八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
西国観音霊場、新西国霊場、薬師霊場、近畿不動尊、神仏霊場など関西の巡礼地及び洛陽観音霊場、京都十二薬師、都七福神などの京都市内の霊場を紹介します。
鶏冠井かしの木公園からJRの線路をくぐって北側に進んだ先に泉福寺があります。泉福寺は山号を星水山と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第16番札所です。都が長岡京から平安京へと遷都された延暦13年(794)、第50代・桓武天皇が平安京へと遷幸(せ
内裏公園の東側に北真経寺があります。北真経寺は山号を鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院です。北真経寺は、鎌倉時代の徳治2年(1307)、真言宗であった真言寺の住職、実賢(じっけん)が、日蓮の孫弟子である日像(にちぞう)に帰依し、日蓮宗に改宗しました。寺号の
南真経寺から東へ進むと「大極殿」の信号があります。信号を左折し、その先で左折した先に大極殿公園があり、「史跡・長岡京跡」の碑が建っています。公園の図面です。公園の右側に宝幢(ほうどう)を立てた柱が復元されています。宝幢とは「宝珠で飾った幢(はた)」の意味
石塔寺から五辻まで戻り、五辻から東へ進んだ北側に南真経寺があります。南真経寺は山号を鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院です。山門前には「日蓮宗関西最初弘教之地」の石碑が建立されています。徳治2年(1307)頃、日像は乙訓郡山崎付近にとどまり、布教活動をを行
向日神社前に説法石があります。日蓮宗の開祖・日蓮聖人の孫弟子にあたる日像は、布教のため永仁2年(1294)に京都へ訪れました。他の宗派からの迫害を受け、度々京都から追放されました。西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄り、この説法石に腰を下ろして村人に日蓮聖人の教
向日神社は角宮神社から東へバイクで約5分走った所にあります。向日神社の祭神・御歳神(みとしのかみ)は、大歳神社の祭神・大歳神の御子神で、『金蔵寺略縁起』によると、金蔵寺の「産の滝」付近で生まれたとされています。御歳神は峰に登って「向日山」と名付け、田作りを
角宮神社は乙訓坐火雷神社(おとくにいますほのいかづちのかみやしろ)、略して「乙訓社」とも呼ばれています。角宮神社は向日明神が金蔵寺の「産の滝」から三本の矢を放ち、そのうちの一本が落ちた現在地より西約500mの宮内に創建されたと伝わります。角宮神社の初見は『続
乙訓寺から北上して光明寺通りを右折し、その先で天神池に沿うように右折した先に赤根天神社があります。鳥居と石灯籠は江戸時代の宝永6~7年(1709~1710)に、旧石田家によって寄進されました。かって、この地には石田家の屋敷があり、赤根天神社は石田家の氏神でした。鳥居
卒台寺から小畑川沿いの道を北上し、今里大通りへ左折して「一文橋」を渡ります。一文橋は室町時代頃に西国街道に架けられたと伝わります。下を流れる一級河川の小畑川は暴れ川で何度も洪水により橋が流されたため、通行人から一文ずつ徴収して橋の架け替えの費用に充てたと
正覚寺から北東方向にバイクで約10分走った所に卒台寺があります。卒台寺は山号を延命山と号する西山浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第12番札所です。寺号標から奥へ進んだ右側に駐車場があり、向かい側に地蔵尊が祀られています。十三重石塔と枝垂桜本堂卒台寺は弘仁年
国道171号線を大阪方面に進み、大山崎ジャンクションの手前の「国道五条本」の信号を右折し、次の「府道五条本」の信号を右折した先に「正覚寺参道」の石碑が建っています。石碑の方へ左折した先に正覚寺があります。正覚寺は山号を摂取山(せっしゅざん)と号する西山浄土宗
府道733号線から善峯寺への道は、大型車は通行不能の狭く急坂・急カーブが続く険しい道で、二度と走りたくない道です。途中に三鈷寺への分かれ道がありますが、一気に善峯寺へ下りました。善峯寺の参道脇の樹木は大量に伐採され、河岸では改修工事が行われていました。画像の
八幡宮社から府道733号線を登って行くと、「この先行き止まり」の看板が立つ分かれ道があります。その道に入ると、急な上り坂で突き当りが階段になっています。階段の手前に橋があって、その先に「石井神社(いわいじんじゃ)」と書かれた道標らしきものが見えます。車で来て
正法寺から南西方向に進み、集落から外れた山の中に早尾神社があります。車道脇にバイクを止め、立て札方向へ歩いて登ります。5分くらい登ると山頂に、まだ新しい「桓武天皇」の石碑が建っています。この地は、大原野石作町灰谷で、古くは石作郷(いしつくりごう)と呼ばれて
