興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
「九州八十八ヶ所百八霊場」「篠栗新四国八十八ヶ所霊場」「九州西国霊場」「九州二十四地蔵尊」「九州三十六不動尊」「九州四十九院薬師霊場」「九州三十三観音霊場」の札所のご紹介やその他の霊場の御朱印をご紹介しています。
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興禅院は由布院駅から徒歩10分ほどのところにある1370年創建の曹洞宗の寺院。ご本尊は釈迦牟尼仏です。本堂は鉄筋コンクリート造。境内には十三仏や十六羅漢などの尊像の他、青の洞門を開創した禅海和尚の石像も安置されています。
大光院は、血の池地獄から鉄輪に向かう途中の道路沿いにあり、金峯山修験本宗の寺院です。大光院の御本尊は不動明王で、身代わり不動尊と呼ばれます。 また九州三十三観音霊場第十四番札所ともなっています。
九州三十三観音第十二番札所、豊後四国八十八ヶ所総本山第四十八番札所である椿観音「善通寺椿大堂」と、弘法大師が修行された霊窟(椿大師発祥の岩窟)のある第四十九番札所、椿大師「椿堂 遍照院」が、一つの境内の中にあり弘法大師ゆかりの名刹です。
弘法寺は耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場第1番札所(本尊:十一面観世音菩薩)・同第32番札所(本尊:十一面千手観世音菩薩)・九州三十三観音霊場第10番札所(本尊:大悲観音)となっています。なお、耶馬溪新四国八十八ヵ所霊場では総本部になっています。
仏生寺は、大分県と福岡県の県境、日田市にある浄土宗のお寺です。元々は浄土宗の教会所として開かれ、以来150年余りを経て、今日に至っています。なお、近くにある「高塚地蔵尊」の受け持ち寺ともなっています。
宝積寺は中世に宝積禅寺としてこの地に祀られていました。明治の廃仏毀釈により一時は廃寺となっていましたが、昭和に入り復興されました。 ご本尊の大日如来坐像は柿材を用いた寄木作りで、脇侍の造毘沙門天立像とともに日田市有形文化財となっています。
筑紫の小京都ともいわれる秋月の東にそびえる古処山(862m)は仏教大師最澄が唐より帰朝した折、この山の霊木をもって薬師如来七体を彫まれたと伝えられる霊山です。本覚寺は山田智祥上人により再興され、昭和50年より約10年を経て現状に至っています
大興善寺は養老元年(717年)行基菩薩がこの地で草庵を結び十一面観世音菩薩を刻み安置なされたことが寺の由来として伝承されています。現在は、花寺「つつじ寺」の愛称で親しまれ茅葺屋根の本堂は春夏は鮮やかに晩秋は艶やかに「もみじの葉」に彩られます
大同元年(806年)に唐より帰朝した弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げを受け、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号しました。
眞光院は大正年間、福岡県篠栗に開創後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元年、糸島に移転しました。移築に際し「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎えし、鎮守として清瀧大権現をお祀りしています。また伝説のお綱大明神も奉安しています。
金剛寺はJR唐津線の岩屋駅からほど近くの田園地帯にあり、上松浦の要であった獅子ヶ城の守り本尊として伝えられていた別名を厄除け千躰大師と称する尊像を城主鶴田氏衰退後、明治30年3月縁あって大師堂を建立し安置されたのが始めと伝わっています。
黒髪山大智院は大同元年(806年)弘法大師により現在の武雄山内にそびえる霊峰黒髪山上に肥前地方としては最初に開創されました。明治11年に大火災により伽藍を消失してしまいましたが、法灯は護持され明治39年に佐世保の地に移転し復興が始まりました。
嬉野温泉郷に近く、肥前吉田焼の窯元が連なる吉田の町に甍を並べる大定寺は慶長年間に藩主鍋島直純が開山、権大僧都阿金和尚を迎え創建されたと伝えられ、鍋島藩の祈願寺として栄えました。境内には大きな楠の古木がそびえ、新旧さまざまな石仏が並んでいます。
光明寺は「南無薬師諸病疾除の瑠璃の寺肥前湯の町尽きぬことなし」とご詠歌に歌われている様に温泉の守護として土地の人々に見守られながら今日に至っています。境内や参道には多くの石仏が手作りの赤い胸当てを掛けてお参りの方々を暖かく迎えています。
大勝寺は千葉県成田市の成田山新勝寺が本山で、その大本山の御本尊南無大日大聖不動明王(弘法大師一刀三礼謹刻開眼)の分身がご本尊です。1972年、九州のほぼ中央に位置し眼下に有明海が広がるこの地に開創し、九州一円の信徒の心の寄り処となっています。
金剛乗寺は天長2年(825年)弘法大師の開基にて「西の高野」と称され、当時は大伽藍を構えていました。文明5年(1473年)山鹿の温泉涸渇の折、中興宥明法印が、祈祷により温泉を復活させたのを祝って、山鹿の温泉祭が始められたそうです。 また、法印供養法要の際、山鹿庶民の献じた紙灯篭が灯篭祭の始まりとされています。
青井山高野寺は国宝「青井阿蘇神社」の門前にお寺を構えています。大正15年、初代良戒大和尚により開山されました。当時から「お大師さん」や「こうやさん」と 呼ばれ、皆様に親しまれているお寺です。
