昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。
『岩石を信仰していた日本人』著者・吉川宗明運営のホームページ。日本宗教民俗学会会員。神道・仏教・民間信仰でまつられた聖なる石。民俗学・考古学・文献史の狭間で忘れられた岩石信仰を歴史学的に研究。
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昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。
室生山の岩窟(後に龍の思想と結合し、龍神・龍王の住む龍穴と呼ばれるようになり、龍穴信仰の対象となる)には、須勢理姫命が入り、巨岩でその口を塞ぎ、更に赤埴土を以って塗りこめ、鎮座していたという。(略)須勢理姫命は最初に鎮まった室生山の岩窟から、延暦九年(七九〇)赤埴の地白岩に遷座し、赤埴白岩神社となっ
竹野(1937年)は社殿周囲に「完全なるストーンサークル」が遺存していると記す。近年、炭竈を築くために西方の一部が破壊されたともある。
大平山のすぐ西隣の一峰をかつて大将軍山と呼んだことは今あまり知られていない。大将軍の名は元禄年間(1688~1704年)の水帳に見られるといい(竹野 1937年)、地元の人々からは「ダイジョウゴン」「ダイジングウ」の通称で大将軍山中腹の岩群をまつった。その後、明治時代に神仏分離が進む中で
「岩石信仰研究の視点」は、岩石信仰が自然信仰であり、主客の関係でいえば自然が主で人間が客体という意味での人間研究として執筆したものです。
立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。
本書前半では海外の石と国内の石を巡る随想の中で徐々に牙をむき、後半ではロジェ・カイヨワの批判から地質学的知性を経由したうえで地球規模の科学と科学者への警鐘に発展。石から世界を考える指針をふんだんに摂取できる名著。
縄文時代中期の遺跡として考古学上有名な尖石遺跡。その遺跡地の南側斜面に存在する尖石は「縄文時代に石器を研いだ砥石」説があるが、この批判的検討を行う。
2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければ
webメディア「Less is More. 」では、グローバル化・デジタル化する世界で失われる/失いたくないモノや概念などを取り上げており、その一つとして巨石・磐座信仰(私が言うところの岩石信仰)に白羽の矢が立ちました。
弘化年間(1844-1848年)に成立した羽田野栄木の『三河国古蹟考』によると「社の後に大なる岩石あり此を神体とすと云り、其石たてに三間許さしわたし三間許宝珠形に似たり」とある。
いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。
神聖視・特別視された自然石も文化財であるという「自然石文化財」の視点を提示しています。 私はこれまで岩石信仰の研究で人工的に加工・設置された岩石と自然のままでまつられた岩石の両方を一括して続けてきましたが、設楽町の調査を通して、とりわけ自然石の信仰・特別視の文化保存が重要であることを明確に意識でき
奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角に道祖神社が構え、社殿脇に上写真の高さ1.3mの岩石がまつられている。社殿脇に置かれた巨石は、今はもう拝観することのできない神体石の代わりに、当社の岩石信仰を視覚的に受け継いだ存在となっていると言える。
地震石、地震押さえ石、要石などの名称が伝わる。 いかに大震災があっても、この岩石があるためにこの地は微動だにしないといわれて、かつては石上に生す苔を取って地震除けの守護とする者が多かったという。
2023年7月に公開された宮﨑駿監督の映画「君たちはどう生きるか」では、石がさまざまなモチーフとして登場した。けっして石が主題の映画ではないが、妙に石が多用されてあれらは何だったのか印象に残るらしい。作品自体の評価は手に負えないが、石の部分だけ触れておこう。
通称「万次の石仏」は万治3年(1660年)の銘文が刻まれることからその名があるが、地元での昔からの名称は「浮島の阿弥陀さま」だったらしい。さらに、地元に残る寛政2年(1790年)成立の『山之神講文書』の文化2年(1805年)の事跡として「みたらし石仏」の名が記されている。
本ページは、ロビン・ダンバー[著]・小田哲[訳]・長谷川眞理子[解説]『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(白揚舎 2023年)を読みながら記録したメモである。個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報
村井康彦氏の『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波書店 2013年)に 「磐座祭祀をたどる」と題された一節があり、磐座は出雲系統の祭祀・信仰を象徴するものだったとする仮説が提示されている。本記事では、村井氏の磐座論がどのような根拠で展開されているかを読みながら所見をメモしていきたい。
