「岩石信仰研究の視点」は、岩石信仰が自然信仰であり、主客の関係でいえば自然が主で人間が客体という意味での人間研究として執筆したものです。
『岩石を信仰していた日本人』著者・吉川宗明運営のホームページ。日本宗教民俗学会会員。神道・仏教・民間信仰でまつられた聖なる石。民俗学・考古学・文献史の狭間で忘れられた岩石信仰を歴史学的に研究。
「岩石信仰研究の視点」は、岩石信仰が自然信仰であり、主客の関係でいえば自然が主で人間が客体という意味での人間研究として執筆したものです。
立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。
本書前半では海外の石と国内の石を巡る随想の中で徐々に牙をむき、後半ではロジェ・カイヨワの批判から地質学的知性を経由したうえで地球規模の科学と科学者への警鐘に発展。石から世界を考える指針をふんだんに摂取できる名著。
縄文時代中期の遺跡として考古学上有名な尖石遺跡。その遺跡地の南側斜面に存在する尖石は「縄文時代に石器を研いだ砥石」説があるが、この批判的検討を行う。
2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければ
「失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー」掲載
webメディア「Less is More. 」では、グローバル化・デジタル化する世界で失われる/失いたくないモノや概念などを取り上げており、その一つとして巨石・磐座信仰(私が言うところの岩石信仰)に白羽の矢が立ちました。
岩上神社の岩神/岩神さん/岩神様/岩神大明神(愛知県蒲郡市)
弘化年間(1844-1848年)に成立した羽田野栄木の『三河国古蹟考』によると「社の後に大なる岩石あり此を神体とすと云り、其石たてに三間許さしわたし三間許宝珠形に似たり」とある。
いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。
資料報告「愛知県北設楽郡設楽町(旧名倉村域)における自然石の文化財」
神聖視・特別視された自然石も文化財であるという「自然石文化財」の視点を提示しています。 私はこれまで岩石信仰の研究で人工的に加工・設置された岩石と自然のままでまつられた岩石の両方を一括して続けてきましたが、設楽町の調査を通して、とりわけ自然石の信仰・特別視の文化保存が重要であることを明確に意識でき
奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角に道祖神社が構え、社殿脇に上写真の高さ1.3mの岩石がまつられている。社殿脇に置かれた巨石は、今はもう拝観することのできない神体石の代わりに、当社の岩石信仰を視覚的に受け継いだ存在となっていると言える。
地震石、地震押さえ石、要石などの名称が伝わる。 いかに大震災があっても、この岩石があるためにこの地は微動だにしないといわれて、かつては石上に生す苔を取って地震除けの守護とする者が多かったという。
2023年7月に公開された宮﨑駿監督の映画「君たちはどう生きるか」では、石がさまざまなモチーフとして登場した。けっして石が主題の映画ではないが、妙に石が多用されてあれらは何だったのか印象に残るらしい。作品自体の評価は手に負えないが、石の部分だけ触れておこう。
みたらし石仏/浮島の阿弥陀さま/万治の石仏(長野県諏訪郡下諏訪町)
通称「万次の石仏」は万治3年(1660年)の銘文が刻まれることからその名があるが、地元での昔からの名称は「浮島の阿弥陀さま」だったらしい。さらに、地元に残る寛政2年(1790年)成立の『山之神講文書』の文化2年(1805年)の事跡として「みたらし石仏」の名が記されている。
『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(2023年)学習メモ
本ページは、ロビン・ダンバー[著]・小田哲[訳]・長谷川眞理子[解説]『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(白揚舎 2023年)を読みながら記録したメモである。個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報
