八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
西国観音霊場、新西国霊場、薬師霊場、近畿不動尊、神仏霊場など関西の巡礼地及び洛陽観音霊場、京都十二薬師、都七福神などの京都市内の霊場を紹介します。
建勲神社の大鳥居前を東へ進み、智恵光院通りを北へ進んだ一筋目の東側に常盤井があります。京都の名水の一つで、碑文には霊泉の功徳が記されています。しかし、現在、水は枯れています。かって、この辺りに源義朝の邸宅があり、その側室で源義経の母である常盤御前(ときわ
建勲神社の西側に標高111.89mの船岡山の三等三角点があります。背後は旧サイレン塔です。山頂の南側が開け、京都市内が一望できます。双ヶ岡から西山連山が近くに見えるのに対し、東山連峰は遠く、現在の京都の中心部から平安京の中心部が離れていることが見て取れます。船岡
今宮神社から南へ進み、北大路通を横断した先に建勲神社の北参道があります。船岡山の中腹までバイクで登れ、その先に建勲神社の駐車場があります。しかし、北大路通を左折して、その先の「建勲神社前」の信号を右折して建勲神社へ向かいます。こちらは駐車場が無いので、建
鷹峯から下って北大路通を左折して東へ進み、「今宮門前」の信号を左折した先に今宮神社があります。時短するなら鷹峯から下ってきた変則的な四差路を、右折して北大路通りの方へ向かわず、東へ進めば今宮神社の楼門間に出ます。北大路通から左折すると、本来は大鳥居が建っ
光悦寺の北向かいに圓成寺があります。圓成寺は山号を清雲山と号する日蓮宗の寺院で、洛陽十二支妙見めぐり・亥(北北西)の札所です。延暦13年(794)に平安京に遷都された第50代・桓武天皇は、都の四方に妙見大菩薩を、四隅に法華経を納め、建都されたと伝わります。天皇は正月
常照寺から「鷹峯」の信号を超えて、更に西へ進んだ南側に光悦寺があります。光悦寺は山号を大虚山と号する日蓮宗の寺院です。元和元年(1615)に本阿弥光悦は、徳川家康からこの地を与えられました。この地には、「京の七口」の一つ、長坂口があり、長坂を経て杉坂に至る丹波
「鷹峯」の信号から東へ進んだ北側に常照寺があります。常照寺は山号を寂光山と号する日蓮宗の寺院で、本阿弥光悦の養子・光嵯がこの地に建立した四ヶ寺の一寺です。元和2年(1616)に光嵯が、身延山久遠寺の21世・日乾上人(にっけんしょうにん)を招き、「法華の鎮所」として
千本北大路の交差点の北東角に第70代・後冷泉天皇の火葬塚があります。後冷泉天皇は第69代・後朱雀天皇の第一皇子で、諱(いみな)を親仁(ちかひと)と称しました。万寿2年(1025)に誕生し、その2日後に生母の東宮妃・嬉子(きし/よしこ)が薨去しました。藤原嬉子は摂政・藤
龍安寺から「きぬかけの路」を北上した所に金閣寺があります。現在、金閣寺では令和2年(2020)12月までの予定で、舎利殿(金閣)の屋根の葺き替え工事が行われています。また、平成28年(2016)に金閣寺が行った通路の設置工事の場所に、七重の塔の土台部分があったと指摘され、
再び龍安寺の参道を北へ進み、「石庭」への順路を示す立札の右側に車椅子などの順路が示され、その方向へ進みます。梅枝庵は湯豆腐料理の茶屋だそうですが、門は閉じられ、詳細は不明です。更に参道を進んだ右側に第69代・後朱雀天皇の皇后・偵子(ていし)内親王の圓乗寺東
等持院の山門前から西へ進み、その先で北に向きを変え、立命館大学の横を通り抜けて「きぬかけの路」へ入り、少し西に進んだ先に龍安寺の駐車場があります。一旦、駐車場を出て、「きぬかけの路」を西へ進み、押しボタン式信号が付いた横断歩道を渡って南へ進んだ所に、延宝8
六請神社から西へ進んだ所に、等持院の山門があります。江戸時代に建立された一間一戸の薬医門で、切妻造りの本瓦葺です。かって、この地には仁和寺の一子院があったと伝わり、東には無学祖元の遺爪髪を祀る正脈庵がありました。興国3年/暦応5年(1342)に、足利貞氏の子で足利
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八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