正法寺へは、大原野神社の一の鳥居から少し下った所を右に曲がり、社家川に架かる朱色の極楽橋を渡って進みます。「石の寺」とも呼ばれ、参道の入口から大きな岩できれいに作庭されています。社家川の上流方向に京都第二外環状道路が見えます。道路は境内付近を通りますが、
勝持寺の南門前から塀沿いに東へ進むと願徳寺への石段があります。願徳寺は山号を仏華林山(ぶっかりんざん)、院号を宝菩提院(ほうぼだいいん)と号する天台宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第三十三番札所です。願徳寺は飛鳥時代の白鳳8年(679)に向日市寺戸に創建されまし
大原野神社から2~3分山道を進むと勝持寺への参道に合流します。合流する手前に橋が架かり鳥居が建っています。勝持寺への参道に合流すると、勝持寺まで400mとの立て札があり、緩い上り坂が続きます。途中に勝持寺に付属した小寺院跡の石塁が残されています。このような小寺
西迎寺から下ってきてバスの旋回所から左側へ進むと、大原野神社の境外摂社である樫本神社があり、第16代・仁徳天皇が祀られています。仁徳天皇87年(399)1月16日に天皇が崩御されるとその後に争いが起こりました。一部の人たちが難を逃れ、天皇の御霊を奉じてこの地にたどり
大歳神社から北西方向にバイクで約5分走った所に西迎寺の駐車場があります。墓地の前に駐車場があり、その横を東側に進んだ所に山門があります。山門から南へ進んだ所には寺号標が建っています。西迎寺は山号を安岡山(あんこうざん)と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で
光明寺から丹波街道を北上し、「宇ノ山」の信号を左折して郵便局の先で左折した先に大歳神社があります。大歳神社は京都市西京区大原野灰方町にあり、創建は奈良時代の養老2年(718)2月とされています。平安時代の『延喜式』神名帳に記載され、山城国乙訓郡の大社「大歳神社」
観音寺から東へ進み、丹波街道を北上した先の「光明寺前」の信号を左折した先に光明寺の無料駐車場があります。光明寺は山号を報国山、院号を念仏三昧院と号する西山(せいざん)浄土宗の総本山です。参道の右側に建つ「浄土門根元地」と記された石碑は、法然上人が初めて念
長法寺から下り、新池まで戻ります。池の対岸に見えるのは西山体育館です。新池から山側に登って行くと西山公園があり、今は水が抜かれていますがジャブジャブ池があります。公園の先に、コンクリート製の大きな貯水タンクが2基並んでいます。タンクを越えると三叉路に出て、
丹波街道を北へ進み、次の信号を左折した先に長法寺があります。長法寺は山号を清巖山(せいがんざん)と号する天台宗延暦寺の末寺で、京都洛西観音霊場の 第九番札所です。石段を登ると左側に多数の石仏が祀られています。右側には慈母観音像が祀られ、左側には三重石塔が建
長岡天満宮から奥海印寺通りを西へ進み、光風美竹通りを北へ進んだ右側に寂照院の駐車場があります。寂照院は山号を木上山(こがみさん/このかみざん)と号する宗派に属さない単立寺院です。仁王門は平成16年(2004)に再建されました。阿形像(像高2.41m)吽形像(像高2.39m)
長岡天満宮は、阪急京都線「長岡天神」駅から徒歩10分と交通が便利なこともあって、多くの参拝者が訪れています。正面大鳥居は、総高9.75m、笠木 12m、総重量50tの総御影石製で、平成14年(2002)に奉納されました。しかし、平成30年(2018)6月18日の大阪北部地震で北側の脚下部
勝龍寺城公園から北へ進んだ「東神足」の信号を東へ曲がった先に神足(こうたり)神社の鳥居が建っています。かって、この地は「田村」と呼ばれていました。第50代・桓武天皇は、神が天から田村の池に降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと
勝龍寺城公園の斜め向かいに観音寺があります。観音寺は山号を大悲山と号する浄土宗の寺院で、京都洛西観音霊場の第十三番札所です。山門の瓦は、何枚かがずり落ち、強風が吹けば飛ばされそうで危険に感じます。山門をくぐると左側に地蔵尊など石仏三躯が祀られた小さな祠が
京都洛西観音霊場は「洛西三十三観音霊場」、また旧称の「洛西観音霊場」とも呼ばれ、「西の岡三十三所」を前身としています。西の岡三十三所は、室町時代または江戸時代に西ノ岡丘陵を中心に開創とされました。明治の神仏分離令などにより、廃寺となった札所もあり西の岡三
勝龍寺から府道211号線へ戻って北へ進み勝龍寺城公園の堀沿いに西へ進んだ突き当りに無料駐車場があります。駐車場は沼田丸跡に造られ、井戸跡が残されています。元亀2年(1571)に細川藤孝が城を改修した時に掘られたもので、井戸の直径0.8m、深さ2mあり、四角形に組んだ角材
「ブログリーダー」を活用して、FULAFURAJUNREIさんをフォローしませんか?