村井康彦氏の『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波書店 2013年)に 「磐座祭祀をたどる」と題された一節があり、磐座は出雲系統の祭祀・信仰を象徴するものだったとする仮説が提示されている。本記事では、村井氏の磐座論がどのような根拠で展開されているかを読みながら所見をメモしていきたい。
信玄が川中島合戦に赴くとき、慈雲寺七世天桂玄長禅師を訪ね戦勝の教えを乞うた。玄長は境内の大石に案内し、大石の霊力を説いて石の上に立ち矢を射掛けるよう命じた。部下が一斉に矢を放ったが一本として玄長一本としてに当たらない。一同驚き、この石の念力の確かさに敬服した。玄長はこの念力のこもる矢除札を授けて信玄
古墳時代から中近世にかけて、雨境峠では祭祀行為の痕跡が残っており雨境峠祭祀遺跡群と総称する(御座岩・鍵引石・賽の河原・与惣塚・中与惣塚・法印塚・鳴石)。
百丈岩に入定する慈覚大師の強力な視線が、街道を往来する人々にそそがれ守護する風景となる
水が垂れるように岩の上から落ちてきて奇岩を作っている。昔は修験者が冬でも住んでいた。ここは、現在の山寺ができる以前に慈覚大師がいた所で、ここで山寺を開く構想をねった。今は不動様がまつられていて、垂水の観音様と言って信仰されている。
「寒河江の巨石文化遺跡ストーンサークル」と姥石(山形県寒河江市)
主観にもたれつつも後世の批判的研究に審判を委ねる堀場氏、巨石信仰に親和的な立場でありながらも自然成因説で研究対象に冷静な視点を忘れない大場氏、実際に考古学的調査へ乗り出して事実をもって判断する駒井氏、いずれの研究姿勢も現今そして将来の岩石信仰研究において学ぶべきものだろう。
出羽三山の湯殿山は、岩石を「御宝前」と呼んで中近世には湯殿山大権現、明治以降は湯殿山神社本宮そのものとしてまつった。松尾芭蕉が「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」と詠んだように、修験の秘所によってそこで見たことは他言無用といい、現在も湯殿山の神域で写真撮影はできない。
「赤坂の虚空蔵尊」などの名で親しまれる明星輪寺は、金生山(かなぶやま/きんしょうざん)の山塊をなす石灰岩の奇岩怪石に彩られる。岩巣公園という現代名称で総括されるが、実際にはそれぞれの岩石にそれ以前からの名前がつけられている。現在わかっている範囲でまとめる。
『延喜式』神名帳に「仲山金山彦神社」と記された美濃国一宮・南宮大社。詳細不明の岩石信仰として、引常明神磐境石、石船社、駐車場横の岩石、子安神社の王子石、斎館の子宝石、鉱石奉納を紹介。
昔から日照りの続くときは、池田山頂の焼石神社へ雨乞いに詣ることになっており、その年も村人たちは池田山へ登り、焼石神社に必死の雨乞祈願をした。
明神湖の畔に2個横並びに置かれている。道路から向かって右側(東側)がウサギ岩で、左側(西側)がカメ岩である。明神湖はダム湖であり、湖ができる前は湖底に沈んだ岩井谷にあった。ダム工事の際に失われることなく現地へ移設された経緯がある。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、中山道今須宿(いますじゅく)本陣を務める伊藤家に立ち寄り、伊藤家庭内の空泉水の傍にあった岩石に床几を置いて腰掛けたという。
付近には、皇子が下船したという「木船(元貴船)」の地名や、皇子が矢尻で土を掘って湧水が出たという「矢尻池」の地名が残る。
この清水を、『玉倉部の清水』とか、『居醒泉』とよぶようになった。今の関ケ原町玉の鍾乳洞のすぐまえの清水だといわれている。その南の方には、タケルが休んだというまるい腰掛石があり、玉石の地名となった。それが玉という地名のもととも言われる。
本殿の背後、山裾川沿いに「神座石(かぐらいし)」あるいは「御神楽石(おかぐらいし)」と呼ばれる岩石がまつられている。 かつてはこの岩石の前に小祠を置き、石前明神(いわさきみょうじん)と呼んだという。 この祠を岩手家が氏神と位置づけ、現在の形に整備したのが岩崎神社といわれる。
