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2019/07/09

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  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    薬師寺を想う詩人、歌人は多い、その中の一人・佐々木信綱:逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲:この歌が私は大好きです。さて今の薬師寺は藤原京から平城京に都を移築されたものですが今に残る東塔の美しさは人の心に暖かいものを投げかけるようです。薬師三尊、聖観音は有名ですが、池の中にある仏足石を拝むと悪行の数々が許される伝説もあり、神社仏閣に伝わる伝説はとても楽しいものです。このお寺は持統天皇(当時の鵜野皇后)の病気回復を願う天武天皇の建立と言われていますが、その背景はとても面白く天武天皇の命日10月10日は今の僧侶達は天武天皇、持統天皇、その息子草壁ではなく大津皇子の3人を弔うすです。伝説によると持統天皇が謀殺した大津皇子の怨霊を恐れ、息子の草壁ではなく、姉の子供を自分が殺めた良心の呵責を補うかのよ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    現場に立つと体感と五感で感じるものが必ずあります。子供から高齢者まで、その道の歴史学者でも素人でも、どんな精神状態な人、健全でも心の病があっても、本人がふーん、と思うような、ささいな感情には、どんなものにでも深い意味があります。比較文化・比較宗教学の基本に基づいた心理療法を研究していきますと、その小さいと思われるインスピレーション、直感、想い、気分には深い意味があることが段々と分かってきます。私が唐招提寺を訪れあちこち歩いている内に、冷遇されているにも関わらず、その日々に大きな意味を見出し、錯乱することもなく10年を某大学病院で経過した人生体験を思い出しました。さて西暦759年(天平宝字3年)唐招提寺を建立された唐の帰化僧・鑑真さんも色々本を読みますと自分を招いた長屋王は既に謀殺されていて藤原氏が天下をと...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    金峯山寺、これまた面白い歴史を持つ山寺です。きんぷせんじ、と読みますが修験道の根本道場です。修験道は日本人のアイデンティティに大きな影響を与えています。日本は古来から山を神聖なものとしてとらえて生きてきました。仏教や儒教が日本に入ってきますが、どうも満足出来ない信仰の領域がありました。持統天皇の時代に役小角(えんのおずぬ)という修験道の開祖がいます。山岳宗教の完成者というか中興の祖、というか不思議な人物です。699年に弟子の広足が世を惑わす妖怪な人物という事で訴えたので小角は伊豆に流罪されます。この役小角は非常に面白い人物で映画、小説で大活躍ですが、もともと神聖な山であった吉野を更に修験道の根本道場として、この吉野金峰山寺は今でも信仰の大事な対象となるお寺です。大分前ですが、このお寺を6月頃、NPO法人の...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    この吉野宮滝遺跡は語り出したら何冊もの本になりますが、私は持統天皇が何故、この吉野をしばしば訪ねたのか、想像すると胸がどきどきしだしますので、途中で空想を止めてしまいます。時間がいくらありましても空想が途絶えないからです。松本清張さんの有名な小説「火の路」にも登場しますが、この吉野は源義経と静御前の話にも、徳川家康の歴史にも、まあ、とにかく沢山登場する山道があります。吉野は日本の歴史に実に沢山の夢と刺激を与えていますが、今回は持統天皇の吉野宮に想いをはせましょう。どんな自然環境か今のところ、写真でしか見ていませんが、さてこの吉野に持統天皇は日本書紀の記録によると夫である天武天皇が死亡した686年以降、つまり692年、47才のころから訪問しだし55才までの8年間、異常なほどに吉野を訪ねています。これはただご...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    持統天皇の人生は戦いの歴史でもありました。普通ならもう嫌になり全てを投げ出す環境なのですが、サッチャー首相が鉄の女と呼ばれたように、持統天皇もまさに鉄の女でした。この生き抜く意欲は何だと思いますか?実に逞しいもので、時代を超えて教えられます。ストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱)を乗り越えていく逞しさを学びましょう。