八光洞から西へバイクで10分足らずの距離に常照皇寺があり、その手前には「丸山しだれ桜」が植栽されています。「丸山」は当地の地名「右京区京北井戸町丸山」によるものと思われ、京都市内で桜が散った頃、当地は桜の見頃となります。北へ進むと正面に参道の石段があり、そ
貴船神社の奥宮から北へ、標高680mの芹生峠を越えた先、奥宮からバイクで10分足らずの距離に「芹生の里」の碑が建っています。芹生の里は、上桂川支流・灰屋川(はいやがわ)の上流にあって、灰屋川に芹(せり)が自生していたことが地名の由来とされています。かっては、林
杉坂の船水の先を左折して北へ進むと「古道 若狭街道」と記されています。若狭街道は朽木を経由するものなど幾筋かのルートがあります。その直ぐ先に「氷室分れ」の標識があり、左折して北への坂道を登り、その先で下りとなって、標識からバイクで5分余りの距離に氷室神社が
北山台杉の畑の先で鷹峯街道は、直進する府道107号線と分かれ、右折して南下し、その先に地蔵院があります。山号を「桃源山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院ですが、創建に関する詳細は不明で、平安時代(794~1185)には真言宗の寺院であったと伝わります。明治20年(1887)
国道162号線を北上して、バイクで中川へ向かいました。平成10年(1998)に延長1,582mの中川トンネルが竣工し、現在での国道は集落を迂回しているため、集落内は閑散としています。日本人初のノーベル文学受賞者・川端康成(1899~1972)の小説『古都』の舞台となった所でもありま
東雲寺から東へ、バイクで20分余りの距離に四所神社(ししょじんじゃ)があります。所在地は京都市右京区ですが、カテゴリーは「京都府亀岡市~福知山市・綾部市」に含めます。天文21年(1552)に愛宕山白雲寺福寿院の幸海(こうかい)僧正が、清滝四所明神を原村の「かぶとの
清源寺の南西方向、バイクで約5分の距離に巴塚があります。源義仲 (みなもと の よしなか:1154~1184)の愛妾(あいしょう)・巴御前(ともえごぜん:生没年不詳)を祀る供養塔があります。寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で大勝し、
京都帝釈天の駐車場から南へ、バイクで5分足らずの距離に文覚池があります。神護寺中興の祖である文覚上人(もんがくしょうにん:1139~1203)が治承年間(1177~1181)に当地へ訪れ、この地を適地と村人を指導し、村人が掘削した溜池で、周囲850m、面積4.22haの大きさです。当
京都帝釈天の駐車場から南西方向へ、バイクで5分余りの距離に西光寺があります。山号を「飯森山」と号する真言宗の寺院で、山門は龍宮造の鐘楼門です。勝宝8年(756)に良弁大僧正(ろうべん/りょうべんだいそうじょう:689~774)により創建されたと伝えられています。その後、
日吉ダムの南、バイクで約10分の距離に福寿寺の駐車場があり、その先から帝釈天参道の登りとなります。参道には「願いの鐘」が設置されています。本堂石段下までの約700mに108の鐘が設置され、願いを込めて左手で叩いていけば、帝釈天に届くと記されています。また、「庚申塔
生身天満宮から北東方向へ、バイクで約15分の距離に日吉ダムがあり、ダムの手前の橋を渡り、上桂川の北側の道路を川に沿って登ればダム管理所前の駐車場へと続きますが、こちらは上桂川の南側の道路からの画像です。こちらは管理所側で、石垣に見える目印は平成25年(2013)9月
九品寺の東、バイクで10分足らずの距離に「園部城址」の碑が建っています。元和5年(1619)12月に但馬国出石藩主であった小出吉親(1590~1668)が移封され、園部藩が誕生して園部陣屋が築かれました。小麦山南東の丘陵に方形居館、武家屋敷を構え、周囲には外郭線を築いた本格的
摩氣神社から北東方向へバイクで5分余りの距離に九品寺があります。参道を入ると「天宗」と刻まれ、その奥に大日堂があります。天宗は昭和29年(1954)に開かれ、真言宗の流れを汲み、大日如来を本尊としています。東京都日野市にある日仏寺聖殿が総本山とされています。堂内に