室伏 乙ヶ妻集落の鎮守。本殿の北東隅に接して、山肌から岩が露出している。本殿 - 拝殿の主軸と異なる方向であり、この岩が明確にまつられているという証拠は見当たらないが、この岩を始点に山の斜面を登っていくと尾根沿いに岩石群が散在している。
現地看板および土橋里木『甲斐の伝説』(第一法規出版、1975年)によると、甲石・産屋石・浮舟石・影向石・屏風石・烏帽子石・立烏帽子石・指門石・浮橋石・胎内石・笠石・乳石・子守石・富岩・尾笠石・八畳石・石廠といった名前がついているという。
平野部に微高地状の丘があり、そこに岩群が集中している。この丘を石森山・石森岡と呼ぶ。計22体の岩石に名称が付けられている。日本武尊が東征の折に立ち寄り勧請したともいわれる。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
正造には小石を拾う趣味があり、足尾銅山鉱毒事件に一生を捧げた彼にとって、唯一とも言える趣味だったらしい。その中でも特に3つの小石は、正造が亡くなる時に枕元に置いていた布袋に入っていた。これらは現在、栃木県指定文化財として保存されている。
『高梁川』第38号(1981年)が「特集 石」と題され、約250ページひたすらに各分野有識者の石をテーマにした文章を読むことができる。ここでは、とりわけ岩石と人間の精神的関係において普遍化できうると思われる部分をメモして後考に供したい。
船形の山容をもち、岩肌が各所に露出しているところから岩船山(標高172.2m)の名がある。山腹には岩船山高勝寺があり、関東の高野山、関東の善光寺、日本三大地蔵などの異名も有す。いわく、岩船山は故人の霊魂が宿る山と信じられ、高勝寺は故人の供養、子供の安産や子育てなどの霊験を包括する霊場として篤い信
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
勝尾寺の八天石蔵からみる「イワクラ」「イシクラ」の諸問題(大阪府箕面市)
石座と石蔵とは直線的な系譜が結べるとは限らず、同じ「イワクラ」の音を共通するものでも、出自が「神祭りの磐座系統」と「経塚・牓示の石蔵系統」の二系統から始まっており、それが神仏習合で祭祀を同じくしていく中で岩倉などの表記も生まれていき、現在の複合的なイワクラ概念世界に至ったという流れが想定される。
「医王岩 護り伝へる 大宮寺 諸人敬う 薬師瑠璃光」。別称・薬師岩。醫王岩とも呼ぶ。高さ十二丈にして三層をなし、三巨岩を累積したるが如く、頂上の一岩は特に前方に突出し、其の形薬師の立像に似たるを以て此名あり。里俗は読んで薬師出現の霊石
「小牧山の西腹に観音洞あり。此所は霊仏授乳観是音菩薩の霊現地と伝へらる、時は明応元年三月十八日狩人の矢面に立って霊仏忽ち観音洞七ッ岩に出現せらる」
鳥居龍蔵博士が1929年に報告した、尾張小牧山の頂上にあったという「ストーンサークル(環状列石)」についてのまとめ。
名古屋市内に猪子石(いのこいし/いのこし)と呼ばれる一帯がある。香流(かなれ)川の北岸と南岸の二か所に猪子石と呼ばれる自然石があり、この岩石の存在が猪子石村の地名の発祥とされる。
山腹に露出した一大岩壁に、約1700ともいわれる梵字が刻まれた場所。日本最多の刻字数ともいわれる。
島津藩主・島津斉興が天保6年(1835年)に築いた玉里邸の庭園。庭園の庭石の一つに「磯石」と呼ばれる巨石がある。一箇の岩塊を細かく切断して、そのつぎはぎを再び接合したものとなっている。内部に隠れているものも含めて53〜58個の石片に分割されている。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
タノカンサァは、薩摩藩が支配していた鹿児島県・宮崎県に多く分布する神で、石像の形をとるものが多いが、磨崖の形態などで彫られるものも見られる。
据石ヶ丘遺跡は縄文時代の遺跡ということだが、鹿児島県教育委員会編『鹿児島県文化財調査報告書 第11集 別冊』(1964年)によると、据石ヶ岡から縄文時代早期の押型文土器が見つかっているとある。これのことを指すだろうか。地名としては、据石ヶ丘、据石ヶ岡、据石岡などの表記の揺れがあるが、この丘陵をそ
鄭家瑜「日台の石信仰――神話から民俗へ」(2022年)書評 ~日本と台湾の岩石信仰研究のために~
