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  • ご本意の願(深川和上)

    ご本意の願十八願はそのまま救う。信ぜさせ、行ぜさせ(称えさせ)て救う。十九願は色々な修行をした人を救う。二十願はお称名(しょうみょう)を称(とな)えた者を救うとある。さてこれをどうするか、法然上人のお弟子の間で、これをどう頂いたらいいのかと問題になった。阿弥陀さまのご本心は何だ。そりゃ十八願だよ。そりゃわかる。皆さんねえ、本願というものをどのような意味でお考えですか、根本の願ということでお考えですね。それで結構ですが、もっとわかりやすいのはね、ご本意の願、親さまのご本心の願という方がわかりやすい。なら何で阿弥陀さまは十九、二十願をお誓いになったのか。修行をした者を救うとか、お称名をまごころ込めて称えた者を救うという、往生の因法をなぜ用意なさるのかと、法然上人の門下で理解が違いました。宗祖(親鸞聖人)のお示しはど...ご本意の願(深川和上)

  • 柿羊羹の中身は皆柿羊羹(深川倫雄和上)

    柿羊羹の中身は皆柿羊羹(深川倫雄和上)柿羊羹私の子供が、「お父ちゃんバカでよ」というんですよ。「なしてや」「お父ちゃん、お説教の時『柿羊羹の中身は皆柿羊羹』ちゅうよね」「おお、言うよ」「あたりまえじゃないか」「あたりまえじゃから、いいじゃあないか」「そんなら柿羊羹でなくてもいいじゃあないか」「何ならいい」「蒲鉾でもいいじゃないか。蒲鉾の中身は皆、蒲鉾ちゅうて説教しても同じじゃあないか」「違いますよ。蒲鉾買ったら板がついてきますよ」柿羊羹の中身は皆、柿羊羹。阿弥陀さまの中身は皆、私。阿弥陀さまの一部が私で、他は何かというのではない。五劫兆載永劫(ごこうちょうさいようごう)のご苦労も、「四十八願の一々の願に言(のた)わく、若我成仏十方衆生」(善導大師『観経疏』)、阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯です。柿羊羹の中身は皆柿羊羹(深川倫雄和上)

  • 法話1 (深川倫雄和上)

    法話1(深川倫雄和上)阿弥陀さま、阿弥陀さま近頃、「親鸞」、「親鸞」とご開山さまを大事にしすぎる。親鸞と言うとけばそれがお念仏の信仰だと思っている人がある。親鸞・親鸞あまり言わなくてもよろしい。もっと言わなければならないのは「阿弥陀さま、阿弥陀さま」ということ。阿弥陀さまのお慈悲に救われて西方の極楽に参って仏になる。これが私どもの信仰なのです。「此の御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩」であります。大勢の「もの知り」達が親鸞・親鸞と呼び捨てにいたしまして、ご開山さまのことを書くけれども、一体その人達に阿弥陀さまがいるのかと聞きたい。親鸞と書かないでもっと「弥陀」と書いてもらいたい。勿論、ご開山さまを阿弥陀さまのお使いと頂くのがお念仏の頂き方でありますけれども、やはり親鸞聖人に救われるわけではあ...法話1(深川倫雄和上)

  • 自分用メモ(仏願の生起)

    御開山は仏願の生起について『和讃』で、如来の作願をたづぬれば苦悩の有情をすてずして回向を首としたまひて大悲心をば成就せり(正像P.606)とされておられる。この句は『浄土論』の、不捨一切苦悩衆生心常作願廻向為首得成就大悲心故。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに)。(行巻P.159で論註として引文)の文を和讃されたものである。首は、はじめ、第一、中心という意であるから初めから回向なのである。深川倫雄和上はこの意を阿弥陀さまの本願の材料はオマエなんだよ。オマエを材料にしてお前の苦悩を元にご本願が建てられたのだよ、だからオマエは本願の中身なんだよ、と仏願の生起を示して下さった。家内の好きな柿羊羹の法話である。→柿羊羹の中身は皆柿羊羹、仏力を談ずなお...自分用メモ(仏願の生起)

  • 間違ってます。シリーズ(1) 「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。 「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

    間違ってます。シリーズ(1)「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。あなたが「冥福を祈る」と亡くなった方に言うことは「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。よく訃報を聞いた方々が「ご冥福をお祈りしています」などとSNSに書き込んでいるのを見ることがあります。いやほとんどの人が書き込んでいます。これは何の影響か?「冥」という字のもつイメージと「福」という意味が死者に対して敬意を表しているようなイメージがあるのでしょうか?ほんといつからか知識者にまで誤用が広がっています。「冥福」ウィキペディアに、仏教でも使うなどと書いてありますが、大間違いです。ウィキペディアのタブーの欄に書いてあることが一部正答、あっていると思います。ちなみにウィキペディアでは死者が行く先で...間違ってます。シリーズ(1)「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