それを支えたものは善悪を超えて考える必用がありますが、何らかの夢,願い、想いです。どの時代も燃えるような願望が一人の人間を燃え立たせ生き抜く力を与えます。どの歴史書を見ましても藤原不比等と持統天皇の関係は面白く、そこに存在するかけひきは実に物凄いものがあります。藤原氏は新参者ですので在来の豪族(物部氏系、蘇我系など)は周囲を固めている中で、やっとつかんだ天皇一族に必死でもたれかかり利...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    中臣鎌足はもともとは百済の皇子様で日本に亡命してきている人、という噂も楽しいお話・伝説の一つですが、縄文時代から在来の人々を追いやって滅ぼし、その上に権力を樹立し、日本をを支配していく藤原氏の歴史上の事実は誰も否定できません。一人の人間が一つの志をたて、その機会をうかがうのは人間の自由ですし、その結果が人類の歴史ですので、談山神社のお話は目くじらを立てないで楽しみましょう。或一人の男が機会を狙っています。当時の有力な人に目をつけていて、その人に近づきたいのです。法興寺での蹴鞠の席で、この機会が到来します。中大兄皇子が蹴鞠で靴をすっとばします、それを鎌足がひろい皇子にささげ、これを契機に仲良くなっていき大化の改新が起きるのですが、その秘密の計画を練ったと言われている場所が多武峰(とうのみね)の談山神社でした...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    歴史上の解釈は、どうか皆さまが自由に楽しんで下さいませ。私が何故、持統天皇に心が癒されたのかを意識化してみます。女性は豊饒の源、命の母でもあり、私は母の愛情に今、どれだけ心から感謝しているか言葉になりません。もちろん冷静な父にも感謝していますが、ここでは持統天皇について思索をしているのでマザコンかなあ、等と考えないで下さい。持統天皇は夫が死ぬと藤原不比等に操られたかのような言動もありますが、この二人の間には古代の、縄文時代のやまとびと、と百済からの帰化人でもある藤原氏の戦いがあります。藤原不比等は大化の改新の時、成功した中臣鎌足の子供なので、壬申の乱の時は姿を隠していたわけですが、何故か、天武天皇に大事にされている所が不思議な歴史です。蘇我氏でもある持統天皇、その蘇我氏の敵である藤原不比等、この微妙な関係...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    初代神武天皇からの126代目の今上天皇の内、女帝が8人おられます。邪馬台国の卑弥呼と台与を入れると10名ということになります。あなたは女帝はお好きですか?私は日本の歴史に8名の女帝がおられるので解釈が豊かになりとても楽しくてたまりません。さて明日香を舞台に毒殺、陰謀が飛び交う時代になりますが、私達の勉強仲間では持統天皇のケースレポートを書く課題があり、日本人のアイデンティティを思索するにはこの女帝を調べないと現代の日本人の悩みを上手に解決出来ない領域があるのです。古事記、日本書紀、万葉集はこの女帝の頃ですが、勉強するほど、この女帝は面白い意味を日本歴史に与えているのです。火葬にされた最初の天皇でもあり、壬申の乱に夫・天武天皇にぴたりと寄り添い吉野の山中を巡り、まるで妻というよりは政治の同志、戦いの同志のよ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    首題の歌は古今和歌集からのものですが、飛鳥の歴史が私達人間の栄枯盛衰、万物流転、その「もののあわれ」を語りだしています。もののあわれ。この美意識は私達日本人を幸せにしたり不幸にしたりしていますが、もののあわれをキチンと意識化しないと、時々人の生命を簡単に奪ってしまいます。美の世界に魂を導入したり、自死させたりする思想でもあります。甘えの構造、汚れと禊、もののあわれ、この3つは確実に古代日本人を支配した思想ですし、現代にも確実に遺伝されている思想でもあります。首題の和歌を皆さまはどう感じますか?この和歌の中に日本人のアイデンティティーの主要概念がありますので、まずは鑑賞しておいて下さいませ。この和歌が現代人の私達に何を感じさせるか?現代の私達の生育史により、解釈がどう変化していくか、この違いを楽しみながら思...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人類誕生以来、色々の不安感や怒り等のストレスが蓄積されていくプロセスは想像がつきますが、ここ明日香に何故、日本最初のお寺・飛鳥寺・が誕生したのでしょう?明日香には帰化人が沢山住んでいました。以前は物部氏が権力を握っていましたが、蘇我氏が戦で権力をもぎ取ります。そして飛鳥寺が日本最初のお寺として歴史に登場します。