3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
俳句は、自身の心を表現する短い詩です。喜怒哀楽を表現できる五七五、計十七文字(十七語韻)のショート・ポエムなのです。当然そこには、さまざま人生が描かれます。さあ、俳句の楽しい扉を私とくぐりませんか。
隠岐島は島根県の離れ小島のようなところがある。歴史的に見ても、隠岐島は後醍醐天皇を幽閉したてまつった辺鄙なところということになっている。もちろん、今は、そこに生活する人はたくさんいるのだろうが、人口密度からいえば、本土の比ではない。むしろ、隠岐島は牛の方
山の上にある神社仏閣の山門などに、大きな草鞋が架けられていることがある。いうまでもなく、草鞋で峰をすたすたと自在に登り降りした山伏が、信仰の対象になった宗教からきたもの。詳細は分からないが、奈良時代以前、役行者(えんのぎょうじゃ)に始まるといわれる。筆者は
読売新聞「読売俳壇」から。今日(2020.2.17)の読売俳壇の正木ゆう子選で評されている句を取り上げる。「駅ピアノ」とは、いうまでもなく作者か駅員、またはマスコミの造語であろうが、理解できる言葉である。駅の構内にピアノが置かれている。きっとたれでも自由に弾けるのだ
この句、上五「花の冷え」は季語ながら、すべてがこの言葉に収斂していく俳句だ。花の冷え、つまり「花冷え」は、桜が咲いているころ、急に訪れる寒い陽気のことをいう。この句、そのように寒い桜の下で、友人と話をしていたのだろう。花冷えが言葉を包み込むというのだから
今年版の角川俳句年鑑を読んでいたら、この句に出会った。作者は平成6年生まれというから、まだ二十代だ。二十代の感性が詠んだ女性の、母性を感じさせる俳句である。「乳房に触れ」た我が子、その「子の手つめたし」、つまり、冷たい、と感じ驚いた作者。冷たさを温めてあ
中国の武漢を発生源とする新型ウイルスが世界中を恐怖に陥れている。防衛手段は、手洗い、うがい、それとマスクだという。結果的に、マスクが市場から消えるほど、売れている。たれもこのウイルスに侵されたくないのだから仕方ないといえば仕方ない。一日も早い鎮静化が望ま
近代・現代俳句の世界で、いろいろな俳人が出た。もちろん、それぞれに個性があるから面白いのだが、その極北にいるのは三橋鷹女だと思う。彼女の俳句は、伝統派か前衛派かなどと言う区分けが出来ない面白さ(ユニークさ)があるのである。今、伝統派か前衛派かと書いたが、特
清水さんが自らの著書にこの句を揮毫されている写真を見た。清水さんは、現在のマガジンハウスの前身、平凡出版の雑誌「平凡」初代編集長を経て、マガジンハウスの会長になる。ご自身、詩歌がお好きだった。「鳩よ」という詩歌文芸誌も発行した。途中、判型を変えたり、小説
作者名は「あおやぎ・しげき」と読む。青柳さんは、若き日、郷里の長野県から東京に出て来られ、造園業を営むかたわら「鹿火屋」で俳句を学ばれた。植物に対する造詣は深く、多くの俳句歳時記で植物の解説を書かれている。さて掲句、言わんとすることは、よく分かる句である
作者名は「あいおいがき・かじん」と読む。1976年、角川書店の振興財団が主催する第10回蛇笏賞の授賞式で、授賞された相生垣さんのお姿を拝見したことがある。 庶民的で物腰柔らかな方ながら、どこか仙人のような浮世離れした雰囲気ももっておられる方だと思った。節分の豆
俳句では「紅葉」も「黄葉」も、ともに「もみじ」と読む。句会の披講(採られた作品が読み上げられる)では、読み上げられる声だけだから、わからないことになる。このように、文字で見て初めてわかる句なのである。だからどうという気はない。俳句は、いまや句会だけが発表の
この句の前書きに「十二月二十一日、父脳溢血で倒れる」とある。森潮さんといえば、この句のあと、倒れた父、澄雄先生の介助で長い歳月を過ごされたことを思い出す。われわれには先生の話される言葉が聞き取れないのである。一生懸命話されるのだが、語彙が明瞭に聞き取れな