台湾国立政治大学日本語文学科教授の鄭家瑜氏の論文「日台の石信仰――神話から民俗へ」の書評。日本と台湾の石信仰(岩石信仰)の事例を取り上げて比較研究する。
藤井修平氏『科学で宗教が解明できるか 進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生』(勁草書房 2023年)を読みながら、私自身が今後覚えておきたいと思った重要な部分をメモしたものである。 自分用申し送りの色が濃いため、読者に読ませる体裁で文章を書いていないが本書の概要紹介と同様の問題意識をもつ方の
倉石忠彦「道祖神伝承における自然石道祖神」(2023年)書評
倉石忠彦氏の論文「道祖神伝承における自然石道祖神」(『信濃』第75巻第1巻、2023年)は、道祖神の素材として用いられる岩石のうち、自然石のままでまつられた道祖神に着目して書かれた論考である。
岩石信仰の研究者から離れ、一個人としてお応えする「推しの岩」「推しの石」。巨石・巨岩部門、小石部門、マイルストーン部門、まずはここから案内したい入門編に分けて紹介。いわゆる巨石・磐座のガイドブックとして活用してください。
妙見大菩薩石聚神社/石牟礼妙見大菩薩/妙見神社の岩石信仰(鹿児島県日置市)
通称「妙見神社の巨石群」。本記事では、歴史的に辿ることができて、当地の岩石信仰と神仏の関係をよく表す、妙見大菩薩石聚神社・石牟礼妙見大菩薩の名を優先して表題に掲げておくことにする。
全国各地に残る「神籠石」の中でも南限に近い事例。神籠石の概要、「こうごいし」か「しんごいし」か、岩陰の摩崖仏や天井部でおこなわれた行事、東へ200m地点にあるという天狗岩、山頂の「環状列石」についてのまとめ。
石體神社(せきたいじんじゃ)は、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の原鎮座地とされており、秘匿された石體(石躰・石体)をまつる神社。秘匿されたから、石體の由来や岩石の様態にさまざまな説が生まれる。境内の岩石祭祀「御石」「石塔」も紹介。
社護神稲荷神社/三護稲荷大明神/社合神/三護神/三狐神(三重県伊勢市)
伊勢地域におけるミシャグジ事例の一つ。積み石の前に小鳥居と白狐が献ぜられており、二見興玉神社の「天の岩屋」(通称:石神/佐軍神)同様に岩石をもってまつられたミシャグジ事例ということで、石神とも領域が重なる存在となる。
村松漁港に接して鎮座する漁師の守り神とされる神社。社殿の隣に並置して岩礁にも似た「積み石」がまつられる。
志摩3大石神の1つとされるが、歴史的に調査していくと磯部神社に合祀される前の村社・谷ノ神社(谷社)としての岩石信仰が垣間見える場所。歴史がわからなくなる前に経緯を記録する。
加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。
岩石に彫りたい対象を模索し、彷徨うとき。岩石の存在を人づてに聞くとき。岩石の存在に偶然出会うとき。母岩から必要な岩石を切り出すとき、拾うとき。岩石に彫刻の手を入れようとするとき。加工しているとき。加工した中から新たな石面を見たとき。岩石を加工する中で破片が飛び出るとき。
二見浦から伊勢神宮に向かう五十鈴川沿いに残る二つの岩石。破石は鎌倉時代の『とはずがたり』に記され、御座石は倭姫命伝説や伊勢神宮の神事と関連して登場する。「鬼滅の刃」の「二つに割れた石」ブームの一事例として挙げることもできる。
高さ百尺余りと案内される一枚岩が神社の背後にひかえており、神社の選地の源となったことは明らかだろう。巨岩信仰と形容するより岩山信仰のスケール感であり、岩山の名前はキントウ山ないしはギントウ山と呼ばれるという。
12月18日(日)講演会「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」開催のお知らせ
岩石信仰の歴史を、遡りうる最古の時代(旧石器時代)から現代まで一気に説明します。具体的には、それぞれの時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・近現代)の特徴的と思われる事例・場所をピックアップして、視覚的にも楽しめ
