れ、人々を救済した土地でもあり、その後、江戸初期に留錫した旅僧の霊夢にマタジイの木の根元から大日如来の石仏が出てきたので、大日屋敷と呼ばれていました。
大宝元年(701年)に行基菩薩が開山したという歴史ある寺院。堂内には「雲仙大仏」とよばれ、高さ5mの金色に輝く純金箔のお釈迦様が温泉街を見守るように鎮座しています。境内にはぼけ封じ観音や不動尊があり、30分くらいでひとまわりできます。
芳證寺は、細川忠興の二男・細川興秋が創建したキリシタン寺であった長興寺薬師堂が寺の始まりと伝わっています。天草の乱後、天草が天領となり赴任した初代代官の鈴木三郎九郎重成が戦乱により疲弊した天草の平和と再建を願い自らの城を寄付し出来ました。
向陽寺は享保年間に大矢野偏照院の別庵として開かれた寺院でかつては向陽軒と称していたそうです。霊場ご本尊の観音様は「松島慈光観音」と呼ばれていて、その他にも境内には33体の観音様を祀り、寺宝として「雨乞いの鐘」とよばれる梵鐘が保管されています。
氷川ダムの畔、西の高野山とも称された一大霊場の大行(だいぎょう)寺山(釈迦岳)の頂上近くに所在しする大徳寺は正式には西高野山普門院大徳寺と号し霊場感満載の寺院です。現在は廃寺になっていますが、境内にはぼけ封じの観音様がしっかりとおられました。
興福寺は日蓮宗のお寺です。文明年間(1469年~87年)隈部氏一族が観音菩薩を勧請し、堂宇を建立しましたが、その後、寛文6年に再建し興福寺と改めたそうです。黄金色の釈迦如来像がが列をなし、進学や出産祈願などの拝観者も多いそうです。
含蔵寺は鎌倉時代の創建と伝えられ、元は十一面観音・不動尊・毘沙門天の観音三尊を奉じた天台宗で高森城主代々の菩提寺でした。天正年間、高森落城の際、兵火にあって、その後禅刹に改められました。三尊は現在の観音堂に安置されています。
満願寺は文永11年(1274年)の元寇の役の際、北条時定が国土安泰を祈願して醍醐三宝院門跡の経杲大僧正を迎えて建てた寺です。この寺には本尊の毘沙門天王の仏像等、多くの貴重な宝物や小文書が収められ、南小国町の歴史・文化の中心となっています。
興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
大光院は、血の池地獄から鉄輪に向かう途中の道路沿いにあり、金峯山修験本宗の寺院です。大光院の御本尊は不動明王で、身代わり不動尊と呼ばれます。 また九州三十三観音霊場第十四番札所ともなっています。
九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所である椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師が修行された霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂 遍照院」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹です。
弘法寺は耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場第1番札所(本尊:十一面観世音菩薩)・同第32番札所(本尊:十一面千手観世音菩薩)・九州三十三観音霊場第10番札所(本尊:大悲観音)となっています。なお、耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場では総本部になっています。
仏生寺は、大分県と福岡県の県境、日田市にある浄土宗のお寺です。元々は浄土宗の教会所として開かれ、以来150年余りを経て、今日に至っています。なお、近くにある「高塚地蔵尊」の受け持ち寺ともなっています。
宝積寺は中世に宝積禅寺としてこの地に祀られていました。明治の廃仏毀釈により一時は廃寺となっていましたが、昭和に入り復興されました。 ご本尊の大日如来坐像は柿材を用いた寄木作りで、脇侍の造毘沙門天立像とともに日田市有形文化財となっています。
筑紫の小京都ともいわれる秋月の東にそびえる古処山(862m)は仏教大師最澄が唐より帰朝した折、この山の霊木をもって薬師如来七体を彫まれたと伝えられる霊山です。本覚寺は山田智祥上人により再興され、昭和50年より約10年を経て現状に至っています
大興善寺は養老元年(717年)行基菩薩がこの地で草庵を結び十一面観世音菩薩を刻み安置なされたことが寺の由来として伝承されています。現在は、花寺「つつじ寺」の愛称で親しまれ茅葺屋根の本堂は春夏は鮮やかに晩秋は艶やかに「もみじの葉」に彩られます
大同元年(806年)に唐より帰朝した弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げを受け、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号しました。
眞光院は大正年間、福岡県篠栗に開創後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元年、糸島に移転しました。移築に際し「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎えし、鎮守として清瀧大権現をお祀りしています。また伝説のお綱大明神も奉安しています。
金剛寺はJR唐津線の岩屋駅からほど近くの田園地帯にあり、上松浦の要であった獅子ヶ城の守り本尊として伝えられていた別名を厄除け千躰大師と称する尊像を城主鶴田氏衰退後、明治30年3月縁あって大師堂を建立し安置されたのが始めと伝わっています。