貴船神社の奥宮から北へ、標高680mの芹生峠を越えた先、奥宮からバイクで10分足らずの距離に「芹生の里」の碑が建っています。芹生の里は、上桂川支流・灰屋川(はいやがわ)の上流にあって、灰屋川に芹(せり)が自生していたことが地名の由来とされています。かっては、林
杉坂の船水の先を左折して北へ進むと「古道 若狭街道」と記されています。若狭街道は朽木を経由するものなど幾筋かのルートがあります。その直ぐ先に「氷室分れ」の標識があり、左折して北への坂道を登り、その先で下りとなって、標識からバイクで5分余りの距離に氷室神社が
北山台杉の畑の先で鷹峯街道は、直進する府道107号線と分かれ、右折して南下し、その先に地蔵院があります。山号を「桃源山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院ですが、創建に関する詳細は不明で、平安時代(794~1185)には真言宗の寺院であったと伝わります。明治20年(1887)
国道162号線を北上して、バイクで中川へ向かいました。平成10年(1998)に延長1,582mの中川トンネルが竣工し、現在での国道は集落を迂回しているため、集落内は閑散としています。日本人初のノーベル文学受賞者・川端康成(1899~1972)の小説『古都』の舞台となった所でもありま
東雲寺から東へ、バイクで20分余りの距離に四所神社(ししょじんじゃ)があります。所在地は京都市右京区ですが、カテゴリーは「京都府亀岡市~福知山市・綾部市」に含めます。天文21年(1552)に愛宕山白雲寺福寿院の幸海(こうかい)僧正が、清滝四所明神を原村の「かぶとの
清源寺の南西方向、バイクで約5分の距離に巴塚があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)・巴御前(ともえごぜん:生没年不詳)を祀る供養塔があります。寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝し、
京都帝釈天の駐車場から南へ、バイクで5分足らずの距離に文覚池があります。神護寺中興の祖である文覚上人(もんがくしょうにん:1139~1203)が治承年間(1177~1181)に当地へ訪れ、この地を適地と村人を指導し、村人が掘削した溜池で、周囲850m、面積4.22haの大きさです。当
京都帝釈天の駐車場から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に西光寺があります。山号を「飯森山」と号する真言宗の寺院で、山門は龍宮造の鐘楼門です。勝宝8年(756)に良弁大僧正(ろうべん/りょうべんだいそうじょう:689~774)により創建されたと伝えられています。その後、
日吉ダムの南、バイクで約10分の距離に福寿寺の駐車場があり、その先から帝釈天参道の登りとなります。参道には「願いの鐘」が設置されています。本堂石段下までの約700mに108の鐘が設置され、願いを込めて左手で叩いていけば、帝釈天に届くと記されています。また、「庚申塔
生身天満宮から北東方向へ、バイクで約15分の距離に日吉ダムがあり、ダムの手前の橋を渡り、上桂川の北側の道路を川に沿って登ればダム管理所前の駐車場へと続きますが、こちらは上桂川の南側の道路からの画像です。こちらは管理所側で、石垣に見える目印は平成25年(2013)9月
九品寺の東、バイクで10分足らずの距離に「園部城址」の碑が建っています。元和5年(1619)12月に但馬国出石藩主であった小出吉親(1590~1668)が移封され、園部藩が誕生して園部陣屋が築かれました。小麦山南東の丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、周囲には外郭線を築いた本格的
摩氣神社から北東方向へバイクで5分余りの距離に九品寺があります。参道を入ると「天宗」と刻まれ、その奥に大日堂があります。天宗は昭和29年(1954)に開かれ、真言宗の流れを汲み、大日如来を本尊としています。東京都日野市にある日仏寺聖殿が総本山とされています。堂内に
摩氣神社(まけじんじゃ)は、JR山陰本線「園部」駅の西にあって、徒歩だと2時間近くを要しますので、当日はバイクで向かいました。園部川に架かる「摩氣橋」の畔に御神燈が建ち、徒歩ならばこの橋を渡って神社へ向かうと思われますが、現在は工事中で「この先通行止」となっ