物部氏と蘇我氏の戦いの弔いが飛鳥寺なのでしょうか?今の戦争とは規模が違いますが、当時の日本は案外平和でした。縄文時代は山岳宗教が大事にされ、平和を愛し、出雲に地方各地の豪族の長が集まり、そしてまた、地方に戻る生活が数千年継続されていたようです。帰化人は高い知識と技術を伝えてきましたが、激しい戦いの技術も日本に入りだします。明日香は歴史に残る血なまぐさい一ページ(大化の改新)のさきがけとなりました。こ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私達の祖先、祖父母たちが何かに目覚め「さあ、いよいよ」とうごめきだしたのが「大化の改新」だ、と私は考えています。奈良時代の総人口は約600万人といわれています。現代にいたる長い長い戦乱の中で、当時の庶民は殆ど滅び、現代まで生き延びた大和人は「源平藤橘」の流れだと言われていますので、まさか、と思われるかもしれませんが、現代人の祖先はこの4つの流れに関係しているらしいのです。2のX乗が、私達一人一人の祖父母たちの総累計数です、例えば2の一乗は2、つまり両親の数・2です。2の2乗は4、つまり祖父母の数、このように2の45乗は、と計算していくのです。学者は1世代30年で計算していますが、大化の改新は645年、現代2013年、2013-645=1368年、これを30で割ると45代前の直系の祖父母の誰かがその頃、生き...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    アスカという言葉はミソギという意味があると聞いた事があります。何故、その意味があるか、という定説は全くないようですが、どなたかご存じでしたら是非、教えていただきたいのですが、私がアスカを旅する時、必ず私の心はすがすがしくなるのが昔から不思議でした。10万年程前は確実に奈良盆地は大きな湖で、畝傍山、耳成山、香久山が小さな島として存在していたようです。古代に日本人は山は聖なる山で、水も清めの意味があり、水に対する信仰は富士山と同様でした。こんな文化からアスカと禊は深い関係があり、そこを旅する私が何となく清々しい気分になるのではないか、と推察しています。明日香は聖なる大地のようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    土地の人々は明日香、と呼んでいるようですが、私としては何となく飛鳥、のほうがなじみ深い気がします。飛鳥は何とも魅力的な土地ですが、飛鳥と書いて何故に「アスカ」と呼ぶのか、不思議です。調べると実に色々の事が書かれていて困ります。しかし、私が大好きな解釈は古代人が鳥が飛び立つ瞬間に、「アッー」と思ったので明日香の枕詞として「飛鳥」となった、というお話が大好きです。暫く飛鳥寺の話に移る前に、この土地の話を楽しんで下さい。明日香を旅しますと、ほぼどんな人でもストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱)が激減していくのは何故でしょう?「飛鳥」という言葉の解釈の中に「禊:ミソギ」の意味があります。「言葉」は「言魂」に通じますが、この飛鳥について暫く思索していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大和三山に囲まれて誕生した藤原宮は持統天皇の時代ですが、色々の本を読む内に、どうもラクダも居たようです。どんな想いで当時の人々がラクダの姿をみていたのでしょう?国際都市でもあったようで夢がどんどん拡がります。昭和の初め、発掘調査中、ラクダの臼歯が見つかり話題をさらったそうです。色々問題が出てきて、わずか16年で平城京に移っていきますがこの持統天皇の頃は日本人のアイデンティティーが形成されていく重要な時代でもあります。もののあわれ、汚れと禊、の意識は今日の日本人の大事な性格の一つですが、万葉集、古事記、日本書紀を勉強すると、いかに日本にとり大事な時代かわかります。万葉集は心理療法でも時として応用使用される本ですが、現代に生きる私達は飛鳥奈良時代を心のふるさととして眺めると厳しい今の時代に生きる日本人の心に非...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    万葉集に出てくる有名な長歌ですが首題の3人が争う長歌で、この歌を詠んだのは中大兄皇子です。「香具山は畝火を愛しと耳梨と相争いき神代よりかくにあるらし古昔も然にあれこそうつせもも嬬を争うらしき(巻一)」この妻争いが原因で壬申の乱が、という学者もいるくらいです。さて、この中大兄皇子も、アボノオオカミを十分認識していたようですし、古代の人々はアボノオオカミについては庶民にいたるまで常識だったようです。