「出かわり乃 神もありてや 葛籠石」伊勢自動車道を作る際に移設されたため原位置ではない。岩石の配置も、立地する斜面傾斜によって異なっていた可能性があるだろう。
ドビロの列石 / 龍仙山の「神籠石」(三重県度会郡南伊勢町)
南伊勢町一帯には複数の山中に「列石」の存在が報告されている。その代表格が龍仙山のドビロという地区にある列石で、一般的には「神籠石」の名称で知られる。現地観察と文献調査をふまえて所感をまとめる。
桜町の乾谷地区に、神籬磐境の形式を取り入れた山の神がある。旧地から移設されたもので、旧地近くには「疱瘡さん」と呼ばれた自然石もあったといわれるが現在所在不明。近くの金比羅宮の特徴的な石垣も紹介。
此神社ノ地ハ本郡三重郡ノ界ニシテ鳥居ノ傍ニ二個ノ標石ヲ置テ二郡ノ界トス方俗此二石ヲ指テ夫婦石ト名ク婦女ノ婚ヲ求ルノ祈願ヲ此ニナス必応アリト俗習也(『勢陽五鈴遺響』)
「神武天皇少宮址」と称され、神日本磐余彦が幼い頃に居を構えた場所との由縁が伝わる。神日本磐余彦が龍神から「龍石(たついし)」という馬を授かり、近くに「立石(たていし)」の地名が残るなど、これらは馬の名にちなむものではあるが当社には「御鉾の窟」「草履石・駒形石」といった岩石の聖跡も残る。
石段に近づいてハッと驚いた。石段は、一段に石三つを並べる形で作られ、それがずっと上部へ続いている。その一つ一つの石が、長い間の参拝者の歩みによってみごとに摩滅し、それが前夜の雨の湿気を含んで一つ一つ鈍い光を発しているのである。三列の石の中ではどの段も真中の段が著しく減っている。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
高さは9尺(約3m)。二つの岩石からなる。石神様と呼ばれていた。もともとは村の下にあったのを丘の頂上に移してまつった。もともとは二つの岩石の間を通り抜けるくらいの隙間があったが、年々、岩石が大きくなり通り抜けができなくなった。
夜泣き石には、石が泣くパターンと、赤ん坊の夜泣きを石が止めるパターンの2つがあるが、その両方を併せ持った事例。
論文紹介「『古事記』『日本書紀』『風土記』は岩石をどう記したか―奈良時代以前の岩石信仰と祭祀遺跡研究に資するために」(2022年)
電子ジャーナル掲載であれば、ネットから消えない限りは多くの読者の方に開かれた状態で、今後検索の便にも果たせるかと願っています。 一人でも多くの方に届けば著者として幸甚です。お力をお借りできるのなら、皆様からお知り合いの方へのご紹介もよろしくお願いいたします。
「垂仁天皇の勅命により我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際用いられた鎮石」「鹿島神宮御社殿御造営の際高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています」
鬼八が棲む高千穂峡の旧跡として、鬼の窟(鬼の岩屋)、鬼八の力石が知られる。そのほか、日本神話の伝説地としていつからか顕彰された「神硯の岩」や「月形日形」なども紹介。
「キリスト教に神様はひとりなので、日本のように自然の石に願いを込める文化は珍しい」といった問いに対する共感と反例の紹介。
天岩戸神社西本宮から遥拝する天岩戸と、天安河原の仰慕窟のみならず、存在が忘れ去られている光石(光明石)、天浮橋、御塩(御汐)などのかつての旧跡も記録にまとめる。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた岩や聖なる石を歴史学的に研究。
創建不詳とされ、調べたかぎりでは記録・情報がほとんど見当たらなかった。社殿背後に岩塊をまつる。
「砂岩の露頭の一部分が差別浸食され、硬い部分が亀の形のように残った自然の妙ともいえる大変珍しい石である。」
「この大石は集落のシンボルで、地名『大石』の由来となっています。」
天狗棚の「石の広場」環状列石説について(愛知県北設楽郡設楽町)
昭和三十三年に愛知大学教授の横山将三郎氏が当地へ来て、次のような内容を地元の同行者に書き送った。「この環状列石は墳墓としてのものより、黒曜石の産地として神聖な場所だから祭祀が行なわれた磐座に近いものであろう。」とのことであった。