伊夫岐神社から北へ、バイクで10分足らずの距離に長尾護国寺があります。本坊・惣持寺の近くとその下にも駐車場があり、下の方の駐車場にバイクを置きました。本坊への登り口に「長尾寺大門跡」があります。この辺りは「大門坂」と呼ばれ、長尾寺の山門が建っていた所と伝え
悉地院から南西方向へ、バイクで10分足らずの距離に太平観音堂があります。伊吹四大寺の一つ、太平護国寺が廃寺となり、当地に太平観音堂が建立され、遊行僧・円空(1632~1695)が造立した十一面観世音菩薩立像が安置されました。円空は太平寺の中之坊を拠点に伊吹山で修行を
伊富岐神社から西へ、バイクで約20分の距離に悉地院(しっちいん)があります。伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあって、標高1,377mで滋賀県の最高峰です。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が伊吹の神に退けられたとの物語があって、古来から霊峰とされていました。
南宮大社の北西方向、バイクで約10分の距離に伊富岐神社(いぶきじんじゃ)があり、入口には石造りの太鼓橋が架けられています。神社付近には石器時代の遺跡や古墳なども多く、古代から豪族が住んでいたことが明かで、伊富岐神社は古代、伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏
養老の滝入口駐車場から北へ、バイクで約20分の距離に南宮大社があります。第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)の御代に創建され、古くは「仲山金山彦神社」と称されていましたが、美濃国府が現在の岐阜県不破郡垂井町府中に置かれたことにより、その国府の南に位置する宮と
関ケ原古戦場の「徳川家康最初陣跡」から南東方向の養老の滝へ向かうと、養老の滝への入口の手前の大菩薩寺の境内に「日本武尊史跡 当芸野(たぎの)」の碑が建っています。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が東国を平定して尾張国へ戻ると、伊吹山に悪い神がいる
西教寺から北の信号を左折して伊香立浜大津線をバイクで5分余り進んだ先に飯室谷不動堂があります。詳細はこちらをご覧ください。その奥に元三大師堂への登り口があります。約1時間ほど登ると横川から三石岳を経て八王子山への縦走路と合流します。縦走路へ左折して三石岳の
日吉大社の大政所から伊香立浜大津線を北へ直ぐの西側に西教寺の総門があります。高さ6.4m、幅5.6mの門で、明智光秀(1516~1582)によって築かれた坂本城の城門が天正年間(1573~93)に移築されたと伝わります。昭和59年(1984)に修理が施されましたが、形はそのままの姿で復元
八王子山から下り、西へと進むと神輿収蔵庫があります。延暦10年(791)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の詔により二基の神輿が奉納され、延暦寺の面目がつぶされたり、何か不利なことが起こると日吉神社の神輿を担ぎ出し、京へと繰り出し強訴しました。「神輿振り」と呼ば
坂本城跡公園から北西方向、京阪電車石山坂本線の「坂本比叡山口」駅の直ぐ西側に生源寺があります。山号を「比叡山」と号する天台宗の寺院で、「伝教大師生誕の地」です。父・三津首浄足(みつのおびときよあし)の居館跡であり、最澄(766or767~822)はここで誕生し、境内に
七本柳鳥居の直ぐ北側に坂本城跡公園があります。本丸跡は企業の所有地、二の丸・三の丸跡地は市街地となり、この公園は城外の当時は琵琶湖中で後世に埋め立てられた場所にあります。公園には明智光秀(1516~1582)の像が造立されています。坂本城は元亀2年(1571)の織田信長(1
近江神宮から北東方向へ、バイクで10分弱の琵琶湖岸に唐崎神社があります。日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまるのすくね)がこの地に居住して「唐崎」と名付けました。第38代・天智天皇6年(667)に大津京へ都を遷した天皇は
弘文天皇陵から北へバイクで約5分の距離に近江神宮の一の鳥居が建っています。社号標は近江神宮奉賛会の初代会長で、第34・38・39代内閣総理大臣などを歴任した近衛文麿(このえ ふみまろ:1891~1945)の筆によるものです。一の鳥居は、第二期工事の昭和19年(1944)に建立さ
