堀谷に鎮座するアラハバキ神社なので堀谷アラハバキ神社と表記されることがあるが、単にアラハバキ神社ないしは、社殿を擁さないので扁額に記された荒鎺山が元来的な呼称だろう。 いくつかのソースで文献調査を行ったが、これといった歴史的な情報にたどりつくことはできなかった。いわゆるアラハバキ信仰の詳細につ
『岩石を信仰していた日本人』著者・吉川宗明運営のホームページ。日本宗教民俗学会会員。神道・仏教・民間信仰でまつられた聖なる石。民俗学・考古学・文献史の狭間で忘れられた岩石信仰を歴史学的に研究。
石のなかの原子力までもとりだしてしまった人類は、今、すこし立ち止まって、見えない石(宇宙)の大きなたくらみがひそむ『石の夢』の分析を行ってみる必要があるのではないだろうか。そのためには、石との対話を深めていくことが避けられない
イワクラ(磐座)学会が2025年4月末に閉会することを知りました。私は長らく、イワクラ学会にイワクラの保存活動(物理的保存・記録的保存)を期待していました。イワクラの文化財上の立ち位置の脆弱さ(=自然石として消滅しやすい性質)を考えれば、会員各個人の関心を差し置いても、さらに優先的に取り組まれればと
変事があると石が鳴ったことから鳴石の名がある。 この石に「~を貸してほしい」と頼むと必ず貸してくれた。 特に冠婚葬祭の折、膳椀を何人前分か貸してほしいと頼んでおくと、翌日に頼んだ分だけの品物が石の上に置かれていた。 使用後は、借りたものを石の上に置いておけば、やがて石の上から消えたという。
紀伊大島の輿兵衛という漁夫が大島に橋を架けたいと祈願したところ、一夜で杭を建てれば上に橋を架けてやろうとお告げがあったので急いで作ったが、海の神が橋を作られると困るというので鶏の鳴き声を真似して輿兵衛はあきらめた。その後、輿兵衛は海に身を投げたためこれを哀れんだ神が橋杭岩の上に時折虹の橋を架けるとい
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堀谷に鎮座するアラハバキ神社なので堀谷アラハバキ神社と表記されることがあるが、単にアラハバキ神社ないしは、社殿を擁さないので扁額に記された荒鎺山が元来的な呼称だろう。 いくつかのソースで文献調査を行ったが、これといった歴史的な情報にたどりつくことはできなかった。いわゆるアラハバキ信仰の詳細につ
「浄居院の巨岩群」として地元では知られていたようで、竜ヶ岩洞にある「夢現の岩穴」掲示板には渭伊神社境内遺跡、幡教寺の巨石と共にその名が挙げられている。唯一参考となるのが、静岡県引佐郡教育会編『静岡県引佐郡誌』下巻(1922年)に収録された「背山薬師如来記」という文献の記述である。
渭伊神社境内遺跡では自然石の傍らから古墳時代の祭祀遺物が見つかったが、岩巣では2012年に地形測量がなされたものの直接的に古墳時代の遺物は見つからなかった。その代わりではないが、古墳という厳然たる古墳時代の遺構が隣り合うという状況を見せる。
京都市の松尾大社の裏山・松尾山で見つかった寺院跡の調査報告書です。京都で見つかっている古代から中世にかけての寺院遺跡の一例となりますが、他例と比べて土師器の割合が高い遺物構成というのが特徴ということがわかりました。
JpGU大会の会期は2025年5月25日(日)~30日(金)ですが、5月25日のみパブリックセッションデー(一般公開日)として一般向けのパブリックセッションが用意されています。パブリックセッションは事前登録の上で無料参加・観覧ができます。吉川の発表はパブリックセッションで、地学関係者に限らず一般の方
この鍋石で最後に雨乞いが行われたのは昭和一八年ごろだったという。続く旱天に畑や焼畑の作物はすべてうなだれ、猫の額ほどの山田の稲も萎えてしまう。何日も何日も雨が降らない――こんな時、川上の人々は相談して、こぞって鍋石へむかう。そして、石の上へのぼり、塩を撒き、全員で般若心経を唱えるのだった。
険阻なる岩窟なり三河藻塩草に云昔この処に御津神社の別当在ますとあり自然の石窟の如き石がまへありて小社ありこれを石畳荒神と称す蒼海を眼下に見はらして景色いとよき処なり。大嶋や千代の松原岩畳くずれゆくとも我はまもらん