摩氣神社(まけじんじゃ)は、JR山陰本線「園部」駅の西にあって、徒歩だと2時間近くを要しますので、当日はバイクで向かいました。園部川に架かる「摩氣橋」の畔に御神燈が建ち、徒歩ならばこの橋を渡って神社へ向かうと思われますが、現在は工事中で「この先通行止」となっ
伊夫岐神社から北へ、バイクで10分足らずの距離に長尾護国寺があります。本坊・惣持寺の近くとその下にも駐車場があり、下の方の駐車場にバイクを置きました。本坊への登り口に「長尾寺大門跡」があります。この辺りは「大門坂」と呼ばれ、長尾寺の山門が建っていた所と伝え
悉地院から南西方向へ、バイクで10分足らずの距離に太平観音堂があります。伊吹四大寺の一つ、太平護国寺が廃寺となり、当地に太平観音堂が建立され、遊行僧・円空(1632~1695)が造立した十一面観世音菩薩立像が安置されました。円空は太平寺の中之坊を拠点に伊吹山で修行を
伊富岐神社から西へ、バイクで約20分の距離に悉地院(しっちいん)があります。伊吹山は滋賀県と岐阜県の県境にあって、標高1,377mで滋賀県の最高峰です。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が伊吹の神に退けられたとの物語があって、古来から霊峰とされていました。
南宮大社の北西方向、バイクで約10分の距離に伊富岐神社(いぶきじんじゃ)があり、入口には石造りの太鼓橋が架けられています。神社付近には石器時代の遺跡や古墳なども多く、古代から豪族が住んでいたことが明かで、伊富岐神社は古代、伊富岐山麓に勢力を張っていた伊福氏
養老の滝入口駐車場から北へ、バイクで約20分の距離に南宮大社があります。第10代・崇神天皇(在位:BC97~BC30)の御代に創建され、古くは「仲山金山彦神社」と称されていましたが、美濃国府が現在の岐阜県不破郡垂井町府中に置かれたことにより、その国府の南に位置する宮と
関ケ原古戦場の「徳川家康最初陣跡」から南東方向の養老の滝へ向かうと、養老の滝への入口の手前の大菩薩寺の境内に「日本武尊史跡 当芸野(たぎの)」の碑が建っています。日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)が東国を平定して尾張国へ戻ると、伊吹山に悪い神がいる
西教寺から北の信号を左折して伊香立浜大津線をバイクで5分余り進んだ先に飯室谷不動堂があります。詳細はこちらをご覧ください。その奥に元三大師堂への登り口があります。約1時間ほど登ると横川から三石岳を経て八王子山への縦走路と合流します。縦走路へ左折して三石岳の
日吉大社の大政所から伊香立浜大津線を北へ直ぐの西側に西教寺の総門があります。高さ6.4m、幅5.6mの門で、明智光秀(1516~1582)によって築かれた坂本城の城門が天正年間(1573~93)に移築されたと伝わります。昭和59年(1984)に修理が施されましたが、形はそのままの姿で復元
八王子山から下り、西へと進むと神輿収蔵庫があります。延暦10年(791)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の詔により二基の神輿が奉納され、延暦寺の面目がつぶされたり、何か不利なことが起こると日吉神社の神輿を担ぎ出し、京へと繰り出し強訴しました。「神輿振り」と呼ば
坂本城跡公園から北西方向、京阪電車石山坂本線の「坂本比叡山口」駅の直ぐ西側に生源寺があります。山号を「比叡山」と号する天台宗の寺院で、「伝教大師生誕の地」です。父・三津首浄足(みつのおびときよあし)の居館跡であり、最澄(766or767~822)はここで誕生し、境内に
七本柳鳥居の直ぐ北側に坂本城跡公園があります。本丸跡は企業の所有地、二の丸・三の丸跡地は市街地となり、この公園は城外の当時は琵琶湖中で後世に埋め立てられた場所にあります。公園には明智光秀(1516~1582)の像が造立されています。坂本城は元亀2年(1571)の織田信長(1
近江神宮から北東方向へ、バイクで10分弱の琵琶湖岸に唐崎神社があります。日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまるのすくね)がこの地に居住して「唐崎」と名付けました。第38代・天智天皇6年(667)に大津京へ都を遷した天皇は