近江今津港から南へ、バイクで20分弱の距離に白髭神社があります。国道161号線に面し、全国に約300社に及ぶ白鬚神社の総本社で、「琵琶湖とその水辺景観」の構成資産として、日本遺産に認定されています。社伝では第11代・垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)
本堂から石段を登ると三十八所権現社本殿があります。慶長年間(1596~1615)に淀殿(1569~1615)により、石山寺の復興が行われた際に石山寺の鎮守社として「石山寺硅灰石(けいかいせき)」の上に建立され、国の重要文化財に指定されています。初代・神武天皇(在位:BC660~BC5
建部大社から瀬田の唐橋を渡り、瀬田川右岸を南下した先、バイクで5分余りの距離に石山寺があります。画像は平成30年(2018)11月参拝時のものを使用しています。石山寺は山号を「石光山」と号する東寺真言宗の大本山で、西国三十三所観音霊場・第13番、神仏霊場・第146番など
瀬田の唐橋から東へバイクで5分弱の距離に建部大社があります。社伝では、第12代・景行天皇46年(116)に日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の妃・布多遅比売命(ふたじひめのみこと:生没年不詳)が神勅により、日本武尊を祀ったのが始まりとされています。当初は御子
水のめぐみ館アクア琵琶から瀬田川左岸をバイクで約5分北上すると右側に「瀬田城跡」の碑と「勢多古城地碑」が建っています。瀬田城(勢多城)は、「山岡城」とも呼ばれ、永享元年(1429)に山岡資広(すけひろ)が南の大日山に城を築き居城としました。第9代城主・山岡景隆(15
立木観音の駐車場から瀬田川沿いに、バイクで5分弱北上した左側に南郷公園の駐車場があります。駐車場から道路を横断すると「皇后陛下行啓記念碑」が建立されています。第123代・大正天皇(在位:1912~1926)の貞明皇后(ていめいこうごう:1884~1951)が大正11年(1922)11月1
佐久奈度神社から鹿跳橋まで戻り、瀬田川右岸を北上した直ぐ先の右側に安養寺の駐車場があり、駐車場から道路を横断すると「立木観音参道」の碑が建ち、810段の石段が連続して続きます。かっては南郷から2kmの登山道が参道となっていましたが、約150年前に京都の町衆により、
東笠取から南へ下り、瀬田川沿いに東へ進み、鹿跳橋を渡って進んだ先に佐久奈度神社があります。東笠取からはバイクで20分弱の距離です。佐久奈度神社は第38代・天智天皇(在位:668~672)が大津京へ遷都したのを機に、天智天皇8年(669)に勅願により中臣金(なかとみ の かね
奥宮神社から南へ進み、山道へ入って正法寺へ向かいます。奥宮神社の標高は400m、正法寺は標高443mの岩間山の南麓、標高390m辺りに立地し、標高差は僅かで、所要時間は約10分です。正法寺の手前に動物の防護柵があり、それを入ると正法寺の境内と思われます。防護柵から入り
東笠取清瀧宮から下ると電柱に「宇治市 東笠取」と表記されています。その先に奥宮神社・岩間寺(正法寺)への道標が立っています。電柱に張られてた岩間寺徒歩参拝道路図。バイクを路肩に置き、集落の最上部まで登ると、奥宮神社と岩間寺への登山道が左右に分かれ、奥宮神
瀬田川を宇治から上流へ向かって進むと、道路が左岸から曽束大橋(そつかおおはし)を渡って右岸を走ることになりますが、直進して府道242号線へ入り、その先で京滋バイパスの笠取インターの方へ進み、その先を右折して西笠取川沿いに北上して西笠取清瀧宮へ向かいました。曽
宝巌寺から舟廊下を渡った所に都久夫須麻神社の本殿が鎮座しています。永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。撮影は禁止されていましたが、こ
近江今津港発9:30発の船に乗り竹生島へ向かいました。現在では竹生島往復の料金が3,000円となっています。今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で往復の料金は3,000円、長浜港からは乗船時間が約35分で、往復の料金は3,400円です。彦根港からはオーミマリ