舟形石があって、大神降臨の時の天の岩船であると伝えられている。その石の所在を尋ね歩いているうち、「今は山上になく市中に移されている」と、偶然知っていた人に出会い、岩船の前に案内してもらった。八畳と六畳二間続きの室を祭壇にしているが、奥の六畳間には仏壇を祀り、前の八畳間の室は床を落として、岩船石を安置
古墳群の中に存在する自然岩塊がチジュウサンである。人足が立ち入った歴史の中でチジュウサンがまったく自然のままの岩石分布でありつづけたのか、何らかの生活所産の結果としてここに岩石群が集まっているのか判断の難しいところがあるが、これが全国各地で見られる岩石信仰と古墳の同居問題である。
相当腕白であった私さへ、何となく薄気味悪くてこの石に敢て触れることを憚ったものである。勿論、誰れが言ひ出したのか知らないが、この石に触れると気狂ひになったり、瘧をふるったりするといふのである。別に神秘的伝説といふやうなものもない。ただそれだけの言ひ伝へなのである。
中野方の福地境と、大峰に天然水のたまったくぼんだ石がある。その水をつけるとイボがとれるといういい伝えがある。
この数年間に生まれた各種の謎についても追記しております。私は、インターネットで多くの方々から得難き情報をいただき続けてきました。そのうえでさらなる情報を求めるのは欲張りですが、まだまだインターネット上でお会いできていない先達の方、地元の方がいらっしゃると信じて
名僧が、旅より旅へ托鉢してこの地に足をとどめた。ちょうどこの地方に悪質の病がはやり、僧はこの石の上に三七、ニ十一日の間座ってその病気の祈祷をした。石の部分の穴は、僧の精神の集中力が汗と化し、その汗のひとつひとつが固い石をうがったといわれている。
四日市市文化協会発行の『パッション』第76号に、「路傍の自然石考⑯ 石を持ってみた」が掲載されています。冊子体は四日市市文化会館などで頒布しています。
2025年5月25日~30日に開催される、日本地球惑星科学連合2025年大会で、「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」と題したポスター発表を行います。私が所属する文化地質研究会のセッション「変動帯の地質と文化」の中で参加します。
鉱物に惹かれるものの共通項。自己に囚われたくないとする客観志向、静謐なものへの憧れ、人間を離れたがる傾向、永遠志向、生き物である人間が無機物を前にして、到底かないそうにないと無視できなくなったときの慌てぶり。
日本の芸術家は、石に対して付加する述語ではなく、主語である石そのものの実存を問題にする。したがって欧米の彫刻がひとつのコンストラクションであるとするならば、日本の石庭はかかるコンストラクションを否定し、いわばアレンジするだけである。欧米的芸術観ではアレンジしただけでは芸術にならず、コンストラクトして
岩田慶治『草木虫魚の人類学』(講談社 1991年)の第2章第2節が「石」であり、海外の石に関するアニミズム(草木虫魚教)の事例を取り上げている。
今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。 ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、
石仏を自分の心の慰みものとして叙情的に語らず、あるいは仏教的・美術的など一角に寄らず、石の「造形(かたち)」を細かく分解・分析して、石と石仏の精神的関係を追い求めようとした思索。
白石明神は地より生えた白い石が神体であるので、白石と改めたという。又古記には南殿の國津神社を移して祀ったから白石と云うとあるが果して南殿すなわち南之庄より奉還したか否か定ではない。古老の話では、南殿より六人衆が石を持って帰った処、急に動かなくなって、それを神体としたともいう。
雄神神社から向かって右(東)を雄神岳、向かって左(西)を雌神岳と呼び、全山禁足地が今も守られているが、山頂に蛇がすむ洞窟があり元旦朝には金のキジが鳴くと『都祁村史』(1985年)にある。
いわくら / 磐座 / stones and rocks where spirits dwell / 日本列島において、神や精霊が宿ると信じられた岩石。「座」の字をもつが、各地の事例における岩石の形状は必ずしも台座状ではなく一定しない。また、岩石の大小や自然・人工の別を問わない。磐座の表記