生善院は通称「猫寺」と呼ばれ、寛永2年(1625年)謀反の疑いで非業の死をとげた普門寺第5代住職盛譽法印と後を追って死んだその母玖月善女、そして化け猫と化した愛猫「玉垂」を祀るために人吉藩主相良長毎公により建立されました。
大国寺は川上英明師が枕崎を台風の被害から守護するために百日間の願を立て、国見岳を望むと、観音の姿が顕れたことにより、この地に堂宇を建立しました。境内には手作りの三大仏(大日観音、白竜観音、弘法大師)をはじめ百体以上の仏様が安置しされています
文明13年(1481年)京の僧が「愛宕将軍地蔵尊・不動明王」の両尊を奉して寺を建立し、両尊を安置して「妙光寺」と号したのが賢龍寺の始まりと伝わっています。その後、幾多の衰微を経ながらもその都度再興され今日に至っています。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、境内、文殊堂と地蔵堂の間に霊場ご本尊である聖観音がお祀りされています。
宗像観音寺を創建した全海、光染両僧は観音菩薩が霊夢により地蔵尊の建立を指示され「一言地蔵」の建立となりました。その聖観音様は地蔵堂より先の高台に建っている入母屋造の大きな本堂に秘仏として安置されています。
浄心院は、現在では希少な神仏混合、神仏不二を受け継ぎぐお寺で、浄心法尼が当地において不動明王を感得し、その霊験により創建したと伝わっています。さらに、九州八十八所百八霊場の第九十番札所でもあります。
甘木高野山高野寺は、老後、下の世話をして貰わなくても良いとの御利益がある地蔵尊で、別称「嫁いらず地蔵」とも呼ばれ篤い信仰を集めています。
九州西国観音霊場結願の寺は、菅原道真公ゆかりの太宰府にある観世音寺です。「日本書紀」によれば、天智天皇が母の斉明天皇の菩提を弔うために発願され、天平18年(746年)80有余年を費やして完成されたと伝わります。
龍宮寺の開創年代は詳らかではありませんが、本尊の聖観音は慈覚大師・円仁の作と伝わり、太閤秀吉が博多の町割りをした頃より「博多七観音」の一つとして、広く人々の信仰を集めていたといわれています。寺名の通り「人魚」にまつわる伝説があるお寺です。
鎮国寺は、中国より帰朝された弘法大師が、鎮護国家の根本道場として最初に建立された寺で、本堂(五仏堂)には、宗像五社の本地仏とされる大日、釈迦、薬師、阿弥陀如来とともに、霊場ご本尊である如意輪観音のが安置されています。
油山観音として親しまれている正覚寺は、敏達天皇の代(572年)に天竺から渡来した清賀上人が、白椿の大樹に千手観音を刻み安置したのにはじまると伝えています。その清賀上人が日本ではじめて椿の実から油をしぼり精製した事が、「油山」と呼ばれる名前の由来になったとの事です。
雷山観音の通称で親しまれている千如寺は、天竺から渡来した清賀上人の開創と伝えられています。ご本尊の十一面千手観音は清賀上人の敬刻といわれ、国の重文指定を受けています。また、本堂前庭には大きな楓の木は、大悲王院建立記念に植樹されたものといわれています。
常安時の東南に岸岳という山があり、その北壁の「笹の手」と称ばれる岸壁の下に自然の洞窟「垂玉」がありますが、弘法大師が唐よりの帰途、霊夢により垂玉に導かれ止錫されたのが、常安禅寺のはじまりとされています。
福石観音の通称で親しまれている清岩寺は、和銅3年(710年)、この地に巡錫された行基菩薩が、自刻の「七観音」の一つである十一面観音を岩窟に安置したことにはじまると伝えられています。
伝えるところでは、円通山観音寺は和銅2年(709年)、「行基七観音」の内の一つ、千手観音を安置したことにはじまるとされています。観音堂は天明年間(1781年~89年)建立の総欅造りで、たくさんの彫刻が施されています。
長崎山清水寺のご本尊の十一面観音は、京都の清水寺にあったもので、清水寺光乗院の慶順が、この尊像を護持して長崎を訪ねた時、白い光を放つ瑞光石のあるのを見つけ、ここを霊地と定めて堂宇を建て尊像を安置したのが、清水寺のはじまりと伝えられています。
神亀年間(724年-729年)、行基菩薩により開基されたと伝わります。 本尊「聖観音」も「行基七観音」のなかの一体です。癌封じの観音様といった信仰も生まれ、目が失っても救ってくださると熱心な信者も多いそうです。
和銅元年(708年)元明天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝える和銅寺。ご本尊は「行基七観音」の内の一体であり、県文化財に指定されています。
竹崎山観世音寺は和銅2年(709年)、行基菩薩による開基と伝えられ、本尊千手観音は、札所14番雲巖寺の本尊などと一木同作といわれる「行基七観音」の内の一体です。
清水観音の通称で親しまれている寳地院は、延暦22年(803年)、桓武天皇の勅願により、伝教大師最澄の名代として来山した比叡山黒谷、聖命上人により開創されたと伝えられています。
地蔵院は天平元年(729)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基した護国寺三十六坊の一つであり、明治時代の神仏分離令でも残された寺院で、仁比山神社のすぐ隣にあります。
白鳳2年(673年)、天武天皇の勅願寺として創建されたと伝えられ、和銅元年(708年)行基菩薩が寄錫され、その翌年七堂伽藍が造営されました。元明天皇より「観音寺」の勅号を賜ったとされています。河童と「牛鬼の手」の伝説でも有名で、のミイラも秘蔵されています。
草野太郎常門は榧の霊木に千手観音を刻し、白雉元年(650年)堂宇を建立して「普光院」と名づけたのが観興寺の始まりと伝わります。その後、時の天智天皇より観興寺の勅号が下賜されるとともに「普光院」の勅額を賜りました。