「落葉掃く」作業というのは、それはそれは「気持ち(の穏やかになって)澄む(澄みきる・心静かになる)ところまで」やるものなのです、というのが句意。もちろん、この句、たれに強要されるわけでもなく、自分自身に語りかけているのだ。心が澄むまでになるには、ある作業に徹
句集「直線」より。この文を書いている2020年2月1日現在、中国湖北省武漢を発生元とする「新型コロナウイルス」という病原菌が、世界中に猛威をふるっている。特に中国では感染者が一万人を越え、死者も二百人を越えている。このウイルスから守る手立ては手洗い、うがいしか
句集「喝采」より。「一病抱え」つつ生きている人は多い。一病もない人よりも、一病ぐらいあった方が、かえって体を気遣うぶん、長生きできる、という意見もある。たしかに、見るからに頑健そうな人が、急に亡くなられることもあるし、その反対に、病いを抱えて生きておられ
風花は、風に乗って宙を舞う雪のこと。水分の多い雪は別だが、綿のようなふわふわとした雪は、すぐに地面に落ちてこない。舞い降りてきたかと思うと、ふいにまた風に舞い上がるといった動作をえんえんと繰り返す。そうやっていていつか地面に到着するわけである。風花は、雪
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3月に入った。3月は仕事場や学校でいう年度末、4月から新しいスタートを切るための準備の時期である。仕事や学校に関係のない人にとっては、特別な思い入れはないかもしれないが、家族や知人に、なんとなくソワソワ感のある人はいることだろう。この句、そんな思いを込めて「
「うすらいを踏む思い」などというように、薄氷は「うすらい」と読む。水たまりに張った薄い氷などを踏むと、ピシピシと音を立てて割れていく。まだ若い恋人同士は、この薄氷を割る遊びのように、わざと二人の間をこわすようなことを言ってしまうことがある。悪意はないのだ
あれこれしても泣き止まない赤ちゃん。万策つきて庭の梅の木の下に抱っこして連れてゆくと「ほうらほら」と花に顔を近づけて見せる。そこまでは言っていないが、なんとふしぎに泣き止んだのであろう。梅は白梅か紅梅かなどは一切言わない。ただただ梅の花を見せる。冬から春
節分に「福は内 鬼は外」といって豆を撒く。しかし掲句は「福は外 鬼は内」というのだ。つまり福(しあわせ)は外へ出しましょう、鬼(ふしあわせ)は外に出さず、我が家で引き受けましょう、といっているようにとれる。世間一般の常識の裏返しとして面白い。筆者もそうだが、
駅の改札を出たところで人を待つ。あるいはデパートの入り口のライオン像の前なんていうのもある。いまはスマホ一人一台の時代だから、待ち人の姿が見えないときは、すぐに電話をするかメールをする。時間の無駄のない現代だ。しかし、スマホを忘れてきたりすると、たちまち
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の
今日(12月29日)の午前中の空には、満月がしらじらと輝いていた。真っ青な冬の空にしらじらと浮かんだ月は、いささか幻想的でもある。作者も、そんな幻想的な昼の月を見て、詠んだのであろう。雪卸す、というから屋根に積もった雪をシャベルなどで地上に落としていく作業中だ
2023年も終わろうとしている。季節は冬真っ只中である。雪国などへ行くと、軒などから水の塊が凍って垂れ下がっていることがある。氷柱(つらら)である。夜、透明の氷は透き通った星々の光を浴びて輝いている。いたずらごころで、その氷柱を真ん中でポキリと折ってみた。する