黒髪山大智院は大同元年(806年)弘法大師により現在の武雄山内にそびえる霊峰黒髪山上に肥前地方としては最初に開創されました。明治11年に大火災により伽藍を消失してしまいましたが、法灯は護持され明治39年に佐世保の地に移転し復興が始まりました。
宝積寺は久安年間、松浦党・松浦源四郎大夫直が国家の隆昌、住民の安泰、仏道の興隆、一門の繁栄を祈念し祈願寺として開基したお寺です。また佐賀県無形文化財として「脇野の大念仏」が伝承されているお寺でもあります。
西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として建立されたお寺です。ご本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺に安置されていましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移つされました。
西福寺は千年以上の昔から山伏が巨大な岩屋のなかに庵を結んで修行したと伝えられています。山号は平戸城主、松浦道可隆信がこの地で弓に弦を掛けて戦ったことにより「弦掛」という地名が起きたことに由来しています。
寿福寺は天正11年(1582年)の開基ですが、創建当初は「長福寺」と号していました。その後、8代将軍吉宗の嫡男の名前が長福丸であったため、幕府に敬意を払うため「寿福寺」と改称しました。新緑や紅葉の季節の景観は見事だそうです。
展海山 六大寺は松尾山青蓮寺(佐世保市白岳町)の庵浦別院として建立されたのが始まりです。ご本尊は地蔵菩薩で、この庵浦の地に鎮座されて以来、多くの人々の信仰を集め、その慈悲のみ光は檀信徒をはじめ信仰する者に普くそそがれています。
東前寺は、長崎県東彼杵郡波佐見町にある高野山真言宗の寺院です。ご本尊は薬師如来座像で、九州八十八所百八霊場第六十六番札所ともなっていますが、今回は先行して地蔵霊場にスポットを当てて書かせていただきます。本堂裏の自然の石庭は心洗われる景観です。
成就山本願院は、高野山金剛峯寺の塔頭寺院、鍋島本願院の別院として明治初期に建立された寺院です。本堂再興の際に描かれた弘法大師一代記の70枚を含む、数百枚ほどの天井絵で彩られた格天井は素晴らしく、参拝者を唸らせます。
鎮国寺は、弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺です。本堂と見紛うばかりの大きな護摩堂には、護摩堂に霊場ご本尊の不動明王立像(身代り不動)が安置されています。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、境内、文殊堂と地蔵堂の間に霊場ご本尊である聖観音がお祀りされています。
宗像観音寺を創建した全海、光染両僧は観音菩薩が霊夢により地蔵尊の建立を指示され「一言地蔵」の建立となりました。その聖観音様は地蔵堂より先の高台に建っている入母屋造の大きな本堂に秘仏として安置されています。
浄心院は、現在では希少な神仏混合、神仏不二を受け継ぎぐお寺で、浄心法尼が当地において不動明王を感得し、その霊験により創建したと伝わっています。さらに、九州八十八所百八霊場の第九十番札所でもあります。
甘木高野山高野寺は、老後、下の世話をして貰わなくても良いとの御利益がある地蔵尊で、別称「嫁いらず地蔵」とも呼ばれ篤い信仰を集めています。
九州西国観音霊場結願の寺は、菅原道真公ゆかりの太宰府にある観世音寺です。「日本書紀」によれば、天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために発願され、天平18年(746年)80有余年を費やして完成されたと伝わります。
龍宮寺の開創年代は詳らかではありませんが、本尊の聖観音は慈覚大師・円仁の作と伝わり、太閤秀吉が博多の町割りをした頃より「博多七観音」の一つとして、広く人々の信仰を集めていたといわれています。寺名の通り「人魚」にまつわる伝説があるお寺です。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、霊場ご本尊である如意輪観音のが安置されています。
油山観音として親しまれている正覚寺は、敏達天皇の代(572年)に天竺から渡来した清賀上人が、白椿の大樹に千手観音を刻み安置したのにはじまると伝えています。その清賀上人が日本ではじめて椿の実から油をしぼり精製した事が、「油山」と呼ばれる名前の由来になったとの事です。
雷山観音の通称で親しまれている千如寺は、天竺から渡来した清賀上人の開創と伝えられています。ご本尊の十一面千手観音は清賀上人の敬刻といわれ、国の重文指定を受けています。また、本堂前庭には大きな楓の木は、大悲王院建立記念に植樹されたものといわれています。
常安時の東南に岸岳という山があり、その北壁の「笹の手」と称ばれる岸壁の下に自然の洞窟「垂玉」がありますが、弘法大師が唐よりの帰途、霊夢により垂玉に導かれ止錫されたのが、常安禅寺のはじまりとされています。
福石観音の通称で親しまれている清岩寺は、和銅3年(710年)、この地に巡錫された行基菩薩が、自刻の「七観音」の一つである十一面観音を岩窟に安置したことにはじまると伝えられています。
伝えるところでは、円通山観音寺は和銅2年(709年)、「行基七観音」の内の一つ、千手観音を安置したことにはじまるとされています。観音堂は天明年間(1781年~89年)建立の総欅造りで、たくさんの彫刻が施されています。