信玄が川中島合戦に赴くとき、慈雲寺七世天桂玄長禅師を訪ね戦勝の教えを乞うた。玄長は境内の大石に案内し、大石の霊力を説いて石の上に立ち矢を射掛けるよう命じた。部下が一斉に矢を放ったが一本として玄長一本としてに当たらない。一同驚き、この石の念力の確かさに敬服した。玄長はこの念力のこもる矢除札を授けて信玄
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
タノカンサァは、薩摩藩が支配していた鹿児島県・宮崎県に多く分布する神で、石像の形をとるものが多いが、磨崖の形態などで彫られるものも見られる。
据石ヶ丘遺跡は縄文時代の遺跡ということだが、鹿児島県教育委員会編『鹿児島県文化財調査報告書 第11集 別冊』(1964年)によると、据石ヶ岡から縄文時代早期の押型文土器が見つかっているとある。これのことを指すだろうか。地名としては、据石ヶ丘、据石ヶ岡、据石岡などの表記の揺れがあるが、この丘陵をそ
台湾国立政治大学日本語文学科教授の鄭家瑜氏の論文「日台の石信仰――神話から民俗へ」の書評。日本と台湾の石信仰(岩石信仰)の事例を取り上げて比較研究する。
藤井修平氏『科学で宗教が解明できるか 進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生』(勁草書房 2023年)を読みながら、私自身が今後覚えておきたいと思った重要な部分をメモしたものである。 自分用申し送りの色が濃いため、読者に読ませる体裁で文章を書いていないが本書の概要紹介と同様の問題意識をもつ方の
倉石忠彦氏の論文「道祖神伝承における自然石道祖神」(『信濃』第75巻第1巻、2023年)は、道祖神の素材として用いられる岩石のうち、自然石のままでまつられた道祖神に着目して書かれた論考である。
岩石信仰の研究者から離れ、一個人としてお応えする「推しの岩」「推しの石」。巨石・巨岩部門、小石部門、マイルストーン部門、まずはここから案内したい入門編に分けて紹介。いわゆる巨石・磐座のガイドブックとして活用してください。
通称「妙見神社の巨石群」。本記事では、歴史的に辿ることができて、当地の岩石信仰と神仏の関係をよく表す、妙見大菩薩石聚神社・石牟礼妙見大菩薩の名を優先して表題に掲げておくことにする。
全国各地に残る「神籠石」の中でも南限に近い事例。神籠石の概要、「こうごいし」か「しんごいし」か、岩陰の摩崖仏や天井部でおこなわれた行事、東へ200m地点にあるという天狗岩、山頂の「環状列石」についてのまとめ。
石體神社(せきたいじんじゃ)は、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の原鎮座地とされており、秘匿された石體(石躰・石体)をまつる神社。秘匿されたから、石體の由来や岩石の様態にさまざまな説が生まれる。境内の岩石祭祀「御石」「石塔」も紹介。
伊勢地域におけるミシャグジ事例の一つ。積み石の前に小鳥居と白狐が献ぜられており、二見興玉神社の「天の岩屋」(通称:石神/佐軍神)同様に岩石をもってまつられたミシャグジ事例ということで、石神とも領域が重なる存在となる。
村松漁港に接して鎮座する漁師の守り神とされる神社。社殿の隣に並置して岩礁にも似た「積み石」がまつられる。
志摩3大石神の1つとされるが、歴史的に調査していくと磯部神社に合祀される前の村社・谷ノ神社(谷社)としての岩石信仰が垣間見える場所。歴史がわからなくなる前に経緯を記録する。
加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。
岩石に彫りたい対象を模索し、彷徨うとき。岩石の存在を人づてに聞くとき。岩石の存在に偶然出会うとき。母岩から必要な岩石を切り出すとき、拾うとき。岩石に彫刻の手を入れようとするとき。加工しているとき。加工した中から新たな石面を見たとき。岩石を加工する中で破片が飛び出るとき。
二見浦から伊勢神宮に向かう五十鈴川沿いに残る二つの岩石。破石は鎌倉時代の『とはずがたり』に記され、御座石は倭姫命伝説や伊勢神宮の神事と関連して登場する。「鬼滅の刃」の「二つに割れた石」ブームの一事例として挙げることもできる。
高さ百尺余りと案内される一枚岩が神社の背後にひかえており、神社の選地の源となったことは明らかだろう。巨岩信仰と形容するより岩山信仰のスケール感であり、岩山の名前はキントウ山ないしはギントウ山と呼ばれるという。
岩石信仰の歴史を、遡りうる最古の時代(旧石器時代)から現代まで一気に説明します。具体的には、それぞれの時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・近現代)の特徴的と思われる事例・場所をピックアップして、視覚的にも楽しめ
「出かわり乃 神もありてや 葛籠石」伊勢自動車道を作る際に移設されたため原位置ではない。岩石の配置も、立地する斜面傾斜によって異なっていた可能性があるだろう。
南伊勢町一帯には複数の山中に「列石」の存在が報告されている。その代表格が龍仙山のドビロという地区にある列石で、一般的には「神籠石」の名称で知られる。現地観察と文献調査をふまえて所感をまとめる。