旧社地は、本社から十余町、相当急勾配の渓流に沿うた小高い二段歩許の茅原の平地で、中央に花崗岩の高さ一丈余、幅一丈半もあらう処の自然石が小なる二個と並び立ち、この周囲を広く巡らすに小形の自然石を並列してあります。
石座神社の本殿裏、末社との間などに村内から集めたという石が置かれている。それぞれ、前には石に神の扱いを受けていたというから、一種の末社というべきであろう。
安産信仰の石神。願掛け後、ローソクに火を灯して、そのローソクがなくなるまでに必ず安産できるという。安倍貞任の奥方がここで無事に安産したという伝説も残る。少なくとも江戸時代からの祭祀の跡が認められる。
石種分析により、人為的に置かれた岩石遺構ではないかとされる古墳時代~平安時代の祭祀遺跡「こぶ石」。「猪俣の七石(七名石)」の内の1つであり、他には鏡石・福石・爺石・姥石・唸石・櫃石の存在が報告されている。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた聖なる石を歴史学的に研究。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた聖なる石を歴史学的に研究。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた聖なる石を歴史学的に研究。
『岩石を信仰していた日本人』著者の吉川宗明のホームページ。まつられた聖なる石を歴史学的に研究。
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かつて那須野が原で九尾の狐が変じた殺生石を、元中2年(1385年)に源翁禅師が衣鉢を授け、花を手向け焼香し、殺生石の魂に仏法を教化した。 殺生石は成仏するとともに幾片(三つとも)にも砕け散り、全国各地にその石片が飛散した。その石片が飛び散った場所の一つが、この常在院の殺生石といわれる。
神神社の岩境、三輪の山の神、関方の山の神、山の神直会場、時石、ボタモチ石、オカメ石、ムジナ石、おくまの石などを紹介。
旗掛石または鞍掛(懸)石と呼ばれる、2体1セットの岩石。徳川家康が鷹狩りに来た時、家康の旗や馬の鞍をこの石に掛け置いたことにちなむという。
「日本一やかましい祭り」として有名な桑名の石取祭。コロナ禍のため、大変残念ながら2020年に続き2021年も祭車・鉦・太鼓の登場は中止となり、音のない8月となりました。しかし、石取祭のすべてが中止になっているわけではありません。石取祭の核の部分とされる「石を取る祭り」は昨年も今年もしっかりと続け
奇石「阿保賢さん」のほか、重軽石・力石に関する祭祀事例が存在。神占石を手でなでて、自分の体の悪い部分をさすれば、その悪い部分が治癒されるという。神占石を軽く3回たたいて持ち上げてみると非常に重くなり、今度は願い事を唱えて優しく石を3度さすると、そこで石がとても軽くなったら、その願い事は成就する。
岩神さん/岩上さん/岩神祠/岩上祠/岩上神社/岩神神社/禿童石(京都府京都市)
菅原道真の祟り伝説の由縁をもつ。岩を抱くことで岩に霊が宿る。雷を落とすなど。江戸時代、岩が移されるに伴い岩が荒ぶる記録あり。吠える。子供に化けて出るなど。授乳の神としての性格など複数系統の信仰が混在。
葵祭で用いられる「岩上(がんじょう)」、岩本社、立砂、降臨石が残る神山などの賀茂別雷神社(上賀茂神社)における岩石信仰の事例群。その後の拾遺も。
吉坂稲荷神社・岩窪稲荷神社の別称あり。奥の院に「岩蔵」なる岩の群れがあり、五種の神宝と神々がまつられたという。
岩倉山頂上に巨岩があり「磐座」の跡とされているが真相不明。西麓に諏訪神社があり、社殿奥に露岩群がある。
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「岩石信仰研究の視点」は、岩石信仰が自然信仰であり、主客の関係でいえば自然が主で人間が客体という意味での人間研究として執筆したものです。
立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。
本書前半では海外の石と国内の石を巡る随想の中で徐々に牙をむき、後半ではロジェ・カイヨワの批判から地質学的知性を経由したうえで地球規模の科学と科学者への警鐘に発展。石から世界を考える指針をふんだんに摂取できる名著。