鑑賞石(水石・盆石)を失われつつある自然石文化財とみなした記録・継承の重要性。これはという一石と出会ったとき、ビギナーとしてとるべき鑑賞石を飾る手順を主に水石の水盤石飾りからまとめる。
武田信玄が自慢の愛牛に乗って金山の様子を巡検中、その牛が突如暴れ出して信玄を振り落としたうえで路傍の大石に激突して死んだ。牛を引いていた従者も自責の念に駆られてその場で自害。起きてしまったことはしかたなく、このようなことで家臣を失った信玄は哀れに思い従者と愛牛を大石の傍らに葬った。この逸話から大石を
竜ヶ谷からは、寺川(大和川と合流して大阪湾に入る)の源流の一つとなる湧水が清らかな流れとなり、また滝となってひときわ神秘的な音楽をかなでている。巨大な岩が露出し、その上には竜神社が祭られている。当地の古代信仰の原始の姿を残す磐座で、祭りの場所となったところだ。
「嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石(だけのたていし じゃはみのじゃいし こけてはなうつからとのねいし)」の里謡で地元で親しまれたという奇石群。
矢谷川に臨む突端の磐境も環状の半は残されてゐたが、最近その下方に、弘法大師石像を祀られるに際し基壇として上方より磐境の石を転落して之に用ひられ爲にいたく損傷せらるるに至った。然るに近時学童が残れる一部の巨石の底部から打製サヌカイト石斧三個及び三十数個のサヌカイト破片の一所に埋蔵せられてあったのを掘出
昨年末から今春にかけて発表された各種成果をお知らせします。これで数年来の取り組みの大方は出尽くしましたので、またしばらくはインプット作業に専念します。それまでは下記の成果物をご覧いただけましたら幸甚です。
室生山の岩窟(後に龍の思想と結合し、龍神・龍王の住む龍穴と呼ばれるようになり、龍穴信仰の対象となる)には、須勢理姫命が入り、巨岩でその口を塞ぎ、更に赤埴土を以って塗りこめ、鎮座していたという。(略)須勢理姫命は最初に鎮まった室生山の岩窟から、延暦九年(七九〇)赤埴の地白岩に遷座し、赤埴白岩神社となっ
竹野(1937年)は社殿周囲に「完全なるストーンサークル」が遺存していると記す。近年、炭竈を築くために西方の一部が破壊されたともある。
大平山のすぐ西隣の一峰をかつて大将軍山と呼んだことは今あまり知られていない。大将軍の名は元禄年間(1688~1704年)の水帳に見られるといい(竹野 1937年)、地元の人々からは「ダイジョウゴン」「ダイジングウ」の通称で大将軍山中腹の岩群をまつった。その後、明治時代に神仏分離が進む中で
「岩石信仰研究の視点」は、岩石信仰が自然信仰であり、主客の関係でいえば自然が主で人間が客体という意味での人間研究として執筆したものです。
立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。
本書前半では海外の石と国内の石を巡る随想の中で徐々に牙をむき、後半ではロジェ・カイヨワの批判から地質学的知性を経由したうえで地球規模の科学と科学者への警鐘に発展。石から世界を考える指針をふんだんに摂取できる名著。
縄文時代中期の遺跡として考古学上有名な尖石遺跡。その遺跡地の南側斜面に存在する尖石は「縄文時代に石器を研いだ砥石」説があるが、この批判的検討を行う。
2015年のバズの時に撮られた写真では注連縄が巻かれていたが、私が2023年に訪れた際は注連縄が巻かれていなかった。また、祭祀には祭祀対象たる神に対して定期的な祭りが伴うはずだが、そのような祭祀が継続的におこなわれているという話を聞いたことはない。それで祭祀対象と言えるのかということを再考しなければ
webメディア「Less is More. 」では、グローバル化・デジタル化する世界で失われる/失いたくないモノや概念などを取り上げており、その一つとして巨石・磐座信仰(私が言うところの岩石信仰)に白羽の矢が立ちました。
弘化年間(1844-1848年)に成立した羽田野栄木の『三河国古蹟考』によると「社の後に大なる岩石あり此を神体とすと云り、其石たてに三間許さしわたし三間許宝珠形に似たり」とある。
いぼ(疣)ができた時は、いぼ石の窪みに溜まった水をいぼに塗りつけるといつの間にかなくなるという。