現代の小学生でもこの大和三山の神聖さをしっていますが、ギリシャ神話での神々の愛や争いの事例のおかげで、どれだけ多くの人類が「自分は変だ」と発病していくのを防げた事か!愛の孤独感の苦しい心の世界で、益々、孤独感にさいなまれ、発病していく人類は後を絶ちません。病理論の勉強も大事なのですが数千年繰り返している類似事例を神...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分の解釈の傾向をどの視点から思索するのが学問なのでしょうか?生き甲斐の心理学では色々の視点で自己分析していきます。大きく分類すると6つありますが中高生でも理解出来る範囲で解説していきます。先ずは日々のストレスをどう解釈しているか、その傾向を分析します。自分の傾向を意識化するのはとても難しく、三つ子の魂、百までも、と言われますように、この自分の傾向を冷静に分析出来た人は居ないとまで言われている領域です。といいますのは、本能的に厭な事を避けて生きていかないと、人は人格破壊するからです。心地よいものを選ぶのが長生きのこつですし、ストレスから身体症状にならないように生きるのが人間業のお勤めでもあるからです。敢えて居心地の悪い環境を選ぶのは愚か者の仕業です。この大事な自己愛が人類を今日まで保存させてきた本能です。...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分の身辺で起きる森羅万象、友人関係、経済、政治、仕事上の実に沢山の現象を自分はどう解釈して生きてきたのでしょう?その過去の解釈が将来の自分の幸せを支配しています。暗く解釈する人は死ぬまで暗い解釈するかもしれませんし、明るく解釈する人はあくまでも希望と情熱を持って臨終まで生きていくかもしれません。息を引き取る人の「死に際」も、同じようです。この自問自答は古来から神話にまでなつていますので、一番有名な自問自答「自分の体験の解釈の傾向をどうおもうか?」から突入していきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    庶民である私の大脳の中には幼少時代の教育もあり橿原神宮や神武天皇御陵は何となく神聖で、かつ、日本人である私のアイデンティティー統合の一角を占めているようです。歴史の勉強をしている人々の書物を読めば読むほど、この二つの歴史は、さもありなんと、あまり真実という視点からは庶民の対象外のようです。しかし、もし、この二つがないと私の心は落ち着きません。それはともかく、現場に立ちますと、神聖な気分にはなりますし、日本人としての安定感を感じます。橿原神宮は1889年に明治政府が建立しました。神武天皇御陵は古事記、日本書紀に神武天皇御陵の位置は示唆されてはいますが、宮内庁が治定管理している沢山の御陵は「文久の修陵」の際に決定されたものです。江戸幕府も明治政府も、御陵を確定するのに色々苦労されたようです。この私のブログは日...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    奈良の観光を楽しむ中で、興福寺の存在は大きいのですが、ボルジア家の歴史も光と陰を内在させているように、興福寺も芸能の発達と油座をはじめとする日本の経済基盤強化の歴史にも大きな歴史を残しつつ中世紀の大和経済ばかりでなく鎌倉幕府を上手に利用して、その勢力を伸ばしています。お能の世界でも興福寺は円満井座(金春流)を育てたりしています。お寺を訪問する前に色々調べていきますと、私の心はとても豊かに楽しくなり、幸せを感じます。法隆寺の歴史も不可解なものが沢山あり、また興福寺の歴史は膨大すぎて、どこから手をつけたらいいか、迷いますが、面倒な方は一度、ぶらりと興福寺を訪問しあちこと散策する内に五感と体感がぞーっとする部分があったり、優雅な香りとともに幸福感を感じたりする微妙な瞬間があります。その五感と体感で感じた辺りをぐ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    平家物語の数々の名場面の中でも3500人くらいが焼け死んだと言われている平氏焼き討ちの興福寺ですが、その後、源頼朝の庇護のもとに興福寺は勢力を盛り返します。日本文化の伝統の維持にも興福寺は大きな貢献をしています。さて、焼き討ちされて生き残った僧兵が何と山田寺を襲い、人さまが大事にしている薬師如来を略奪し、自分のお寺にすえた事件は有名で、今、興福寺にその略奪した薬師如来の首だけが保存されています。何故、首だけなのでしょう。その首を見ますと、うわーと声がでるくらい驚くと同時に、人間の悪行というか、そのあたりの歴史を想うと、複雑な感情になりだします。興福寺の歴史は人間の光と陰、歴史の表と裏を語り続けます。