新潟市と秋田市はウォーキングや観光で訪れているが、山形の酒田は学生時代に物流のアルバイトでとんぼ返りしただけである。大人の休日倶楽部(JR東)の冊子6月号の特集から「酒田三十六人衆」を紹介する。源頼朝に滅ばされた藤原秀衡の妹「徳の前」(出家して徳尼公)が最上川河口、酒田に逃げ延びる時に伴ったのが三十六人の従臣たち。彼らは船問屋などを家業とし、自らを「長人(オトナ)」、「三十六人衆」と称して町政を行った。江戸の幕藩体制の時代にも、名字帯刀を許され、徴税請負、米の運搬、街の警備・自衛にあたった。財政が苦しい酒田藩が頼りにしていということだろう。そんな三十六人衆の流れを受け継ぐのが「本間家」で、酒田中興の祖と言われる。豊かな財力の多くを社会事業に使ったという。特に三代当主、光丘は砂防林、火防体制の整備、飢饉用の...酒田三十六人衆