「針葉樹」は、文字通り針のような葉の樹林のことで、松や杉などを指す。針葉樹は年間を通して緑の色を変えない常緑樹が多い。密集した大きな葉叢をそよがせている広葉樹林とは対照的で、少し寒々とした印象を与える。そんな針葉樹林に分け入ってゆくと、蟬の一種である「ひ
俳人協会発行の「俳句文学館」紙9月5日号を見ていたら、4月に行われた愛知県支部の俳句会で入選した句が掲載されていた。そのなかで、山本比呂也さんが特選に選んだ句がこれである。フラメンコがどう俳句に詠まれているか興味が湧き、読んだ句であるが、さらりとした味わいが
ここでいう日とは、日のさすところすべてをいうのであろう。「自然」といいかえてもよいかもしれない。そこに「水をゆきわたらせ」ることによって「自然」は血液を得ることができるのである。血液を得た自然は、いよいよ枝を伸ばし葉を広げ緑を輝かせるのである。その血液を
以下「馬酔木」2023年7月号、一 民江さんの太田土男著『田んぼの科学ー驚きの里山の生物多様性ー』の書評を引用します。まえがきに、季語を手がかりにして稲作の一つ一つがいつ頃、どう変わったのか点検しながら、季語の意味を少し深く耕してみた。と書かれる。稲の起源から
作者は、平成2年「雲母」入会、その後「白露」へと引き継がれ、今は井上康明主宰誌「郭公」にいる同人である。自然諷詠の流れの中にいる俳人である。六月、「鴉は不機嫌」だという。不機嫌とはどういうことであろうか。筆者も五月であるが、道を歩いていて、突然頭上に鴉が乗
山深い熊野の地。目の前に広がる海は、熊野灘だ。古来から峰々をゆく貴族たちは「アリの熊野詣で」といわれた。宮廷人たちに、本当に愛された聖地なのだ。変化に富んだ熊野の大自然は、スケール大きく、それこそ「神っている」。古代からの樹木や瀧など、とにかく見上げるも
ひらがなの「けん」は県のこと、「ちょう」は町、「あざ」は字で、要するに住所を表している。だが、この句にはオチがある。そのオチは、いうまでもなく「あざ鰯雲」というところである。まず岩手県の風景が、漠然とイメージされる。そして具体的には空だ。真っ青な空。その
ハクレン(白木蓮)は、春の到来を告げる美しい花。その純白さは、見る人の心を浄化してくれるようである。今年(2020年)は、新型コロナウイルスの蔓延で、そんなウイルスの汚染を浄化してほしいという願いは、ひときわ強いのである。掲句は、「無垢の憂いを裹む」、その姿がハ
浜辺近くに海月が打ち寄せられたのだろう。次の波が押し寄せると、引いて行く波に乗って海月も海の方に戻っていった。作者は、例えば高濱虚子が大根の葉に焦点を絞って句を作ったように、ひたすら海月に焦点を絞って作っている。ここには海月以外のなにもない。そのシンプル
人は人生の節目に、「さよなら」という。永遠の別れということもある。あるいは、もっと日常的なところで、たくさん「さよなら」は使われている。考えてみれば、味わい深い言葉である。この句、町角でする「さよなら」だが、さて、重い「さよなら」か、軽い「さよなら」かは
3種の鳥が登場する。3種の鳥には、それぞれの居場所がある。椿→めじろ木瓜→尉鶲(じょうびたき)地(つち)→鶺鴒椿に止まっているめじろは地上から2〜3メートルの位置だろう。木瓜の咲くところにいる尉鶲は地上の花壇などの柔らかな土の上である。地(つち)にいる鶺鴒とは、文
「言の葉」はいうまでもなく言葉のこと。言葉は、水に浮き沈みして流れて「ゆく」葉のようなものだというのだ。言葉にかんしては「言霊」(ことだま)などともいわれ、言葉に霊(たましい)が宿ると信じられていた。じっさい、「がんばって」などといったひと言で、負けそうだっ
「草の花」の2024年1月号より。名和さんは同誌の主宰である。同誌は、藤田あけ烏さんが創刊主宰だった。昨年が創刊30周年だったという。あけ烏さんとは、いろいろとお付き合いをさせていただいた。そんなことを思い出しつつ、「草の花」誌を手にしている。同誌には、その月の