弘文天皇陵から北へバイクで約5分の距離に近江神宮の一の鳥居が建っています。社号標は近江神宮奉賛会の初代会長で、第34・38・39代内閣総理大臣などを歴任した近衛文麿(このえ ふみまろ:1891~1945)の筆によるものです。一の鳥居は、第二期工事の昭和19年(1944)に建立さ
近江今津港から南へ、バイクで20分弱の距離に白髭神社があります。国道161号線に面し、全国に約300社に及ぶ白鬚神社の総本社で、「琵琶湖とその水辺景観」の構成資産として、日本遺産に認定されています。社伝では第11代・垂仁天皇25年(BC5年)に倭姫命(やまとひめのみこと)
本堂から石段を登ると三十八所権現社本殿があります。慶長年間(1596~1615)に淀殿(1569~1615)により、石山寺の復興が行われた際に石山寺の鎮守社として「石山寺硅灰石(けいかいせき)」の上に建立され、国の重要文化財に指定されています。初代・神武天皇(在位:BC660~BC5
建部大社から瀬田の唐橋を渡り、瀬田川右岸を南下した先、バイクで5分余りの距離に石山寺があります。画像は平成30年(2018)11月参拝時のものを使用しています。石山寺は山号を「石光山」と号する東寺真言宗の大本山で、西国三十三所観音霊場・第13番、神仏霊場・第146番など
瀬田の唐橋から東へバイクで5分弱の距離に建部大社があります。社伝では、第12代・景行天皇46年(116)に日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の妃・布多遅比売命(ふたじひめのみこと:生没年不詳)が神勅により、日本武尊を祀ったのが始まりとされています。当初は御子
水のめぐみ館アクア琵琶から瀬田川左岸をバイクで約5分北上すると右側に「瀬田城跡」の碑と「勢多古城地碑」が建っています。瀬田城(勢多城)は、「山岡城」とも呼ばれ、永享元年(1429)に山岡資広(すけひろ)が南の大日山に城を築き居城としました。第9代城主・山岡景隆(15
立木観音の駐車場から瀬田川沿いに、バイクで5分弱北上した左側に南郷公園の駐車場があります。駐車場から道路を横断すると「皇后陛下行啓記念碑」が建立されています。第123代・大正天皇(在位:1912~1926)の貞明皇后(ていめいこうごう:1884~1951)が大正11年(1922)11月1
佐久奈度神社から鹿跳橋まで戻り、瀬田川右岸を北上した直ぐ先の右側に安養寺の駐車場があり、駐車場から道路を横断すると「立木観音参道」の碑が建ち、810段の石段が連続して続きます。かっては南郷から2kmの登山道が参道となっていましたが、約150年前に京都の町衆により、
東笠取から南へ下り、瀬田川沿いに東へ進み、鹿跳橋を渡って進んだ先に佐久奈度神社があります。東笠取からはバイクで20分弱の距離です。佐久奈度神社は第38代・天智天皇(在位:668~672)が大津京へ遷都したのを機に、天智天皇8年(669)に勅願により中臣金(なかとみ の かね
奥宮神社から南へ進み、山道へ入って正法寺へ向かいます。奥宮神社の標高は400m、正法寺は標高443mの岩間山の南麓、標高390m辺りに立地し、標高差は僅かで、所要時間は約10分です。正法寺の手前に動物の防護柵があり、それを入ると正法寺の境内と思われます。防護柵から入り
東笠取清瀧宮から下ると電柱に「宇治市 東笠取」と表記されています。その先に奥宮神社・岩間寺(正法寺)への道標が立っています。電柱に張られてた岩間寺徒歩参拝道路図。バイクを路肩に置き、集落の最上部まで登ると、奥宮神社と岩間寺への登山道が左右に分かれ、奥宮神
瀬田川を宇治から上流へ向かって進むと、道路が左岸から曽束大橋(そつかおおはし)を渡って右岸を走ることになりますが、直進して府道242号線へ入り、その先で京滋バイパスの笠取インターの方へ進み、その先を右折して西笠取川沿いに北上して西笠取清瀧宮へ向かいました。曽
宝巌寺から舟廊下を渡った所に都久夫須麻神社の本殿が鎮座しています。永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。撮影は禁止されていましたが、こ
近江今津港発9:30発の船に乗り竹生島へ向かいました。現在では竹生島往復の料金が3,000円となっています。今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で往復の料金は3,000円、長浜港からは乗船時間が約35分で、往復の料金は3,400円です。彦根港からはオーミマリ