皆さまも是非、この首をご覧になる時、平家物語とその後の僧兵の山田寺襲撃事件を想いつつ、歴史を思索してみて下さ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    奈良・猿沢池は東大寺はじめ興福寺等古代歴史を思い出さしめる重要な場所で、かつ池の風景を回想するだけで非常に心地よいのですが、日本の大学に入った頃、まだ高校生時代を思い出す頃は、猿沢池という言葉だけでも、実は嫌な思い出がありました。昭和50年代の頃の話ですが新潟県長岡からの高校時代の修学旅行での出来事です。私は終戦と同時に、神奈川県葉山町から疎開先の山村に小学3年生の移住しましたが、その頃、私を虐めた少年が同じ高校に来ていましてその嫌な少年も当然ながらの修学旅行でした。その旅行先の自由時間の散歩で、猿沢池のほとりでばったり遭遇、私にいちゃもんをつけてきます。小学生の頃は数名で私をいびった少年でしたが、その頃の私は、内々で柔道を身に付けて復讐の機会をうかがっていましたので、これ幸いと猿沢池に彼を背負い投げでぶ...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    大部前のお話ですが、テレビ録画の為に1年間京都のスタジオに通い翌日は年来の憧れの京都神社仏閣を始め京都大学や鴨川、船岡山、吉田神社等の歴史散歩を楽しみました。2010年暮れから2011年のお正月にかけてのパリやモンサンミッシェルの旅も我が人生での最大の良き旅でしたが、ここでの感動と日本での感動は、どこか違います。同じ魂の感動ですが、成育史上の何かが、その違いの原因だ、という事は私にも理解出来たのですが、この生まれた国のまほろば、奈良京都は何故にこれほどの大きな感動を私に与えたのか、その意味を暫く思索していこうと思います。比較文化論・比較宗教学の視点から私の心を分析しながら、何故にこのような魂のレベルでの深い生き甲斐を感じたのか、それを考えてみたいと思います。この京都探索の機会を与えてくださったマクドナル神...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分が幸福感を感じれば感じるほど、周囲が不幸になり、かつ、周囲が不安感にさいなまれている現実に気付く人ならば、問題はないでしょう。今まで申し上げてきたような人生が存在しているからです。長年、必死で思索し、獲得すべく努力をして勉強し、遂に手に入れた自分の生き甲斐。そのお陰で自分はいきいきしているけれども、周囲はやっかんで、イライラしたり、嫉妬したりしている場合も非常に多いのです。努力不足、知恵不足、僻み根性のある人々が大半な世の中ですので、自分の幸福感を何よりも大事にしている人の場合、周囲がウットオシク、かつ、めんどくさい場合があります。そんな場合は要領良く生き抜く知恵も必要なようです。哲学の努力もしない周囲の愚かな人々も沢山存在しています。結果だけを見たり、表面だけを見て、その人がどんなに苦しみ努力をして...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    青年時代、私の為に某大会社の社長さんが私を支援してくださいました。しかし当時の私は、色々の事情を感じて、その支援して下さった社長さんの期待を裏切り、別な道を歩き出します。天国でお会いした時に、互いにその事情を許し合っているとは思いますが、生きているこの世の常識では、やはり期待を裏切った事を詫びて土下座したい気持ちなのです。別な道を歩み出した自分があって、今の仕事を数十年しているわけですが、社長さんの期待に沿って生きたならば、私は多分、精神病棟で生活する羽目になつているような気がします。別な道を歩き出した私の心境には裏切り者という自責の念もありましたが、何と幸福な道だろう、と天にも昇る幸福感を感じていました。ですから自分が幸福感を感じていて、周囲が不幸になっている自責の念があるとしても、やはり一度しなない自...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    この幸福病については私もしばしば行っているので、皆さまは、そう深刻に考えないで、気楽にお読みください。なぜ、このような思索をするかといいますと、出来れば私が「幸福感」を感じたら周囲も幸福感を感じるような、そんな生き方がしたいからです。高校生の頃、小学生時代後半、疎開先で私をいじめた子供が高校に入ってきて、さっそく虐めの対象にしたそうな気配と動きがありました。私はもうこりごりでしたので、逆に居直り柔道部に入り勉強をしないで腕を磨き、逆に喧嘩をうっては相手を張り倒していきます。私は幸福でしたが周囲は不幸でした。「生き甲斐の心理学」ではこの事例をどう解釈しているでしょうか?異常にストレスが蓄積した場合、私のようにして発散する少年もいれば忍耐、また、忍耐して大人になる人もいます。私の生育史は軍人の家庭でしたから「...