chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
肥前松浦氏を広める為のblog(仮) http://matsura.blog.jp/

残した足跡に比較して何故かマイナーな扱いしか受けない肥前松浦氏。 そんな松浦氏をメジャーにするためのblogです。 目指せ大河ドラマ!

柿崎春宵
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/10/12

arrow_drop_down
  • はじめに

    ライフワークとして続けてきた松浦氏の研究?ですが、以前作成していたHPも設定が不明となり、たまーに別のblogで松浦党ネタを書いてはいたのですが、blog自体の更新もしない状況となっていました。ただ、今までの記事を眠らせておくのももったいないと思っていましたが、単

  • 「亭主の好きな赤烏帽子」松浦義について

    平戸松浦氏、平戸藩。そして幕末まで残った肥前松浦氏。ほんの小さな小領主だった平戸松浦氏の飛躍のきっかけを作った松浦義ですが、あまり知られることはありません。 室町中期に活躍したこの武将について改めて紹介したいと思います。 室町時代というと応仁

  • 松浦定

    松浦丹後守定(1571~1593) 松浦丹後守九郎親の子。 幼名源三郎。九郎親の死に伴って、5歳で家督を継ぐ。 父の跡を継ぎ相神浦飯盛山城に入り、天正十五年(1587)17歳の時豊臣秀吉の島津征伐にも従軍。 その後三年間にわたり、相神浦家の人質として堺に。その時

  • 森本 一房

    森本 一房(もりもと かずふさ ? - 1674年5月3日(延宝2年3月28日))加藤清正家臣、森本儀太夫一久の二男。平戸藩藩士。右近太夫(うこんだゆう)と名乗る。   主君清正が死し、父儀太夫も後を追うように死した後、加藤忠広の下で混乱する家臣団に嫌気がさして肥前の松浦

  • 的島大島と大島氏について

    長崎県に的島大島という島がある。(的島大島とかいて「あづちおおしま」と読む。)平戸島の右上。度島のもう少し北側にその島はある。面積は15.19m2で、生月島よりも若干小さい。江戸時代は生月島と同様に捕鯨で栄えた。今は、小さな漁港と自然が生んだ景観による観光収入が

  • 隆信と鎮信

    親子の二人だが、この二人には共通した一つの目標がある。それは、南蛮貿易の復活である。平戸は中国人倭寇王直の勧めにより、ポルトガルと交易の関係を持った。南蛮貿易にともなう、様々な珍品と莫大な利益。博多や堺の商人も訪れ、平戸は空前の貿易都市へ発展する。鉄砲も

  • 松浦義

    松浦義(是興、天叟)(?-1470)松浦勝の子、松浦芳の弟。1434年(永享六年)当時平戸は松浦芳が治めていた。しかし、宇久領主宇久大和守基が生月の加藤景明と連合し平戸の白狐山城及び箕坪城を攻め、さらに生月の一部氏及び山田氏、下方の紐差氏、津吉の津吉氏、西但馬の

  • 手光宗作

    (?~?)相神浦松浦家に属し飯盛山城に籠城する。連歌師でもあった。「人は皆 四月五月に田を植える 宗作ばかりは 春植えをする」「春過ぎて 夏季の麦も城絶えに 腹をほすてふ 事をかく山」との和歌を作っている。平戸家は特に1563年以降から力攻めと共に兵糧攻

  • 大島胤政

    大島筑前胤政 (?~1494) 大島家は平戸の北にある離島、的山大島を領していたが、室町末期、松浦党の傍流であった平戸松浦氏が平戸にて勢力を拡大した際、当時の平戸松浦氏の当主弘定に味方することとなる。 すでに永享六年(1434)松浦芳 - 宇久大和守基

  • 丸田源蔵

    丸田源蔵(?~1563)丸田入道と同一人物か?相神浦家飯盛山城に籠城する。1563年の平戸家による飯盛山城攻めの際、平戸家が用いた大砲(ハラカン砲)により討ち死に。

  • 東尚久

    東尚久(?~?) 永正十三年(1516)   小城郡 晴気城主の千葉胤勝に追われ、当時少弐家と関係の深かった相神浦家を頼って落ちる。丹後守は厚遇を持って召し抱え、子らと共に相神浦松浦家を支える。

  • 東尚久

    東尚久(?~?) 永正十三年(1516)   小城郡 晴気城主の千葉胤勝に追われ、当時少弐家と関係の深かった相神浦家を頼って落ちる。丹後守は厚遇を持って召し抱え、子らと共に相神浦松浦家を支える。

  • 東五郎秀次

    東五郎秀次(?~?)東甚助時忠の子?時忠と共に相神浦家を守る。勇将といわれる。1564年の半坂合戦において、東五郎秀次と共に蜂の久保砦を守る。東甚助時忠が討たれた後の消息は不明。

  • 東秀勝

    東四郎秀勝(?~?)東甚助時忠の子?時忠と共に相神浦家を守る。1564年の半坂合戦において、東五郎秀次と共に蜂の久保砦を守る。東甚助時忠が討たれた後の消息は不明。

  • 日高資

    日高大和守資(たすく)(~1566) 波多家筆頭家老波多家を支えた重臣。政治・外交に通じ実質的な波多家の舵取り役。   しかし、波多盛の妻が実権を握るようになってから、他の家老とあわせこの未亡人と対立、永禄七年(1564)城内で暗殺される。

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、柿崎春宵さんをフォローしませんか?

ハンドル名
柿崎春宵さん
ブログタイトル
肥前松浦氏を広める為のblog(仮)
フォロー
肥前松浦氏を広める為のblog(仮)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用