  • いつでも心に留めておかなければならない話(2)

    生活と仏教が重なる、そのことを親鸞聖人は、生活の中に「信心のしるし」が生まれる信心のしるし(上)本多靜芳(東京教区万行寺住職アーユス仏教国際協力ネットワーク理事)[2015年1月1日号(第118号)]・信楽峻麿先生との出遇い信楽先生と初めて、お話しをする機会に恵まれたのは、1991年、日本佛教学会学術大会が開催された大正大学でした。当日、私は、真宗教団における負の遺産である『真俗二諦論』の展開とその功罪、そして、本願寺派教団の基幹運動の展開とその問題点などの研究発表をしました。終了後、同会場におられた先生に、ご挨拶をし、また発表についてのご助言をお願いしました。先生は、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか、ということじゃよ」というお言葉を頂いたのです。いや、そういう言葉として私の記憶に残ってしまい...いつでも心に留めておかなければならない話(2)

  • いつでも心に留めておかなければならない話(1)

    いつでも心に留めておかなければならない話(1)初心に戻って自分の法話を点検しています。「浄土」は「また出会える世界」??渡邊了生(東京仏教学院講師)[2015年1月1日号(第118号)]「また出会える世界」という言葉を、よく耳にします。それこそが親鸞聖人の「浄土」観の第一義であるかのように。確かに「愛別離苦」(愛し合う者が離ればなれにならなければならない苦悩)の悲しみを抱える人達にとって「また出会える世界」は、その苦しみを癒すための未来の理想郷ともいえましょう。けれども親鸞聖人は、そのような私達の現実の苦悩や欲求を都合よく満足させていく世界こそが「浄土」であると説示されたのでしょうか?ある事故で婚約者を亡くされた方が、あまりの現実の苦悩・悲しみにさいなまれ、その後「あなたに会いたい、会うには私が行くしかない」と...いつでも心に留めておかなければならない話(1)

  • いつでも心に留めておかなければならない話(1)

    いつでも心に留めておかなければならない話(1)初心に戻って自分の法話を点検しています。「浄土」は「また出会える世界」??渡邊了生(東京仏教学院講師)[2015年1月1日号(第118号)]「また出会える世界」という言葉を、よく耳にします。それこそが親鸞聖人の「浄土」観の第一義であるかのように。確かに「愛別離苦」(愛し合う者が離ればなれにならなければならない苦悩)の悲しみを抱える人達にとって「また出会える世界」は、その苦しみを癒すための未来の理想郷ともいえましょう。けれども親鸞聖人は、そのような私達の現実の苦悩や欲求を都合よく満足させていく世界こそが「浄土」であると説示されたのでしょうか?ある事故で婚約者を亡くされた方が、あまりの現実の苦悩・悲しみにさいなまれ、その後「あなたに会いたい、会うには私が行くしかない」と...いつでも心に留めておかなければならない話(1)

  • 浄土真宗の他力とは(1)

    浄土真宗の他力とは(1)他力とは如来の本願力なり小林一茶は、熱心な浄土真宗門徒だったとのこと。「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」しか知らなかったのですが、僧侶になって一茶の言葉を色々と見つけています。私の寺の住職に教えていただいた小林一茶の言葉を一つ紹介します。「他力信心他力信心と一向に他力にちからを入れて頼み込み候輩はつひに他力縄に縛られて自力地獄の炎の中へぼたんとおち入候」他力他力他力とよく言う方がおられます。そのような方にこの言葉をお話しさせていただきます。他力他力と強調する方がおられますが、自力地獄の炎の中へぼたんとおち入っているんではないですか?私も気をつけようと思います。また「ともかくもあなたまかせの年の暮れ」という句があります。「あなた」とは阿弥陀仏のこと。「年の暮れ」とは自身の晩年のこと。浄土...浄土真宗の他力とは(1)

  • 二尊の遣喚

    二尊の遣喚って皆さんよく聞くのではありませんか?【キーワード】二河白道、釈迦の遣言、弥陀の招喚前は弥陀後ろは釈迦に中は我押され引かれて参るうれしさ(出典古歌)◎釈迦「きみただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし止まらばすなはち死せん」弥陀「なんぢ一心に正念にしてただちに来たれ、われよく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」☆「玄義分」の序題門には、「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」(『真聖全』一・四四三)とあり、「散善義」の回向発願心釈には、「仰いで釈迦発遣して指へて叫方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく...二尊の遣喚

  • 浄土真宗の素晴らしさ

    浄土真宗の素晴らしさとはなんでしょうか?一言で言うと現生正定聚今生をこの身このままで「仏に成る身にならせていただける」と言うことです。浄土真宗の素晴らしさ

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