縄文時代中期の遺跡として考古学上有名な尖石遺跡。その遺跡地の南側斜面に存在する尖石は「縄文時代に石器を研いだ砥石」説があるが、この批判的検討を行う。
2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければ
webメディア「Less is More. 」では、グローバル化・デジタル化する世界で失われる/失いたくないモノや概念などを取り上げており、その一つとして巨石・磐座信仰(私が言うところの岩石信仰)に白羽の矢が立ちました。
弘化年間(1844-1848年)に成立した羽田野栄木の『三河国古蹟考』によると「社の後に大なる岩石あり此を神体とすと云り、其石たてに三間許さしわたし三間許宝珠形に似たり」とある。
いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。
神聖視・特別視された自然石も文化財であるという「自然石文化財」の視点を提示しています。 私はこれまで岩石信仰の研究で人工的に加工・設置された岩石と自然のままでまつられた岩石の両方を一括して続けてきましたが、設楽町の調査を通して、とりわけ自然石の信仰・特別視の文化保存が重要であることを明確に意識でき
奈良市の中心繁華街「ならまち」の街角に道祖神社が構え、社殿脇に上写真の高さ1.3mの岩石がまつられている。社殿脇に置かれた巨石は、今はもう拝観することのできない神体石の代わりに、当社の岩石信仰を視覚的に受け継いだ存在となっていると言える。
地震石、地震押さえ石、要石などの名称が伝わる。 いかに大震災があっても、この岩石があるためにこの地は微動だにしないといわれて、かつては石上に生す苔を取って地震除けの守護とする者が多かったという。
2023年7月に公開された宮﨑駿監督の映画「君たちはどう生きるか」では、石がさまざまなモチーフとして登場した。けっして石が主題の映画ではないが、妙に石が多用されてあれらは何だったのか印象に残るらしい。作品自体の評価は手に負えないが、石の部分だけ触れておこう。
通称「万次の石仏」は万治3年(1660年)の銘文が刻まれることからその名があるが、地元での昔からの名称は「浮島の阿弥陀さま」だったらしい。さらに、地元に残る寛政2年(1790年)成立の『山之神講文書』の文化2年(1805年)の事跡として「みたらし石仏」の名が記されている。
本ページは、ロビン・ダンバー[著]・小田哲[訳]・長谷川眞理子[解説]『宗教の起源――私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(白揚舎 2023年)を読みながら記録したメモである。個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報
村井康彦氏の『出雲と大和―古代国家の原像をたずねて―』(岩波書店 2013年)に 「磐座祭祀をたどる」と題された一節があり、磐座は出雲系統の祭祀・信仰を象徴するものだったとする仮説が提示されている。本記事では、村井氏の磐座論がどのような根拠で展開されているかを読みながら所見をメモしていきたい。
信玄が川中島合戦に赴くとき、慈雲寺七世天桂玄長禅師を訪ね戦勝の教えを乞うた。玄長は境内の大石に案内し、大石の霊力を説いて石の上に立ち矢を射掛けるよう命じた。部下が一斉に矢を放ったが一本として玄長一本としてに当たらない。一同驚き、この石の念力の確かさに敬服した。玄長はこの念力のこもる矢除札を授けて信玄
古墳時代から中近世にかけて、雨境峠では祭祀行為の痕跡が残っており雨境峠祭祀遺跡群と総称する(御座岩・鍵引石・賽の河原・与惣塚・中与惣塚・法印塚・鳴石)。
百丈岩に入定する慈覚大師の強力な視線が、街道を往来する人々にそそがれ守護する風景となる
水が垂れるように岩の上から落ちてきて奇岩を作っている。昔は修験者が冬でも住んでいた。ここは、現在の山寺ができる以前に慈覚大師がいた所で、ここで山寺を開く構想をねった。今は不動様がまつられていて、垂水の観音様と言って信仰されている。