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    本人が幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感の5つ)を感じれば感じるほど、その人の周囲がストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の5つ)を感じる事例について思索していきます。何故でしょう?本人は幸福なのですが、周囲は不幸。この本人の姿を俗語ですが幸福病といいます。この思索テーマを考えだした途端に、非常に面白い解釈が出来るようになります。恥ずかしいのですが、我が人生での事例を明日から語りますので、共に思索して、互いに幸福になる道を模索していきましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    どんな人生でも思い出すと幸せな気分になる過去の思い出もありますし、思い出すのも嫌な事例もあります。この両極端の事例を意識しておくとセルフコントロール、特に自分を最大のストレスに追いやる気分と最大の幸せになる気分の識別が出来るようになります。プロセススケールの一つで、この両極端の二つの事例は光と陰、表と裏の関係ですのでとても大事なものです。己の分をわきまえる、知る、己の限界を知る」、これはプライドのある人間には中々出来ない事ですが、幸せな人生を送る為の、とても大事な修行方法の一つなのです。この両極端の思い出から自分の限界を意識化しておくのです。五感と体感が大事で、理性も大事ですが、この身体で正直に感じる「嫌なもの、心地よいもの」を言葉にする必要はないので、心の奥深くの領域で、大事にして、生きていきましょう。...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人は考えた通りの人間になる、この哲学は、どうも本物のようです。自己肯定、他者肯定の共存共栄の思想を持てない人は、どこに生活しましても自分を腐敗させていきます。共存共栄の思想は結局、自分を幸せにしてくれますが、具体的にどうすることが共存共栄なのか、本人にしかわかりまん。この努力なりの成果が、その人の人生ですが、自分の不幸感を他者のせいにする哲学は永遠に幸福になれないと言う事です。どんな人生でも他者のせいにする事がそもそも幸福感と感謝がうまれない理由です。まずは「人は考えた通りの人間になる」哲学を生きてみて下さい。何かを悟ります。狂うか狂わないか、その選択は自由意思を所持する人間の問題でもあります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    どの程度のストレスが自分を狂わせるか?このテーマで数回、思索していきます。遺伝、環境、老化、自律神経、免疫、分泌の6要素が背景にありますので、ここでは自意識上の問題、自分の心がけをどうしたらいいか思索したいと思います。この「どんな程度のストレスが人を狂わせるのか?」と言う課題を今まで意識していなかった人が、今回から、この問題意識を所持したとたんに、その人に必要な心構えを大脳が考え始めます。問題意識がうまれた途端にその答えをその人に相応しい対応を、大脳が考え始め、かつ、模索し出すのです。このどんな程度か、という答えは過去の幸福感と不安感の事例を「気楽に楽しく」思い出す努力が必要で、深刻に暗く考えださない努力が必要です。幸福感と不安感の事例を思い出すと、その分かれ道前後の感覚が何となく想いだされてきます。不安...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    病棟で見る心の病の人々の姿はとても辛いものですが、色々と対応して何故こうなったのか?その理由は病理学者でもそう簡単にわかるものではありません。このブログでも難解なテーマですし誤解と混乱を与えますので書けませんが、ただこころがけとして、どんなふうに考えたらいいのでしょう。他人のことではなく自分の事として思索を深めていきましょう。本来、ストレスは恐れるに足りないものなのです。何故、私がそう言い切れるかと申しますと、私は宇宙を創造した全知全能の神様は愛そのものだ、と習いました。愛そのものである神様が人が苦しむ事を望むはづがありません。しかし現実には相当の苦しみや悩みが自分にあります。例えば自分の死です。何とか信仰の力でカバーしてはいますが出来る事ならば死にたくありません。老後のお金の問題も不安材料の一つです。し...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

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