主観にもたれつつも後世の批判的研究に審判を委ねる堀場氏、巨石信仰に親和的な立場でありながらも自然成因説で研究対象に冷静な視点を忘れない大場氏、実際に考古学的調査へ乗り出して事実をもって判断する駒井氏、いずれの研究姿勢も現今そして将来の岩石信仰研究において学ぶべきものだろう。
藤井修平氏『科学で宗教が解明できるか 進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生』(勁草書房 2023年)を読みながら、私自身が今後覚えておきたいと思った重要な部分をメモしたものである。 自分用申し送りの色が濃いため、読者に読ませる体裁で文章を書いていないが本書の概要紹介と同様の問題意識をもつ方の
倉石忠彦氏の論文「道祖神伝承における自然石道祖神」(『信濃』第75巻第1巻、2023年)は、道祖神の素材として用いられる岩石のうち、自然石のままでまつられた道祖神に着目して書かれた論考である。
岩石信仰の研究者から離れ、一個人としてお応えする「推しの岩」「推しの石」。巨石・巨岩部門、小石部門、マイルストーン部門、まずはここから案内したい入門編に分けて紹介。いわゆる巨石・磐座のガイドブックとして活用してください。
通称「妙見神社の巨石群」。本記事では、歴史的に辿ることができて、当地の岩石信仰と神仏の関係をよく表す、妙見大菩薩石聚神社・石牟礼妙見大菩薩の名を優先して表題に掲げておくことにする。
全国各地に残る「神籠石」の中でも南限に近い事例。神籠石の概要、「こうごいし」か「しんごいし」か、岩陰の摩崖仏や天井部でおこなわれた行事、東へ200m地点にあるという天狗岩、山頂の「環状列石」についてのまとめ。
石體神社(せきたいじんじゃ)は、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の原鎮座地とされており、秘匿された石體(石躰・石体)をまつる神社。秘匿されたから、石體の由来や岩石の様態にさまざまな説が生まれる。境内の岩石祭祀「御石」「石塔」も紹介。
伊勢地域におけるミシャグジ事例の一つ。積み石の前に小鳥居と白狐が献ぜられており、二見興玉神社の「天の岩屋」(通称:石神/佐軍神)同様に岩石をもってまつられたミシャグジ事例ということで、石神とも領域が重なる存在となる。
村松漁港に接して鎮座する漁師の守り神とされる神社。社殿の隣に並置して岩礁にも似た「積み石」がまつられる。
志摩3大石神の1つとされるが、歴史的に調査していくと磯部神社に合祀される前の村社・谷ノ神社(谷社)としての岩石信仰が垣間見える場所。歴史がわからなくなる前に経緯を記録する。
加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。
岩石に彫りたい対象を模索し、彷徨うとき。岩石の存在を人づてに聞くとき。岩石の存在に偶然出会うとき。母岩から必要な岩石を切り出すとき、拾うとき。岩石に彫刻の手を入れようとするとき。加工しているとき。加工した中から新たな石面を見たとき。岩石を加工する中で破片が飛び出るとき。
二見浦から伊勢神宮に向かう五十鈴川沿いに残る二つの岩石。破石は鎌倉時代の『とはずがたり』に記され、御座石は倭姫命伝説や伊勢神宮の神事と関連して登場する。「鬼滅の刃」の「二つに割れた石」ブームの一事例として挙げることもできる。
高さ百尺余りと案内される一枚岩が神社の背後にひかえており、神社の選地の源となったことは明らかだろう。巨岩信仰と形容するより岩山信仰のスケール感であり、岩山の名前はキントウ山ないしはギントウ山と呼ばれるという。
岩石信仰の歴史を、遡りうる最古の時代(旧石器時代)から現代まで一気に説明します。具体的には、それぞれの時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・近現代)の特徴的と思われる事例・場所をピックアップして、視覚的にも楽しめ
「出かわり乃 神もありてや 葛籠石」伊勢自動車道を作る際に移設されたため原位置ではない。岩石の配置も、立地する斜面傾斜によって異なっていた可能性があるだろう。
南伊勢町一帯には複数の山中に「列石」の存在が報告されている。その代表格が龍仙山のドビロという地区にある列石で、一般的には「神籠石」の名称で知られる。現地観察と文献調査をふまえて所感をまとめる。